第39話


 翌日の体育の授業の後、事件が起きた。それは昼休みに入った直後だった。

 

 

着替え等の諸々が早い男子が教室に戻ると、ある一角に異常な光景が広がっていた。

 

 

「うわ、なんだこれヤバくね」「こりゃひでえ、マジで引くわ」

口々に困惑や好奇を浮かべる男子は皆どこか面白そうに口角をあげていた。

 

 

 春奈の机に彼女のものと思われる制服が乱雑に散らばり、スクールバッグの中身もひっくり返っていた。さらにその全てがチョークの粉まみれになっていたのだ。

 

 

久志は冷たい汗が、首筋を伝うのを感じる。握る拳に力が入らず震えてしまうのは、恐怖を感じているからだろうか。怒りすら感じる事もできずに、久志はただ目の前の凄惨な現象に慄いていた。

 

 

「これ、誰の席だっけ?新木知ってる?」呑気なクラスメイトに話かけられた。

 

 

「えっと、確か水本さん、じゃないかな?…」

よく知っているくせに、反射的に知らない振りをしてしまう。みっともない。ようやく怒りが生まれた。唇をかみ、汗がにじむ掌を握った。それは紛れもない自分への怒りだ。

 

 

「あー。お前、よくあんな空気みたいな奴の名前覚えてたな」

 

 

「それ言い過ぎ、お前がやったんじゃねーの?」「ばか、俺じゃねえ」

 

 

「きゃあ!何これ!?」

 そこへ、ようやく着替え終わった女子が教室に入ってくると悲痛な声をあげる。

 

 

「これって、先生に言った方がいいやつかな?どうしよう?」クラス委員長の女子があたふたとしているのを男子が面白がって笑っていたが、どうにかしようと焦っている彼女が唯一このクラスで一番まともだった。

 

 

 久志は、潤滑油が枯渇して悲鳴を上げる機械のように、思考が鈍麻していた。春奈は今頃、一人だけ制服が無くなって更衣室で戸惑っているだろう。

 

 

久志は、とりあえず携帯を取り出して急いでメールを打つ「だいじょう…」震える指でメールを打ちかけていたその時だった。

 

 

「うわ、何これ汚なーい。これ誰の席?早く誰片付けて欲しいんですけどー」

「これじゃあ汚くて教室でお弁当食べられなーい」

 

 

宮地とそのとりまきが手にはランチ用のトートバッグを持って、嬉々としながら声をあげている。

 

 

自ら演出したハプニングの様子を見に来たようだ。宮地は粉まみれになった春奈のスカートを、指先で汚いものでも持つかのように摘んだ。

 

 

「てか、これなんか少し匂うんですけど。マジで誰の?」

とりまきを含み、数人の男子までもが笑う。誰かの不幸をこうも無邪気に笑い飛ばせるものかと、今まで何事もなく一緒に過ごしてきたクラスメイトに、感じたことのない嫌悪感と吐き気を覚えた。

 

 

 不意に、皆の笑い声がどこか一点に吸い込まれるように止んだ。

 

 

その方向を見れば、一人だけ体操着姿で眉を釣り上げ頬を赤くしている春奈が肩で息をして立っていた。クラスの中で滅多に感情を露呈させない彼女が、これほどに気しきばんでいるのを、久志も含めて皆初めて目にしたはずだ。

 

 

「宮地、あんたいいかげんこんなことやめなよ」

現れた時の、今にも爆発しそうな怒りを抱えながら教室に入ってきた雰囲気とは打って変わって、春奈の口から紡がれる声は、思いのほか静かだった。

 

 

「はあ、なんの事。私何も知らないんだけど。てかこれあんたの席でしょ?早く片付けてくれない?」

 

 

 ニヤけながら白を切る宮地は肩をすくめた。春奈が宮地に距離を詰めようとして寄ると、取り巻きの一人が春奈の足を引っ掛けた。

 

 

春奈は、意気込んで歩よったその勢いのまま転んでしまった。素肌が床に勢いよく打ちつけられる甲高い音と、わずかな春奈の悲鳴が静まり返った教室に響いた。

 

 

