第17話


濡れた靴底の不快感と共に車を走らせること数十分。海岸沿の一件の寂れた旅館に着いた。

 

 

周囲に荘厳な佇まいの老舗旅館や高く聳えるホテルが居並ぶ一角に、ひっそりと息を潜むようにその宿はあった。

 

 

車を小さな砂利の専用駐車場に停め、古い看板に宿の名前が霞んでいる古い門を潜る。

 

 

一見古びたアパートのようなその宿を目の前に、久志と早希はどこか雲行きの怪しい雰囲気に顔を見合わせた。

 

 

「ここであってるの?」

 

 

「ググった宿の名前が書いてあるから間違いないはずなんだが」

 

 

見た目もさることながら、Googleマップのレビューには10件のレビュー中、平均星3と微妙な評価だった。

 

 

中でも気になったレビューが、目の前の宿から感じる雰囲気を助長していた。あるいは、あのようなレビューを見た後だから、不穏な空気をこちらが勝手に作り出しているだけなのだろうか。

 

 

そのレビューにはこう書いてあった。

 

 

「宿の主人一人で営んでいる様子。彼のキャラと言うか、人柄には悪い意味で一癖あって私には合わなかった。海が目の前で景色が良く、料理は美味いが安さ以外で私は選ばない。いや、安さでももう選ばないかも…」と言う、大抵の人なら利用を躊躇するようなそのレビューをまさに今、真に受けてしまっている。

 

 

あるいは、物好きなら好奇心をくすぐられるのだろうが、下半身がびしょ濡れで凍えそうな久志達には選択肢は一つしかなかった。

 

 

今はどう周辺の宿情報を調べても、24時間浴場完備の文字が輝き、空いている部屋があった宿と言えばここしか無かったのだから仕方がない。

 

 

薄いガラス窓が嵌められた木製の引き戸を開けると、立て付けの悪い悲鳴のような音が響いた。

 

 

 

目の前には、薄汚れた白い絨毯が伸びていた。奥の狭いカウンターから誰かがこちらに反応する気配がある。

 

 

 

「こ、こんばんわー」久志の声に返答する代わりに、訝しそうな視線が向けられる。

 

 

「あの、先程電話で予約させていただいた新木ですけど…」

 

 

 

「…ああ、いらっしゃい」

 

 

「こんばんわ」

 

 

早希が気さくなに挨拶をすると、主人は身を乗り出して眼鏡を摘んで久志と早希を交互にみやる。

 

 

邂逅一番にもかかわらず無遠慮に舐めるような視線を向けられて、かなり居心地が悪い。

 

 

「そっちの子は…学校の制服着てるのか?それか、そう言う格好か。まあなんでもいいけど、そう言う事したいならその辺のラブホにでも行ってくれ。あるいはどこも満室だったとしても頼むからウチには来るな」

 

 

久志の頭には既にGoogleマップのレビュー以上の酷評が連なっていた。

 

 

主人は言い切ると鼻で笑いながら、手元の雑誌に再び目を落とした。

 

 

一癖どころか人格に問題ありすぎるだろと久志の拳に力が入った。

 

 

「違いますよ。僕達はただ…」

 

 

久志がそれでも下手に出ようと言いかけた所で、早希が久志の前に出てそれを制した。

 

 

「嫌だなあ、ご主人。私達は兄妹ですよ。ね。ちょっと訳あって私はこんな格好ですが、とにかく私達は今凍えそうで一刻も早く寝泊まりできる、出来るだけ安い宿を探しているんです」

 

 

性悪主人が訝しそうな目を顔面にそのまま貼り付け、顔を上げた。

 

 

眼鏡を治した角度が絶妙なのか、決め台詞を言う時のメガネキャラのように全面が白く光っている。

 

 

「ほう、兄弟ね。ならその訳とやらを説明できるかな?」

 

 

さっきから、客である自分達にこの態度は何様だと、久志の眉間には血管が浮きかけていたが、足元の寒さもあってぐっと堪えることにした。

 

 

主人は雑誌を閉じて座り直すと、試すように腕を組んだ。

 

 

「実は私達、夜逃げしてきたんです…」

 

 

「なに!?」

 

 

 衝撃の告白に主人は身を乗り出し、久志は身体がのけぞってコケそうになった。

 

 

