第16話


満月の月光が遥か水平線から一筋の光の道を作り、水面できらきらと輝いて揺れている。

 

 

空は漆黒で、一筋の純白の水滴が落ちたように、満月は夜を深い深い青色に染め上げていた。

 

 

久志と早希の白い息が高く登っていく。

 

 

浜辺に寄り添うような優しい渚が耳に心地いい。冬の澄んだ空気は、熱った身体に程よく冷たく、肺に心地良く流れ込む。

 

砂浜を踏みしめながら、一足先に駆け足で波打ち際まで駆けた早希に久志も追いついた。

 

 

人気の無い冬の海は美しく、早希と二人きりでいる幸せを、静寂が見守ってくれているようだった。

 

 

「やばーいめっちゃ綺麗、この海、私達が独り占めしてるんじゃない?」

 

 

早希は、空を仰ぎ手を広げながらくるくると踊るように回っている。

 

 

彼女は楽しくなりすぎてよく周りを見ていないのかもしれない。砂浜の上の防波堤では数組のカップルが肩を寄せ合っていた。

 

 

そのさらに向こう側には、タバコの火が闇に浮かび上がっている。そこにはロング缶を片手に黄昏れる男のシルエットも見えた。

 

 

ここは夏には大勢の海水浴客で溢れる湘南の有名なビーチだった。冬の海とて、明日から週末の今日は、人はこの景色に自然と引き寄せられるのかもしれない。

 

 

けれど久志は、早希が楽しそうにしているのなら、ふたりぼっちのビーチという事にしようと思った。

 

 

「いや、二人だからこの場合は二人じめかな?」

 

 

早希は言い、振り返ると「知らんけど」と独り言のように言って「ふひひ」と、一人楽しそうに笑った。

 

 

月明かりに照らされる横顔は、夜にもかかわらず、眩しいほど明るい。

 

 

早希は伸びをし、大きく息を吐いてからしばらくそこに佇んだ。その一連の動作は、情景も相まってまるで映画のワンシーンのようだった。

 

 

淡く香る塩の匂いや、夜空に浮かぶ満月。この場の全てが彼女の為にあるようで、久志はそんな後ろ姿をカメラを構えることも忘れて見惚れた。

 

 

何か物思いに耽ったように佇む彼女。渚の音が耳に迫った時、久志は思い出したように、カメラを構えた。

 

 

水面に揺れる月明かりの道に導かれるような後ろ姿がどこか神々しい。

 

 

単焦点レンズの絞り値を開放し、光の粒が綺麗な玉ボケになって、ファインダーの中で長い髪を揺らす彼女の美しいシルエットが浮かび上がった。

 

 

シャッターを切る。まるで水面に浮かぶ月光の絨毯に歩み寄っていくような写真が撮れた。

 

 

「ねえ、もっと波打ちぎわまで行ってみようよ」早希が振り返る。

 

 

またシャッターを切った。優秀なカメラの露出補正機能がタイミングよく自動で作動し、逆光で見えにくくなった早希の表情もしっかり写せた。

 

 

「波と戯れるのもいいけれど、一歩間違って靴が浸水したら最悪だぞ」

 

 

ファインダーから目を話して早希に答える。

 

 

 

「…たしかに、やっぱやめとこ」

 

 

そう言う彼女の声色は、先程までの軽やかな声色とは暗いトーンに落ちていた。視線を再び海へ戻す早希の後ろ姿にどこか影がかかったような気がした。

 

 

無邪気な彼女のままでいて欲しかったのに、水を刺すような余計な事を言ってしまっただろうかと、久志は眉を下げた。

 

 

久志が隣に並ぶと、再び沈黙がおりた。渚の音が近い。

 

 

満月を見つめ、渚の音をしばらく聞いた後に早希の顔を覗き込んだ。

 

 

その瞬間、心臓が跳ねあがった。

 

 

早希は久志を見つめていた。

 

 

月明かりに照らされた早希の大きな瞳は猫の目のように大きく黒目がちで、水面に溢れた月明かりのように煌めいていた。

 

 

潤んでいたと言った方がいいのかもしれない。

 

 

薄い唇は何かを言いたそうに、震えていた。頬が僅かに朱色に染まっている。

 

 

そのまま、泣いてしまいそうな顔に見えた。

 

 

早希の様子に戸惑い、言葉を探していると、早希は再び海を見つめた。

 

 

「ご、ごめん。せっかく海来たのに、なんか冷めた事言って…」

 

 

ようやく、掴んだ言葉はやはりどこか的外れで、登る白い息のように宵闇に霧散していく。

 

 

満潮が近づいていた。二人の足元まで波が近づきつつあった。

 

 

「ううん、気にしてないよ。たださ、少し冷静になると、思い出すんだよね」

 

 

「思い、出す?」

 

 

「うん。この景色がさ、綺麗すぎて泣きそうになっちゃっう」

 

 

久志に顔を向けた彼女は、細い人差し指で目尻に浮いた月の雫のように綺麗な涙を拭った。

 

 

純粋にこの景色に感動しているのかもしれない。けれど、その震える声には、言外に途方もない寂しさのような哀愁が滲んでいたような気がしたのは気のせいだろうか。

 

 

波の音に消え入りそうな早希の声と、鼻を啜る音が混じる。

 

 

幽玄なこの景色と、目の前で涙を見せる女に、どう対応したらいいのか、半ばパニックになった久志は、気の利いたセリフを薄っぺらい語彙力と三流のユーモアセンスで必死に組み立てた。

 

 

「俺の顔ってそんなに絶景だった?」

 

 