その勢いに、クラスの数名の男子と宮地の取り巻きの女子の、ひそめた笑い声がところどころで起きる。

 

 

久志は、春奈のところに駆け寄りたかったが、接着剤で固定されているかのように足が動かない。恐怖で足がすくんでいた。床に平伏した春奈が、細い腕を床に突き立て、苦痛な息を吐きながら状態を起こそうとする。

 

 

久志は布団をかぶって耳と目を塞ぐように、早くこの悲惨な光景が終わってくれと、震え、願うことしかできなかった。

 

 

「っち…」響く舌打ちに、嘲笑していた宮地の顔が曇った。立ち上がった春奈の垂れた前髪から宮地を睨む春奈の鋭い眼光が注がれる。宮地はその時、鷹揚に笑っていた表情を、驚きの色に変えた。

 

 

「あんたが大人になったのってその派手な見た目だけで、脳みそは男に色目使うことしか機能してないの?あんたは小学生の頃からやってることが何も変わらない。ギャーギャー騒ぐ声だけデカくなって、精神年齢は発展途上のまま。ずっと思ってたけれど、あんた以外の女に目を向ける男がいることがそんなに悔しいなら、苛めなんて卑怯でダサい事して相手を蹴落とすんじゃなくて、自分磨きしか脳のないあんたの得意分野をもっと活かして彼氏をちゃんと飼い慣らしたらいいじゃない。とか言ってもどうせ、無理ね、だってこんな!くだらない事で笑えるくらい、頭が幼稚だもんね!」

 

 

 春奈は抱えていた怒りを全て放出させるかのように、廊下にも響く大声で一気に捲し立てた。

 

 

宮地は春奈の机を蹴飛ばす。机の中身も散らばり教科書や筆箱も床に散乱する。

 

 

そして宮地は春奈の前に立つと頬を張った。甲高い音が静寂な教室に反響した。誰かの、悲鳴にも似た息をのむ音がし、廊下をかけていく靴音が遠ざかる。教師を呼んでくるのかもしれない。

 

 

「何も努力したことない奴が、偉そうにすんじゃねーよ!」

宮地は春奈の胸ぐら掴みにかかるが、春奈は宮地の髪を引っ張る。揉み合いに発展してしまった。

 

 

ただならぬ剣幕に、このまま放っておいては不味いことになると、尻に火がついたように、ただの野次馬と化していたクラスメイトたちも二人を止めにかかった。

 

 

 久志は、始めて目の当たりにする女の喧嘩にただただ圧倒されていた。そしてただ傍観することしかできずに佇んでいるだけの情けない自分を、揉み合う春奈が視界に入れない事だけを願う。握った自らの手は、小刻みに震えるばかりだった。

 

 


 

 その日の放課後も例の場所で逢瀬の約束をしていた。放課後、職員室に呼び出された春奈は、遅くなるから帰ってていいよと言ってくれたが久志は待った。

 

 

 春奈は、学校側が貸してくれた少しサイズが大きめの制服を着ていて、少し気恥ずかしそうに現れると、相変わらず笑顔を向けてくれるその余裕に久志はホッと安心させられた。

 

 

「待たせちゃってごめんね」

 

 

 時刻はそんなに遅くないのだが、木立の群れに囲われた神社は既に街灯が点灯していた。また縁側に座って二人、肩を並べている。

 

 

「謝らないでくれよ、俺には、こんなことくらいしか春奈にしてやれない」

 

 

「ん~?なぁに、かしこまっちゃって」

揶揄うような笑顔が眩しくて、直視できない。もっとも、目のやり場の無さは不甲斐ない自分のせいなのだが。

 

 

「昨日、俺がなんとかしてやりたいって言ったのに何もできなくて、その、ごめん」

 

 

「ねえ、ごめんの言い合い大会は久志くんの勝ちでいいから、もうやめようよ」

 

 

「不名誉な大会で、しかも勝たせてもらって情けないことこの上ないです」

春奈は俯き肩を震わせた。

 

 

 その仕草さに一瞬、泣きだしたのかと心配になったがすぐに、肩が小刻みに揺れ、クックックと笑い声が漏れ聞こえてきて、胸を撫で下ろす。

 