「それでさっき、兄と夜中の海へ行きました。そして私達はこれまでの短い半生を、些細な楽しかった思い出を、手を取って話しながら、綺麗な満月の光に導かれるように海へ向かって歩みました…でも、できなかった。引き止めてくれたのは兄です。もう少し、もう少しだけお互い頑張ろうっていってくれたんです。私たちは額を突き合わせてたくさん、たくさん泣きました。もう、お分かりですね?私達が海でしようとした事を…。ふふ、でも一命は取り留めたものの、足元がご覧の通り、びしょ濡れになってしまって。あ、すみません、玄関に染みを作ってしまいました…」

 

 

泣き落としにしては重々しい嘘を、なんの躊躇もなく滔々と語る早希に呆れながら、あの性悪主人にそんな分かりやすい嘘が通じる訳がないと主人を見る。

 

 

その瞬間目を疑った。主人は目元に涙を浮かべていた。

 

 

今度は後ろにのけ反りそうになるのを久志は堪えた。

 

 

「妹の私に風邪をひかせてはいけないと、兄は無い袖は振れないので、できるだけ安い宿を必死に探してくれました。でも兄妹でラブホテルでは気不味いからと、ここに行きつきました。だから今度は、私が何とかする番なんです。どうか、私達を泊めてはくれませんか?私でよければ何でもお手伝いしますから」

 

 

「…はあ、疑って悪かった。そりゃさぞ難儀らったろ。ウチなんかでよかったらじょんのびしてって」

 

 

まさかの泣き落とし作戦の成功に、早希は主人に気づかれないように振り向いてウインクをする。

 

 

久志は開いた口が塞がらない。

 

 

そう言えば、と久志は思った。

 

 

主人の言葉のアクセントや、あるワードにピンときた。じょんのび。その懐かしい響きを何年振りに聞いただろうと思った。

 

 

「あれ、主人は新潟のご出身ですか?」

 

 

何故か早希もお久志と全く同じタイミングで反応し、それを主人に訊ねていた。

 

 

「おお!そうらよ。新潟弁が分かる人らか、それとも新潟の人?」

 

 

「じょんのび、ってひさしぶりに聞きました。実は私達も新潟出身で」

 

 

新潟出身の久志も驚くほどごく自然に、早希は新しい設定をこの兄妹設定に上乗せした。かなりマイナーな方言にもかかわらず、早希が知っていることに驚きながらも、まことしやかな早希の作り話に僅かでも信憑性を持たせるために久志も乗っかることにした。

 

 

「じょんのびって、ゆったりとか、ゆっくりって意味の新潟弁だよな。懐かしい」

 

 

「じゃあ、今夜は特別に新潟の人割で半額にしてやるこて。って言ってもまあ、他のお客がいねえもんらっけ特別も何もねぇんだけどな。ほらほら、上んな」

 

 

主人は人が変わったように、急におもてなし感を満載に手招きをしてくれる。どこか釈然としないながらも、「おっじゃまっしまーす」と、嬉々として敷居を跨ぐ早希にならって久志は渋々後に続いた。

 

 

 

古いドアを開ける。部屋の暗がり、その和室越しには、月明かりが水面を照らす、幻想的な海の風景を一望出来た。

 

 

早希も久志も思わず声を上げると、主人は嬉しそうに微笑んで部屋の照明を付けた。

 

 

古い蛍光灯は点灯時に弱々しい明滅を繰り返した後、青白い光で部屋を薄ぼんやりと照らした。

 

 

当然、窓は部屋の写し鏡になってしまうので幻想的な風景はテレビを消したように消失した。

 

 

通された和室はよくも悪くもなく普通。

 

 

早希は「この部屋、電気消してた方がいいよ」と無遠慮に漏らした。

 

 

主人は「まあ好きなように寛いでくれ。お兄ちゃんなら満月で狼になって襲うこともないだろうに」といつのまにか標準語に戻って冗談でもないことを言う。

 

 

「私が妹じゃなくても兄にそんな甲斐性ありませんから」

早希が軽く主人をあしらうと彼は愉快そうに笑った。

 

 

「先にお風呂入ってきなさい。腹は減ってるかい?」

そして好々爺の微笑みで訊ねてくる。

 

 

「うん、超お腹減った」

嬉しい言葉に早希が興奮気味に言い「お言葉に甘えさせていただきます」久志も同調した。

 