「バカ。違う…」

早希は、美しく笑ってくれた。これでよかったのかは分からない。けれど、内心ほっとしている自分の自己評価は最低だった。

 

 

「それは残念だ」

 

 

どこか湿っぽい空気が苦手。そう自分を納得させて仕舞えば簡単だったが、それは一概に、久志は極端に女性経験が少ないせいで、女が何故か泣き出した際の良い対処法が思いつかないだけだった。

 

 

軽い冗談には軽い冗談で返してほしい。けれど、早希は笑わなかった。当然だ。それは自分のエゴなのだから。

 

 

「変な事聞いてもいい」

早希は、また涙を拭いながら、それでも口元に綺麗な笑みを浮かべながら言った。

 

 

「…うん」

 

 

「さっき、車の中でしてくれた話は本当?もし久志に恋人ができたら、他の誰でもない二人だけの写真を撮りたいと思う?」

 

 

潤んだ瞳が揺れる。声を震わせ久志を見つめながら言う早希は真剣だった。

 

 

渚の音が近い。不意に夜空の明るさが煩わしくなった。

 

 

「思うよ。こんな絶景も、どんなに綺麗な景色だって主役はいつも彼女で、俺はいつだってカメラを首から下げ続けているだろうな。それはもうウザがられるくらい、カメラバカって言うより彼女バカになるんじゃないか?」

 

 

早希を想い、高嶺の花に手が届いた夢を想像しながら、思った事を口にした。

 

 

早希の頬に涙の流れた筋が瞬いた気がした。

 

 

少し唇を歪めて目元を拭うと早希は久志を見た。そして、今度はぎこちなく笑った。

 

 

「でもその子は、久志の写真の中でしか笑っていないかもしれないって、そんな風に幸せそうな写真を見て、想像した事ある?」

 

 

渚が久志の足を拐おうとする。

 

 

けれど、その感覚も感じない。早希の消え入りそうな声と言葉が、脳を大きく揺らした。

 

 

それは苦い過去の記憶を掘り起こす程、鋭い揺れだった。首にかけたカメラが、不意に波の下に落ちて行くような恐怖が身体中を這った。

 

 

「うひゃあ冷たい!」

 

 

悲鳴と共に、久志は早希に手を引かれて波から退いた。

 

 

彼女に手をひかれなければ久志はそこに立ち尽くしていたかもしれない。冷たい水がじんわりと靴底に浸透する感触が気持ち悪い。

 

 

「うわぁ、やっちゃったね。あはは…」

 

 

早希は力なく笑いながら、どこか大袈裟におどけているようにも見えた。

 

 

「うえぇ、足冷たいし気持ち悪いしなんか砂入った」

 

 

耳に水が詰まった時のようなくぐもった早希の声が、久志には聞こえていた。

 

 

けれど、その声が意味としてうまく認識できない。

 

 

「ねえ、大丈夫?」

 

 

視界に早希と繋いだままの手が映り、徐々にその少し冷たい小さな感触が戻ってくる。

 

 

気づけば、不安そうに顔を覗き込む早希の顔が目の前で揺れている。

 

 

「あ、ああ。ごめん。足濡れちゃったな。ごめん、俺がもっとちゃんとしてれば、濡れなくてよかったのにな」

 

 

「ううん、私が調子乗り過ぎただけだから。でも、この際だから膝までつかっちゃうのもありだよね」

 

 

彼女は心なしか、いつもの無邪気で明るい、梶原早希に戻っているような気がした。

 

 

「それもいいな…」

 

 

「ちょっと、何言っているの?風ひいちゃうから。おーい、冗談通じなくなってるよ」

 

 

早希は少し大袈裟に、顔の前で久志の意識の確認をするように手を振った。

 

 

その様子は、まるで先ほどの出来事を煙に巻くようでもあり、忘れて欲しいと願うようでもあり、どこか忙しなく見えた。

 

 

「もう遅いし一旦宿に泊まろう。靴も靴下も宿で乾かせるかも」

 

 

「お、急に積極的になってるじゃん」

 

 

「普通の宿だからな」

 

 

寒いのだろうか。早希は身体を抱くようにして背を丸める。するとタイミング悪く先ほどまであまりなかった風が吹きコートの隙間から侵入してくる。

 

 

「さむ!確かにお風呂は入りたい。でもこんな夜中から素泊まりできるところなんてある?ってかそれこそラブホなら確実で無難じゃない」

 

 

身を縮めて寒さに堪える早希に久志のモッズコートがかけられた。急に包まれた暖かさとその僅かな重さに、早希は撫でられた猫のように押し黙る。

 

 

当の久志はニットセーター姿になっていて、早希の冗談も聞こえなかったように、スマホで宿を検索し始め、横顔を青く照らしていた。

 

 

不意にコロンの甘い香りとともに久志の首元が暖かさに包まれた。

 

 

するすると幾重にも首に巻かれるそれは早希が常に身につけていたあのマフラーだった。

 

 

久志はそれを触って、感触を確かめてから早希を見た。

 

 

月明かりの下、コートオンコートでマトリョーシカのようになっている早希は子供のように小さく見えて、満足そうに破顔する姿は、どこかいじらしくて可愛らしい。

 

 

「ありがとう」

久志は、呆然としながら早希に言った。

 

 

「くっちゅん」早希は小動物が泣くようなくしゃみをした。

 

 

「早く宿見つけないとな」久志は微笑ましく笑いながら、再びスマホに目を落として近くの宿を調べた。

 

 

「私も手伝うよ」横に並んだ早希も久志にならった。

 

 

久志は暖かいマフラーの甘い香りに気恥ずかしさを感じながら、スマホの画面に映し出された、良さそうな宿に親指を止めた。

 

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