第15話


「海行きたい海!」

 

 

 まだ暖房が効いていない車内の中で、助手席に座ってガソリンスタンドの照明を顔に受けている早希は唐突に言った。

 

 

「寒い時にアイス。熱い時におでんも絶対違うし。それってこの理論と同義じゃないか?」

 

 

「いやいや、外は寒くても、あったか~い部屋のコタツの中で食べるアイスは最高よ」

 

 

 それは一理あると思ったが、やはり冬の夜の海など、暗いし寒いしで何の情緒も無いと思った。

 

本気で言っているのか確かめようと、セルフのガソリンスタンドの給油スペースに停車した車内で、久志は隣の早希を見る。

 

制服にいつものコートを纏ってひとまわりも年齢差のある女子高生が、しかも憧れのあの子が助手席にいるという事実が、まるで冷や水をぶっかけられたかのように確かな現実として、矮小な精神を襲った。

 

 

どこか甘ったるい香りが、揶揄うように鼻口をくすぐる。

 

 

早希は「でしょ?」と言いうように、久志を見つめて小首を傾げる。

 

 

彼女相手に意義を申し立てようとした自分が馬鹿だった。

 

 

目を逸らし、逃げるように給油のために座席を立つ。

 

 

給油機に金を入れて油種を選びレギュラーのハンドルを持ったところで、給油口を開け忘れていることに気づいた。

 

 

分かりやすく動揺しているのが恥ずかしい。

 

 

その時、給油口が鈍い音を立てて開いた。

 

 

「そんな慌ててJKを真夜中にどこに連れて行くつもり?」

 

 

早希はドアの向こうで愉快そうに笑っている。

 

 

深夜のガソリンスタンドはひっそりとしていて薄灯の灯った事務所は人気がない。

 

 

どこか視線のようなものを感じるのは防犯カメラから監視されているからか、早希の思わせぶりな台詞で妙な後ろめたさを感じる。

 

 

ラブホに拐ってやろうか、などと冗談を思いつくがそこまで親密な仲とは思えない。こういう場合、たった一度の悪ノリが飛んだ地雷を踏みかねない。

 

 

「あ!ラブホとかならすぐ近くだし、給油する必要もなかったかな?」

 

 

彼女は恥ずかしそうに頬に手を当て、妖しく笑う。そうやって早希は、久志の憂慮など、吐息のような軽やかさで吹き飛ばしてしまう。

 

 

「な、バカ!!そんなところ行くかよ!」

 

 

「声デカーい、ふひひ」

 

 

 彼女の思い通りに動く操り人形のように慌てる自分が、何とも情けない。

 

 

「んじゃあ、海に行くなら2000円分くらいは入れておくか」

 

 

「やったー海だーいえーい」早希は子供のように足をパタパタさせていた。

 

 

これから夜はどんどん深まる。寒くて暗い冬の海だって、彼女となら行きたいと思った。

 

 

海と言われれば行き先はみなとみらいのような綺麗な夜景が映えるに場所を先ず思い付いた。

 

 

気合を入れてシーバスでクルージングや、遊歩道が整備されたアニヴァセルみなとみらい横浜周辺で鮮やかな夜景の中に溶け込んだ彼女のポトレ写真を撮るのもいい。

 

 

あるいはマリンタワーの展望台でゆったりとした時間を過ごす等、女子を誘うなら定番中の定番を早希に提案しのだけれど「んー。違うな」と、猫に小判を与えてみたかのような反応で断られた。

 

 

十六号線を過ぎて保土ヶ谷バイパスに乗り、久志は思いついた海を目指していた。

 

 

「行ったことないなら、一見の価値あると思うけどな。夜景、綺麗だよ」

久志は、なおも横浜方面で食い下がってみた。

 

 

「私、海から登る朝日が見たいかな」

 

 

なかなか渋い趣味してるね。とは言わなかった。トンネルの中で高圧ナトリウムのオレンジ色の照明を顔に受けたり影になったりを繰り返している早希は、どこか遠くを見ながら言ったからだった。

 

 

薄くつけていたAMラジオの電波は途切れて、タイヤの摩擦音が車内に響く。

 

 

「実は行ったことないんだけど、浜辺とかある海に行こうか。湘南とか鎌倉の方でいい?」

 

 

「うん、久志に任せる」

 

 

「おい、呼び捨て」

 

 

「なんか、久志って呼び捨てたくなる響きなんだよね」

 

 

早希は目を細めて微笑んだ。本当は呼び捨てでも何でもいい。ただ、女子に呼び捨てられる、どこか懐かしい響きがこそばゆくて悪くなかった。と、言うより心地よかった、なんて恥ずかしくて自覚すらできない。

 

 

 トンネルを出ると、ビタースイートサンバをBGMに、金曜のパーソナリティーがゆるいトークをラジオから吐き出している。

 

 

心地のいい沈黙が早希との間に漂っていた。

 

 

音質の悪いラジオの話の内容が頭に入ってこない。

 

 

助手席にいるはずの早希の存在を意識していた。

 

 