 

二人は、主人に丁寧に礼を述べると先ずは風呂に向かった。

 

 

女湯と男湯で別れた暖簾の手前で、上機嫌な早希に「一緒に入る?」と揶揄われたが、久志は憤慨し、鼻息荒く男湯の暖簾を雄々しく潜った。

 

 

風呂上がりに浴衣に着替えて自室に戻ると早希はまだ戻っていなかった。

 

 

電気を付けようとして躊躇い、部屋を暗くしたまま広縁の椅子に腰を下ろした。

 

 

静かだった。

 

 

深まった夜は満月の光をさらに際立たせている。

 

 

水面に敷かれた光の道は水平線の彼方から砂浜まで綺麗に伸びていて、相変わらず見事な夜景にしばらく目を奪われた。

 

久志はカメラを取り出すと目の前の風景を写真に収めた。

 

 

プレビュー画面を見て、満足のいく写真が撮れたものの、どこか物足りなさを感じた。

 

 

それは、そこに早希がいないからだろうかと考えると、一人で勝手に恥ずかしくなった。

 

 

月光が優しく広がるこの和室は一人ぼっちには少々広い。

 

 

波の音が聞こえてくる静まり返った空気が不意に反転し、肩に重たく降り積もるようだ。幻想的な風景も、どこか空々しく感じる。

 

 

再生されっぱなしだったカメラのプレビュー画面が、操作されなかったことによって、スリープ状態になって少し暗くなった。

 

 

早希のいない写真。

 

 

それは今までだってインスタにいくつもアップロードしてきた、自分が趣味として撮って来た写真のはずなのに、酷く物足りない、つまらないもののように感じた。それは寂しさだった。

 

 

実感し、喉元につかえる想いを飲み込むと、早希の言葉が頭に蘇った。

 

 

「でもその子は、久志の写真の中でしか笑っていないかもしれないって。そんな風に、ただ幸せそうに笑っている写真を見て、想像した事ある?」

 

 

「まるで俺に、かつて大切な人が居て、その人物の写真について早希が言及するような物言い…」

頭の中でハッキリ蘇った早希の声に対して、久志も独り言を口ずさんだ。

 

 

十数年前の高校生だった頃、久志が写真に収めていた、とある少女の事を、不意に思い出した。

 

 

二人ぼっち、浜辺に佇み夕日が水平線の向こうに沈むのを、手を握り合い、隣で眺めていたあの少女の事を。

 

 

潮風に揺られる黒髪を耳にかけながら、可憐に微笑んだ彼女。

 

 

人生をかけて守りたいと誓いたくなるような、あの儚げな笑顔が、記憶の奥の暗がりでそっと咲いた。

 

 

瞬間、胸を刺す痛みを覚えた。

 

 

音のない夜。

 

 

不意に、月明かりで僅かに明るいはずのこの部屋が、酷く暗い寒々しい空間に感じた。そして、心の底に押し込んだはずのあの光景が、暗い闇の彼方から久志を襲うように浮上してきた。

 

 

その少女が泣いている。顔をぐしゃぐしゃに歪めて、鼻水を垂らしながら、久志の名前を叫んでいた。

 

 

久志は、持っていたカメラを落とした。

 

 

それはテーブルを打ってから、木製の床に派手な音を立てて転がる。

 

 

久志は、その様子をぼんやりと眺めていた。床に転がった高級なはずのレンズとカメラボディの金属部分が、月明かりを反射している。

 

 

まるで、雑な扱いをする自分を責めるように。

 

 

久志は堪らず蛍光灯の電気を付けようと立ち上がった。

 

 

ドアが開き、廊下の明かりが暗い部屋に光を漏らすと、逆光になった浴衣姿の早希が顔を覗かせた。

 

 

しかし、いい湯に浸かってホクホク顔だった早希の表情が、久志の様子を見て、夜風に晒され冷えていく。

 

 

「大丈夫?どうしたの?…な、なんか久志、怖いよ」

 

 

気づけば目の前に早希がいて、その距離感に久志は胸の動悸が激しくなった。胸が息苦しくて肩で息をしていた。緊張しているのだろうか。

 

 

「あ、ああ驚かせて悪い…ちょっとな、カメラを落としちゃった」

 

 

