第38話
「君を撮りたい」さっき別れたばかりの帰り道、久志はこの日一番言いたかったことを、交換したばかりのメールアドレスを入力し、メールで伝えた。
「君はメールじゃないと、そんな大事な事を言えないのかな?別れたの、ほんのついさっきだよ」
返信はすぐに来た。恥ずかしさを超える嬉しさが胸に満ちていた。そうして次の日も同じ場所で春奈と会う約束を交わすことに成功した。
翌朝、春奈の登校を心待ちにしながら彼女が教室に入ってきたらどんな顔で話しかけようかなどと考えていると、彼女が何となくいつもより彼女の登校が遅い気がし、メールをしようと携帯を取り出す。
そもそも彼女はどのくらいの時間に登校していたっけ、と考えながら今の今まで関心がなかった事をわずかに悔やんだ。
すると、まるで久志の心を呼んだかのように春奈からメールが来る。
「私が席にいない事に気づいてくれた?なーんてね。今日の一限は欠席します。でも約束はちゃんと守るから安心してね」
春奈の席には他のクラスから来ていた宮地が座っていた。数人の女子に囲まれながら一際大声で話していた。
あんな風に席を陣取られていたら、退いてくれって言いにくいだろうな…と心配していたが、その必要がなさそうなので一安心した。
携帯が再び震える。春奈からもう一通メールが来る。その未読のメールを見るたび、胸が甘くくすぐられるような心地の良さを覚え、何度でも味わいたいと思えた。
「それと、学校ではいつも通りの私と新木くんとして過ごしましょう。君はいつも通り私を空気だと思って過ごしてね。理由は、まあなんていうか、そっちの方がお互い過ごしやすいと思うからさ」
文面だけ見れば、少し冷たく、自己犠牲的で寂しい内容かもしれない。けれど、その語尾や、文字と文字の間に何とも明るい絵文字で彩られていた。
それは、必要以上に親密になった違和感を周囲に気づかせる事はあえてせず、人知れず昨日のような関係を続けられればいいと言う彼女の提案で、決して自分を避けているのでは無いのだと、久志は解釈した。
「うん、わかった。なんか気を使ってもらってごめん。じゃあ、放課後、楽しみにしてるね」
一限目が終わり、内藤と藤巻と廊下で駄弁っていると春奈が向こう側からやってきた。
特に見向きもしない二人を差し置いて、彼女の内履きがスリッパに変わっていたことに久志は気づいた。
「おい久志聞いてんのかよ?」「ああ、ごめん。エルレのアルバムなら全部持ってるよ。レンタル一枚200円な」「ついに商売始めやがったコイツ」
妙な胸騒ぎがした。教室を覗くと春奈が徐に腰を下ろした席の斜め前にいた宮地の取り巻きの一人が俯く春奈の足元を見て不敵に笑んでいる。
心なしか、彼女達のひそめた笑い声を受けて、春奈の小さい背中が硬直したような気がした。
放課後が近づくと授業中に春奈からメールが来た。
「神社に先に行って待てて。私もすぐに行くから」
今日一日、今朝の春奈のメールの提案通り過ごしてみて感じたのは、なんとも言えない虚しさと行き場のない悔しさだった。
春奈はクラスの隅で、相変わらず涼しい顔で読書をしていた。その表情はいつもよりも硬く、いつものような余裕と鷹揚さがないと思った。
昨日のあの笑顔が頭の中で泡のように弾けて消えてゆく。
本当の彼女じゃない彼女は、クラスの隅で、まるで自らその姿を暗ますカメレオンのようにその存在感を消そうと意識しているように見えた。
久志は春奈に話しかけたかったが、どこか、いつも以上に近寄りがたい雰囲気を感じ、結局何もできなかった。
会話出来たところで、クラス中の注目を浴びながら稲木神社の時のように明朗に話す度胸など最初から無いのに。
放課後。急ぐ必要もなかったが、少しでも昨日のような時間を過ごしたくて、どこか焦る気持ちを抑えながらチャイムが鳴ると同時に稲木神社へ急ぐ。今日は家からカメラを持参していた。