 

「あー楽しいなやっぱり。ううん、全然大丈夫だよ。私はこうして、辛い一日の終わりに久志君といられればそれでいいの」

 

 

 笑い涙だろうか。目元に雫を光らせて、長いまつ毛を瞬かせる大きな黒い瞳に久志が映る。

 

 

その瞳に、今日のあの事件の時の自分はどう映っていたのだろうか。糾弾されてもいいはずだ。むしろそっちの方が、気が楽だった。けれど、糾弾はおろか、あの時の悔しさすらおくびにも出さない優しさと強さが、暖かくて痛かった。

 

 

「何だか、情けない…」

 

 

「全く、しょうがないなあ…じゃあ自信を持たせてあげよう。特別だよ」

 

 

 春奈の唇が、頼りない言葉を吐き続けた久志の唇に重なる。弱虫で無防備なだけの、久志の唇に。

 

 

甘い甘い香りと温かさに抱きしめられながら、唇に感じる生暖かい柔らかさは、きっと幸せに触れるとこんな感じがするのだろうと、久志は思った。

 

 

 唇を離した春奈が「ふひひ…」

と、ほのかに赤い頬を両手で隠して照れたように笑った。

 

 

「今日は、色々強気なの。ご存知の通り」

 

 

「あ…か…は…、き…」

久志は、気が動転して言葉がうまく出なかった。

 

 

「っぷ!あははははは!何言ってんの?」

 春奈は今日一番とも言える爆笑をしてから、今度こそ笑い涙を指で拭いながら言った。

 

 

「久志くんは、私のヒーローじゃなくていい。ずっとこうして一緒にいてくれればそれで…」

 

 

「好きだ!」

久志は、心に秘めた想いが、思いがけず爆発したように叫んだ。

 

 

「うわ、びっくりした」

 どうやら緊張のしすぎで声量もタイミングも空気も見誤ってしまったようだった。こうなったら、春奈を見習って勢いで伝えるしかない。その精一杯の一言は、彼女から口移しでもらった自信のおかげかもしれない。

 

 

「す、好きです、よかったら俺と付き合ってください」

 

 

自分の姿がよく映る大きな瞳が見開かれ、よく潤った黒目が少し揺れる。

 

 

「…………うん」

そして、瞬きを何度か繰り返す長い沈黙の後、春奈は短く、一言、そう呟いた。

 

 

「え、ちょっと待って何今の間」

 

 

「ふひひ。嬉しい言葉の余韻に浸ってただけ」

 決してヒーローにはなれない久志は、春奈の魔法にかけられたおかげで、特別な一言を言うことができたのかもしれない。

 

 

「じゃ、じゃあさ、早速だけど週末どこか一緒に出かけない?」

 

 

「え?…」

わずかに声を上ずらせた春奈が、恥ずかしさに頬を染める。その姿が可愛くて久志は思わず目を逸らした。

 

 

しかしすぐに思い直す、彼女が周囲に自分との関係に気遣っていることを。なるべく人が居なそうなところがいいかもしれない。あるいは思い切って人混みのある場所に行きたいと言ったら彼女はどんな反応を示すだろうか。彼女の優しさにいつまでも甘えてしまう自分の卑しさに苛まれながら、久志は息を吸った。

 

 

「海、とかどう!?」

「え?冬に?」「うん、人はまあまあ居るかもだけど、寺泊の角上市場とかで食べ歩きとかした後にさ、近くにある浜辺の海で、綺麗な夕日を背景に春奈の写真を撮りたいんだ」

 

 

 焦るように言う久志を見て、春奈はクスクスと笑う。

 

 

「な、何?」「まあ、誘ってくれる勇気は評価しようじゃないか。うん、いいよ」

 

 

「やったぁ!」

柄にもなく、思わず両手を上げて喜んでしまう。春奈ははしゃぐ子供を見守る母親のように鷹揚に微笑んでいた。

 

 

舞い上がっていたのが自分だけだと気づいた久志が恥ずかしそうに、しぼむ花のようにしゃがみ込むと、春奈は肩を揺らして笑った。

 

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