彼女の気配や匂いを、確かに彼女がそこに存在しているという事実を。

 

 

ただそれだけのことを幸せと感じていた。

 

 

繁華街ではしゃいだ後の余情のような静けさを、早希と二人で眺めているような、このゆるい時の流れがなんとも居心地がいい。

 

 

不意に、何か話さないと退屈だと思われるだろうかと不安に襲われ、彼女を伺うように隣を振り向いた。

 

 

すると、早希も徐にこちらに顔を向けた。彼女はニンマリと口角をあげると「ふひひ」と可愛い声を漏らして笑った。

 

 

「なんか喋んないと気不味いと思った?」

 

 

「メンタリストかよ。怖くて目も合わせたくないないな」

 

 

「私もだよ」「え?」

 

 

 思わず聞き返した。

 

 

「久志との沈黙、私は好きだけど、私だけが楽しんでたらどうしようって、そしたら目があってびっくり。寄り目になりそうだったわ」

 

 

早希は言いながら、両手の人差し指を顔の前で動かしながら寄り目を作り、変顔をするが、ブサイクとは程遠すぎる。普通に、ただただ可愛い。

 

 

それから恥ずかしそうに笑う。思わずハンドルを握る感覚を失いそうになるほど、その愛嬌に魅了されてしまう。

 

 

「つい見惚れて事故りそうなんだが」

 

 

「それは危ない。運転に集中して」

 

 

こちらを向く早希は寄り目を作りながら小さな舌先を出していた。久志は吹き出して笑うと、ハンドルがわずかに左へずれ、それに驚いて少し大きく右に切って左右に車体が大きく振られる。

 

 

「うわああ!」二人は悲鳴にも似た声をあげた。

 

 

立て直し、平常走行に戻ると肩を揺らして息を整えながら顔を見合わせ、笑った。

 

 

 「そういえば、さっきまで撮ってた写真見せてよ」思い出したように早希が言う。

 

 

後ろの座席のカバンに入ってるから適当に見ていいよ、と言うと鼻歌混じりに上機嫌になった早希はカバンからカメラを取り出して、電源を入れた。

 

 

液晶パネルの淡い光に早希の顔がぼんやりと照らされる。

 

 

この前、少し触らせただけなのに既に操作がこなれていて、白い女子の手にごついNikonのフルサイズ一眼が収まっている横顔を今まさに久志は撮りたいと思った。

 

 

早希は写真を見ながら、サイダーガールとかマルシィのMVみたいでエモいと久志のよくわからない固有名詞を入れながらはしゃいでいた。

 

 

朝日奈インターの出口を鎌倉方面に進む。

 

 

鎌倉霊園沿の鬱蒼とした曲がりくねる降り道を、爆音を上げるバイク数台が猛スピードですれ違っていく。

 

 

暗がりから急に現れるこの世ならざる物よりも怖いと久志は思った。

 

 

「ねえ、久志って私のこと好きでしょ」

 

 

再び戻った静けさの中で早希は唐突に言った。

 

 

液晶の青白い光に照らされた早希は挑発的に微笑んでいる。

 

 

「霊園前だからって急に怖い話はやめてくれよ。そんなの、本当にあった怖い話よりもありえない」

久志はハンドルを握る手に汗が滲んだ。

 

 

「え、ここ霊園前なの?」

 

 

「あ、ああ。だからありえん怪談話なんてやめてくれ」

焦る口調は、本当に怪談を怖がる人のように震えていた。

 

 

「怪談話なんかじゃないよ。明るくてキュートで桃色な恋バナだよ」

 

 

「なんだよそれ…」

 

 

雄弁は銀、沈黙は金と言うが、今まさに墓穴に落ちる直前で危うく立ち止まったような心境だった。

 

 

早希のど直球な問いに対し、焦って否定などして、卑小なおじさんの恋心に気づかれるのは何としても避けたかった。

 

 

「私ってあんまり自分に自信ないんだけれど、不意に撮られた写真がどれもよく撮れてる。久志のファインダーに映る私なら、自分の事ちょっと好きになれる気がした。そんな久志の目線が、どれも優しい…そうだな。んっと…愛を感じるって言うのかな」

 

 

 マフラーに口元を埋めて話す早希の横顔は、青白い光の中でもわかるほど少し赤らんで見えた。

 

 

「こんなの見せられたら普通に思うよ、コイツ、私の事好きなんじゃねって?」

 

 

「呼び捨てからついにはコイツ呼ばわりかよ」

 

 

早希はふひひと、楽しそうに笑う。

 

 

「撮影者とモデルってだけの関係性の女の子のポートレート写真は世の中にいくらでもあるだろ。綺麗な風景で綺麗な女の子を撮ったようないかにも写真映えする写真は、表面的には恋人のように見えて、ロマンチックでいいのかもしれない。でも、そういうありふれた写真のほとんどが、結局二人以外のための物だと思うんだよね」

 

 

「ふむふむ。インスタやTwitterでたくさんいいねが貰えそうな量産的な写真って事?あるいは、広告や写真集的な?」

 

 