夕刻というにはまだ日が高い。
社の縁側に座って木漏れ日が揺れる木陰で春奈を待っていた。視線を感じて顔を上げると一匹の野良猫がこちらに歩いて来るのが見えた。
肉付きのいいお腹を揺らしたその野良猫はきっと近所で世話をしてくれる誰かが居て、人に慣れているのだろう。猫は久志を一瞬だけ警戒したが、すぐにコイツは無害だと理解したのか、重そうなお腹の贅肉も軽やかにジャンプし、久志の側の縁側に飛び乗った。
そして目の前で太々しく毛繕いをし始める。
久志はカメラのシャッタースピードダイヤルを回し、レンズの絞りリングを回してF値を決めるとフィルムレバーを起こした。
ファインダーを覗き、レンズのピントリングを回して猫にフォーカスし画角を決めた。どこか雨の匂いを漂わせた風が吹いて、葉擦れの乾いた音が耳に触れる。
35ミリの画角のファインダーの中に、猫に伸びる白い腕が写った。そしてその腕の持ち主の姿が現れ、猫に顔を近づける。
猫も彼女に鼻を寄せてから、何を思ったのか猫は招き猫のように彼女の鼻に肉球スタンプでも押すかの様に、もふもふの手を伸ばした。
乾いたシャッター音が鳴る。不意に現れた春奈に緊張しているのか、振り向く彼女を連射するシャッタースピードのように、久志は心臓の動悸が早くなる。
「猫に浮気されちゃった」春奈は口を尖らせて言う。そして猫を撫でながら柔和に頬を持ち上げ、目を細めた。
「いやいや、この太々しさは絶対雄だろ」
「うわ!女の子だったらすっごい失礼。逞しい乙女かもしれないじゃない。ねー」
「にゃーん」
猫は太い声で返事をする。背中と尻尾の間を撫でられて気持ちいのか、猫は尻尾をピンと貼って満足そうに目を瞑りながら何度も太い声で鳴いた。
春奈は猫の鳴き方がおかしいのか、こぼれ日を浴びてキラキラと笑う。久志はそんな二人を何枚かフィルムの中に閉じ込めた。
「猫っていいよね、なんか楽そうで。私生まれ変わったら猫になりたいかも」
笑みを浮かべ、風に溶けていきそうに、儚く笑う横顔に、久志は今朝の春奈に対する違和感を思い出して、胸がチクリと痛んだ。
「ほらみてよこのお肉、ダイエットとか言う概念がきっと猫界ではないんだよ。太っても愛されるとか生物としてチートだよね」
春奈は、ぽよぽよと猫の贅肉を揉みしだいた。
境内周辺には、形骸化した公園と鬱蒼とした木々しかない。
春奈を撮るには背景が暗く寂しすぎると思ったが、それは飛んだ杞憂だった。
春奈は、遊具で遊ぶ振りをしてもらうだけで画になった。公園の遊具はどれも、子供の頃の記憶よりずっと小さくなっているように感じた。
明るかったはずの黄色や赤が、風化したことにより見窄らしくりペンキが剥がれ、錆びた匂いが少し鼻をついたが、ブランコや少し窮屈に感じる滑り台は、不思議と子供心を呼び寄せた。
遊具の懐かしさに久志はうずうずしていた事もあって、春奈に誘われると、いつしか二人とも本気の遊びに発展した。
数年ぶりに乗るブランコ。遠心力の爽快感が懐かしく、二人とも思わず子供のように笑い合った。
公園にある一番高い鉄棒すら目の前にすると低過ぎて、久志は子供の頃はあんなに簡単にできた逆上がりが容易に出来なくなっていた。
しかし、いとも簡単に逆上がりをこなす春奈に、久志は己の体力の減退を思い知らされた。
いまだに名前が分からないが、格子状の球体でクルクル回転させるあの遊具。二人は、馬鹿の一つ覚えのようにそれをひたすら回してライドオンし、子供顔負けの無邪気な声をあげながらはしゃいで遊んだ。
いつの間にか、鬱蒼とした木々の背景や、寂れた公園という春奈以外の要素などに、初めからこだわる必要がなかったのだと気づいた。
撮るべき光は、目の前で無邪気に笑う、何よりも自分にとって輝いている春奈であれば、ただそれだけでいい。