久志が床に転がっているカメラを指さすと早希はそれを見るなり「ああ!」と悲鳴をあげてカメラに擦り寄った。

 

 

「そういえばさっき、結構すごい音がしたのって、コレが落ちた音?データとか大丈夫かな」

 

 

「一眼レフカメラは、厳しい環境も想定された堅牢な造りだから大丈夫だよ」

 

 

落ち着かない精神状態を悟られまいとヘラヘラと笑う久志に変わって、早希は猫を膝に乗っけてあやすように、カメラをよしよしと撫でている。

 

 

「もう、気をつけてよね。って私の方が心配してどうすんのよ」

 

 

カメラは早希の元にあった方が幸せかもしれない。今になってもまだ、あれほど大切にしていたカメラを自ら傷つけた顛末を危機感や後悔と言った感覚で実感できない。

 

 

「はい。壊れていないか試し撮りして」

 

 

 久志はぼんやりとカメラを受け取る。早希は広縁の椅子の上で三角座りをすると、膝に頬を乗せて色っぽい目を向けてくる。

 

 

浴衣のともえりが開いて鎖骨が覗き、風呂上がりでまだ蒸気している薄紅の頬が艶かしさを際立たせる。

 

 

瞳認識のオートフォーカスは早希の眼差しに吸い付くように合唱し、久志は構図を決める。後はシャッターを押すだけだ。

 

 

何気ないやりとりの中、不意に時間がスローモーションになるような緩慢さを感じた。

 

 

この感覚は、今日何度も感じた。きっと幸福なのだと実感する。

 

 

こうしてあっけないほどに消費されてゆく時間がひどくもどかしく、惜しいと思った。

 

 

時が止まって欲しいなどと、少女のように情けなく願ってしまっている自分がいる。それもまた懐かしい感覚だった。

 

 

早希はぱちくりと瞬きをして、なかなかシャッターを切らない久志をきょとんと見ていた。「どしたん」

 

 

「あ、ううん。なんでも」再び同じ構図でシャッターボタンを押し込んだ。

 

 

貴重な瞬間を残したい。今この瞬間は単に彼女の気まぐれで、明日には、おもちゃに興味を失った子供のように冷たくあしらわれるかもしれない。彼女の笑顔はこの瞬間だけのものかも知れない。

 

 

シャッター音の後、彼女の笑顔が儚い幻のように感じる。やがて自分は、シャッターを押すのが怖くなっていくのだろうかと久志は知っている。

 

 

それは、十数年ぶりに思い出した、あの少女の記憶を形成する点の一部分。久志は即座に回想を中止した。その点が結びつける線を、完全に思い出すわけにはいかないからだ。

 

 

 

そんな事をしては、今こうして、早希と一緒にいる自分の行いに、到底耐え難くなるからだ。

 

 

ファインダーの中の早希の表情がにわかに曇った。違うポーズを作ってくれていたのに。構図も既にぶれている。

 

 

「どうしたの?…」

早希は眉を下げて久志の顔を覗き込んでいた。

 

 

撮りたかった完璧な瞬間はもう過ぎ去っていた。

 

 

「あ、あれ…ごめん、ちょっと調子悪いかも」

 

 

無理矢理作った笑みはどれほど不格好だっただろうか。せっかく作ってくれたポーズの前で久志はカメラを下ろしてしまった。

 

 

「ええ!そんなぁ!カメラ壊れちゃったの!?」

 

 

早希は、心底心配そうに嘆いた。カメラの調子はすこぶる良く、悪いのは自分だというのに。

 

 

「ちょっと貸してみて!」しかし諦めきれない早希は、身を乗り出して久志のカメラを奪いに掛かってきた。

 

 

「お、おい!ちょっと待て!」「さっきピピって言ったじゃん。ピント合ったんじゃ無いの!?調子悪いなんて嘘だ!」

 

 

 カメラ内でオートフォーカスが合唱すると、丁寧に電子音が鳴る設定になっているのだが、久志はその音すら聞き逃していた。

 

 

 久志は腕を伸ばしてカメラを高い位置にしながら早希から必死で守っていた。

 

 

しかしその時、早希の勢いが余り、押される形となった久志の膝の内側に広縁のテーブルが入り込み膝カックンされる形となって、急に前に倒れてしまった。

 

 

気づけば早希を押し倒し、かろうじて床に手を突いて、際どい姿勢で覆いかぶさるような体勢になっていた。

 

 

目の前の光景に久志は息を飲んだ。

 

 

青白い月光に照らされた僅かに紅潮した頬。

 

 

甘ったるい匂いが鼻をくすぐり、浴衣がはだけた谷間は、柔らかな丸みを描き、水色のレース調の生地がそれを覆っているのが見えた。

 

 

陶器のような白さと美しいカーブを描く白い肩と、妖艶な鎖骨の浮き上がる素肌。

 

 

月光の溢れる床に、長い髪が溢れ、黒く大きな瞳は、卑しい自分を写す鏡のように透き通っていた。

 

 

不味い。

 

 

この状況の危うさを彼女に意識させるのは不味い。

 

 

コンコン、と小気味のいい音が響いたかと思うと。部屋のドアがまるで呼吸をするかのように自然に開いた。

 

 

「あっきゃ!電気もつけねーで、そんがんこと兄妹でしんだぁか」

 

 

驚きを隠せないのか、純度100%の新潟弁が主人から飛び出した。

 

 

「ち、ちがいます!これはちょっとした兄妹喧嘩でして」

 

 

腕立て状態から正座になる選手権があったら多分ギネス記録を達成する速さで、久志は居直った。

 

 

徐に起き上がる早希は狼狽する久志をみて不敵な笑みを作る。

 

 

「兄が大事に大事にとっておいたものだからって、妹のお前にどうして捧げなきゃいけないんだって、頑なに譲ってくれないんです」

 

 

いつの間にか奪われたカメラを指して早希が言う。

 

 

「ばか、変な言い方すんな。か、カメラをね、勝手に触られたくないって話ですからね」

 

 

「…はっはっは!まあ兄妹水入らずで楽しげで何よりらこって」

 

 

主人は早希の下らない下ネタへの誘導を大人らしく回避してくれた。

 

 

企みが失敗に終わった早希に、久志は大人気なく鼻を鳴らす。早希は着崩れた浴衣を直しながら頬を膨らませた。

 

 

部屋にどこか懐かしい、いい香りがふわりと広がった。食欲を駆り立てる甘くて香ばしい匂いだった。

 

 

「こんな時間になんだけども、腹減ってるだろうと思っていっぺ作ってきたこて」

 

 

 主人は新潟弁で言い、その二つのお盆に乗っていたのは久志にとっては懐かしい郷土料理だった。

 

 

 ほくほくと湯気の登る白く艶のいいご飯は新米の魚沼産コシヒカリだそうだ。

 

 

一際存在感のあるネギと鰹節がかかった分厚い厚揚げは栃尾の油揚げだった。

 

 

にんじんとかまぼこの赤い色と、煮込んだ甘醤油の香りがなんとも琴線に触れるのっぺは、上品にとと豆と呼ばれるイクラがあしらわれ、美味しそうな湯気をあげる様子は、見ただけで身体が温まる。

 

 

「うわ、これ懐かしい!死ぬほどきな粉まぶして小さい頃よく食べたなー」

 

 

早希が一際目を輝かせたのは、笹で巻かれてイグサで結ばれた三角形の物が連なっているもので、名前を思い出す事すら懐かしい、三角ちまきだ。

 

 

もち米を笹の葉で包み煮ただけと言うシンプルな調理方法だが、米所の新潟ならではの素材の味が生きた素朴な味わいが特徴だ。早希が言うように、これに甘いきな粉をまぶして食べるのがオーソドックスな食べ方だが、そのシンプルな味付けがまた美味い。

 

 

時計の針は既に日を跨いでいた。しかしここまでのロングドライブのエネルギーと消えた夜食のラーメンは、とうに胃の中に残っていない。空腹にプラスして懐かしさも加わり、空腹は頂点に達していた。

 

 

 早希と顔を見合わせれば彼女も瞳孔が開いている。

 

 

唇の端から我慢の限界を示す雫が溢れていた。

 

 

新潟の幸がこれでもかと盛り込まれた贅沢なお膳を前に久志と早希は手を合わせ「いただきます!」と声高らかに叫ぶ。

 

 

 満足そうに笑う主人を横に、とにかく懐かしいと騒ぎながら食す久志は、その時だけは童心に帰り、ただ故郷の味を味わった。

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