早希は唇の端を上擦らせながら応え、急に語り出した久志を面白いものでも見るかのように見ていた。

 

 

久志は既に自ら墓穴を掘り出した事には気づいていない。

 

 

「でも俺は絶景も超絶美人も興味ないんだ。ただ二人の何でもない日常の中で、自分にしか見せない相手の表情や姿こそ撮りたい。俺が、カメラを構える時は幸せだからなんだよ。それに相手が微笑んで、受け入れてくれる。あとはシャッターを押すだけで、そんな幸せの瞬間が切り取れる。つまり幸せを感じた数だけ写真が残る。そうやって二人だけの、二人のための写真を残す事が、俺の撮りたいポトレ写真かな。だからぶっちゃけ、今撮ってる写真は俺にとってインスタとかSNSなんて関係ないって言うか…」

 

 

早希を見ると、口角をあげ、今にも吹き出しそうに唇を歪めていた。

 

 

「つ、つまりそ、そう言う恋人の様な関係性をちゃんと演出出来ていれば大成功さ!それって、撮影者の技術がものすごーく高いって事だし」

 

 

「うわ、急な方向転換エグすぎて大事故だわ。墓地で死んだら墓は必要無いのかな?」

 

 

「少なくとも墓穴の準備は完璧だったわ、俺」

 

 

「ナイッシュー」

 

 

「やめろ」

 

 

「はいはい。でも話戻すとさ、技術の話ならそれって、私の演技が一番重要じゃない?」

 

 

「そう…だね、うん」

 

 

 久志は動揺が運転にも現れないようにハンドルを強く握りしめた。

 

 

鎌倉霊園を通り過ぎて闇に溶けた深夜の鶴岡八幡宮を超え、若宮大路をN-BOXはゆったりと進む。

 

 

鎌倉駅を越えればもう間もなく、一面闇しか広がらない海が眼前に現れるだろう。

 

 

「私は久志の前で演技なんてしてないよ。ただ自然な気分に身を任せただけ。このまま時よ止まれ!って思わず願っちゃうほど楽しくてはしゃいでたと思う。久志はそんな私の願いを叶えてくれたけどね。ねえ、これってどう言う意味かわかる?私の気持ち…つまりさ」

 

 

早希は恥ずかしそうにマフラーに頬を埋めながら、上目遣いで見つめてくる。

 

 

追い越し禁止車線に関わらず後続車がハイビームにしながら久志の車を追い越した。

 

 

久志は、生唾を飲み込んだ。気持ち、寒いはずなのに背中はじっとりと汗ばんだ。アクセルを踏んでいる感覚さへ失われそうな浮遊感に恐怖すら覚えていた。

 

 

「撮影者の技術云々より、私の役者としての才能が溢れ出てるからなんじゃないかな。全能感半端ないよ」

 

 

「マジで事故ったろうか?」

 

 

「では、処女のまま死にたくないので」

 

 

 早希は口に手をあてて頬を染めながらもう片方の手でマゼンダピンクのネオンが光る方を指差した。

 

 

「社会生命的に自殺してたまるか!しかも変な新情報混ぜて来んな」

 

 

「まあ冗談だけど」

 

 

「何が嘘で何が本気かはあえて聞かないでおく」

 

 

 「ふひひ」と愉悦そうに笑う彼女を見て、不意に自分も今までにないくらい、一日中笑っているのに気づいた。

 

 

街灯の淡い光が流れて行く。再び甘い沈黙が二人を包み、ラジオからはひび割れた最新J-POPが流れていて、早希は窓枠に肘をかけて鼻歌を鳴らしていた。

 

 

134号線を走っていると、左手に満月に照らされた海が現れた。

 

 

早希は「わぁあ」と子供のような感嘆の声をあげる。

 

 

素直な反応に久志は微笑み、それから月明かりが溢れる海を見て同じく息を吐いた。

 

 

澄んだ空気と月明かりに闇が散らされて濃い藍色になった空に黄金色に輝く月がぽっかりと夜空を抉っている。

海にヴェールのような月明かりが流れて水面に揺れていた。

 

 

久志はハンドルを切って目に入った海岸沿いのコインパーキングに入った。

 

 

「うーみ、うーみー」身体を揺らし変な鳴き声をあげながら久志に何かを訴える早希は、早くも故郷を乞う海生生物に目覚めている。

 

 

「海亀の産卵とか見れるかなぁ?」

 

 

「南の国じゃあるまいし。あり得ないだろ」

 

 

「満月の夜はね、メスはどことなくお腹が疼くものなんだよ」

 

 

駐車を終えて、ふと横を向くと早希が月灯を逆光にマフラーに口元を埋めて上目遣いで顔を覗いてくる。

 

 

「え?下痢か?」

 

 

「さあ満月の綺麗な海で憂さ晴らしと行こうか」

 

 

早希は久志の肩に強烈なパンチを放ってから軽やかに降車した。

 

 

左肩に走った鋭い痛みが鈍い痛みに変わりながら広がっていくのを、久志はどこか心地よく思いながら早希を追いかけた。

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