シーソーに二人跨り、向かい合う。春奈は、シーソーが壊れてしまいそうな勢いで飛び上がるので、そのあまりの激しさに堪らず「さっきからパンツが見えているんだ」と嘘で静止を測った。
その瞬間、のぼせ上がるほど顔を赤らめた春奈の羞恥に染まる表情は、この日一番の撮れ高だった。そんな風に公園で遊びながら、久志は夢中で春奈の笑顔を切り取っていた。
春奈もまた、久志を撮った。遊び疲れると、木漏れ日の降るベンチで休憩しながら二人でセルフィーを撮った。
そんな風に、寂れた公園には子供のような二人の声が木霊し続けた。
いつしかあたりは暗くなっていて、久志が持ち寄ったフィルムも全部使い切っていた。
二人は心地のいい疲労に包まれながら、神社の縁側で休んでいた。街灯がチカチカと明滅し、不安定な光を灯し始める。何処からともなくそれに吸い寄せられた羽虫が蛍光灯にあたる音が並べた肩の間に小気味よく響いていた。
「そういえば、今日一限目遅れて来たけどなんかあった?」
久志は何となく犯人や原因に気づいていたが、彼女はそれをどこか気づかれないように振る舞っていたような気がし、敢えてそれに気づいていないふりをした。自分に何かできるという自信や算段があるわけでは無かったが、彼女の口から頼られたら自分にできる些細なことでもしてあげたいと思った。
と、言うのも。多分、春奈も久志が気づいている事に気づいている。
それを二人とも隠し続ける事は、楽しかった今日の思い出を、風化させる錆になってしまうような気がしたのだ。今日という大切な日を、もうすぐ終わるからこそ大切に磨いてしまっておかなければならない。
縁側に投げた春奈の足が、ぷらぷらと空で揺れている。しばらくの沈黙の後、春奈は口を開いた。
「ん、なんかね。学校来たら上履きが水浸しになっててさ。仕方ないからスリッパ貸して下さいって先生に言いに行っていたの。それで、事情を説明する羽目になっちゃって遅れたの」
「そんなことをするのは宮地、だろ」真剣な久志に春奈は苦笑いを返し、小さく頷く。
「今日、こんなのが机に入ってたの」
春奈が、鞄から取り出したのはノートの切れ端だった。
赤いボールペンで一言だけ「てか、お前が学校辞めれば話早くね?」と、殴り書きされている。匿名ではあるものの、昨日の出来事の流れから、容易に宮地だとわかる。春奈の作り笑いも、だんだんぎこちなくなっている。こんなの、辛いに決まってる。
「いじめなんて高校生にもなってすることかよ。俺がなんとかしてやりたいけれど…」
「ううん、自分でなんとかするし、久志くんは何もしなくていいよ。どう見たっていじめられっ子を救う正義のヒーローってタイプじゃないしね」
冗談のように言ってのける彼女の言葉は、矢のように久志の心臓を射った。いつの間にか名前で呼ばれていることに気づいた時には、自分の本質さへ見抜かれていることに動揺が隠せなかった。
そうだ。きっと宮地に頬を張られた女子が春奈だってわかっていても、あの時、彼女の元に飛んでいけたかなんて、はっきり言い切れない。
「春奈こそ、やり返せるタイプに見えない…」
言い訳じみた、気の利いた嘘もつけない情けない声が漏れる。
「ふひひ。ヒーローになれない事を肯定しちゃってるよ。まあ、誰かに守ってもらっても、その人が私の代わりに傷つくの見るの辛いし。自分なりに足掻いて自分だけ傷つく方がましだから。久志くんは気にしないでね」
夜を晴らすほどの明るい笑顔を春奈は作る。
この場所にしか咲かない春奈の笑顔を守りたい。けれど、学校では固い蕾のように閉じられた彼女を守るために、久志ができる事といえば、ここでひっそりと咲いたその花に水をあげることくらいしか思いつかなかった。
久志は願う。どうか、自分と彼女だけの花園のようなこの密やかな空間で、また笑い合えます様にと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます