第14話
早希は久志の手を引きながら静まり返った町田天満宮を通りすぎ、原町田橋を一気に駆け上がると、久志はたまらず早希の手を離した。
久志は、膝に手をおいて肩で息をする。
それを、早希は「おじさん大丈夫?」と揶揄い笑った。
そしてそのままスカートをたたみ、膝を折るとしゃがみながら両手で顔を支えて、悪戯っぽく微笑みながら日頃の運動不足に喘ぐ久志を満足そうに眺めていた。
「はあ、はあ…、ちょっとたんま……」
久志は何かを思い出したようにショルダーバッグのチャックを開けて中を漁った。取り出したのは一眼レフカメラだった。なんと、久志はちゃっかりカメラを持ってきていたのである。
「ちょ、マジか!」
早希はカメラを片手に、額に汗を浮かべて得意げにうすら笑う久志を見て吹き出した。
「しょうがないなあ。パンツは映さないでね」
あご下にピースをする早希を50㎜の単焦点レンズの一番明るい開放F値で捕らえ、シャッターを切る。
直後、早希は急に立ち上がり、両頬に空気を溜めて怒りをあらわにした。
「てか、私がストーカーに追われてるってのに、ちゃっかりカメラ用意するってどんだけカメラバカなのよ」
「はい、ポーズ」
早希は腰をくねらせてウインクし、頬に手を添えて唇を尖らせた。
「いいね、もういっちょ」
久志は早希の声など聞こえなかったように声をかけた。
早希が、今度は長い髪を軽く触りながら、少し顎をひいてからクールな表情を作る。
「最高!」
次々とシャッター音が響く。ポージングを決めて表情を自在に作り替える姿に、久志は興奮を抑えられない。
「って、誤魔化すな!」
早希はまた両頬に空気を溜めて怒った。
「残念ながら、良識がバグっちゃうくらいカメラバカだ。早希に限った事だけど」
そう言うと調子付いたらしい早希は「私って罪な女ね」と、ポーズをとりながら言う。
「お互い様じゃないか、俺も絶賛青少年健全育成条例違反中だし…」
久志はファインダーから目を離して言った。
お兄ちゃんは保護者だから大丈夫だってー」早希の笑みは、久志を悪の道に誘引するには効果絶大だった。
「実は明日が楽しみすぎて、ちょうど準備をしているところだった。とりあえず財布とか諸々入った目の前のカメラバックを掴んで家を飛び出したんだよ…あ、鍵かけたっけな?」
「空き巣さーん、この人の家は今鍵かかってまーん!今夜限りの大サービス、持ってけドロボー」
早希は楽しそうに、やまびこを呼ぶように叫んだ。
「ちょ!勝手にサービスしてくれるなよ。でもまいったな…それどころじゃなかったんだろうな、早希の事も心配だったし」
「…ふーん。じゃあ空き巣に入られちゃったって前提で、慰みになるかどうかわからないけれど、今夜は私のこといっぱい撮っていいよ」
早希は前屈みになって、わざと胸元を強調した。
ブレザーの間の、ブラウスのボタンが外れた隙間に目が釣られてしまう。彼女がわざとであっても、相手は女子高生ながらその色気に久志は思わず胸が騒いだ。
「変な言い回しやめろ!」
そもそも大した家具や貴重品は無く、唯一、防湿庫のカメラ機材が心配だが、最早そのどれもが早希を撮るためにあると言っていい。ならばこの際、空き巣に入られようが悔いは無いように思った。
久志は、ただ興味本位に大人を揶揄っているだけの早希に対してシャッターを連続で切った。
カメラが早希と言う光を切り取るシャッター音が、濃霧の森に鳴り響く遠い汽笛のように、残響し、耳に残っていく。
目の前で、様々に表情を変えてくれる早希がファインダーの中で踊る度、まるで幻を見ているかのような非現実感にとらわれる。
けれど今のこの瞬間は紛れもない現実。なんて、幸せなのだろうと久志は思った。
早希は、金網のフェンスに捕まり「ついて来い」と言わんばかりに、頼もしく口角を上げ親指を繁華街の方へ向けていた。
カラオケに行き個室に入ると、密室の薄暗い部屋に二人きりだというシチュエーションに今更ながら気がつきどこからともなく下心が湧き上がった。
それを久志は、犯罪という強烈な精神的脅しを脳内でシュミレーションすることで抑え込む。
盗撮容疑で世話になった土偶警官に鼻で笑われながら手錠をかけられる屈辱的な光景を想像すると、些細な下心など一息に消し失せた。
ジェネレーションギャップを恐れて選曲を迷っていると、思いのほか早希も2000年台のアニソンを歌ったりしていて驚いた。当然、歌う早希にカメラのシャッターは火を吹いた。
久志は最近の曲が分からなかったので、昔好きだった銀杏ボーイズのベイビーベイビーを歌った際には「いい曲だね」と言いながら聴き入ってくれ、予想外の反応に大いに戸惑った。
てっきり、ダサい、古臭いと笑い飛ばされるのを覚悟し、せめて笑ってもらえれば本望だと思っていたのだが。
久志が熱唱中、片思いの少年の妄想が、伽話染のようなロマン溢れる内容で綴られた歌詞を早希はどこか真剣に見つめていた。
幸せな二人きりの世界に、片思いのあの子とトリップする夢を見続ける少年。そんな気恥ずかしい歌詞を、少し音を外しながら歌う久志の歌声を、歌詞の世界観に全く会っていないカラオケのプレビュー映像を、早希は澄み切った黒目に映しながら小首を揺らしてくれる。
なんて、尊い横顔なのだろうと思った。
歌い終わって、目が合うと、微笑む早希に久志は目をそらした。
カラオケを出てゲーセンに行く。
早希はアニメが好きらしく、久志が知らない呪文のような作品タイトルを口ずさんで、久志の知らないキャラクターを聞いてもいないのに紹介してくれる。
さらに作品の中でも、その影の薄さが逆に尊いのだと推しキャラの良さを熱弁した。
そのキャラのキーホルダーが連なった筐体を見つけた際には早希は発狂したようにはしゃいで、どうしても欲しいのだと久志にせがんだ。
数百円を投入し、ゲット出来た際には早希は声をあげて喜び、景品を頬に寄せる。そんな子供のような姿に、久志はカメラのシャッターを切った。嬉々としながらスクールバッグにそのキーホルダーをつける早希を見て、久志は自分との思い出が形として彼女の所有物になる事を意識しながら、気恥ずかしさを覚えた。
早希はゲーセンを出ると白い吐息を吐きながらお腹減ったと、楽しそうに訴えてくる。
しかし、夜も深いことからこの時間に空いている小洒落たカフェやレストランなど検討がつかない。
店を選びあぐねていると、早希は目を輝かせて一件のラーメン屋を指さした。
そこは、場末とも言える雑居ビルの隙間に、低くて薄汚れた暖簾を下げた一軒のラーメン屋だった。
狭い店内は意外と混み合っていて、しかも全員が全員、男だった。
皆、勢いよく麺を啜り、塩分過多という罪悪感ももろともせず丼を煽り、至福そうな吐息を漏らしている。
鯔背な店員の歓迎する掛け声を受けながら、狭く油ぎった店に女一人の早希は鼻歌混じりに食券を選んでいる。
ボタンが押され、券売機は小気味のいい電子音と共に食券を吐き出した。インスパイヤ系のラーメン屋において、彼女の指先にはあるまじきメニューの食券が握られていた。
「深夜にそれは、健全な女子にとって自殺行為だろ」
大ラーメン。その文字に顔を引き攣らせながら、久志は訴えた。
「いい?ラーメンってのは、食べたい時に食べれば健康食品だよ」彼女は食券をひらひらさせながら言った。
「…暴論なはずのに、腹減ってると正論に聞こえる…って違う!今一度、体重計に乗る直前の気持ちを思い出してみろ!」
事実、香ばしいニンニクの香りが脳を侵していた。
「久志さん。人差し指もうちょい右です」
早希は久志の焦りなど全く意に介さず、小ラーメンに指を伸ばしていた久志の男のプライドを煽った。
「くっそう、こうなったら一蓮托生だぁ!」
提供前、店員は早希に無料トッピングを訊ねた。
慣れた口調で呪文のような受け答えをする涼しい彼女の横顔に久志は恐怖を覚えた。
そして、目の前に立ちはだかったのは、おおよそ人の胃袋には到底収まるべきではない殺人的な野菜の質量で構成されたタワーと、暴力的な油とサイケデリックなニンニクの香りを放つ丼。
それを目の前に、早希の瞳は完全にハートになってキマっていた。
久志がカメラを向けると早希はアヘ顔をする。色々と心配になりながらも久志はシャッターを切った。
二人ともニンニクの香りを身体に纏わせながら店を出た。
至福そうに、どこか誇らしそうにお腹をさすっている早希のどこにあれほどのラーメンが収まったというのだろうと不思議だった。
事実、彼女の食べっぷりには、いつも表情の硬い店の主人が満足そうな笑みをくれる程だった。
時計の長針があと一周もすれば今日のこの幸せな日が昨日になろうとしている頃、水を刺す事は分かっていても言わずにはいられない一言があった。
喉元から無理やり押し上げ、吐き出す。
「そろそろ帰ろうか」
案の定、満腹の余韻さえ久志の冷たい一言が消し去ってしまったように、彼女は少し俯くとその横顔に影が差した。
そして、早希はあからさまなため息をつく。
「帰らないと…だめかな…」
わざとらしく、駄々をこねられると思っていた。
けれど、彼女の声は消え入りそうに、どこか深刻さを帯びていた。
自らの肩を抱き、何かに怯えている。予想外の反応に久志は戸惑うことしか出来なかった。こんな時女子になんて声をかけてあげたらいいのか分からないまま、散らばった頭の中で右往左往するばかりだ。
「私、今夜はその…」
しかし、様子が少しおかしい。今度はソワソワと身体を揺らし始めたかと思うと、内股になり手を恥ずかしそうに前に組んで、徐に久志に上目遣いを向けた。
その頬は紅潮している。
「そっちかよ…」と久志は内心で叫び、胸の高鳴りを感じだ。そして熱い唾を飲み込んだ。
蒸気した頬。桃色の唇がゆっくりと動く。
「帰りたくない」
まるで、自分がカメラのシャッターで切り取られたかのように世界から切り離されたような気がした。一瞬、時が止まった。
「なーんてね、嘘」
さっきとは真逆の意味で言葉を失った。舌を出して、猫騙しにあったように惚ける久志を見て早希は愉快げにケタケタと笑っている。
初めて彼女に少し、怒りを覚えた。けれど、釣られて久志も笑った。
その怒りは他の誰にも抱いたことがない妙な感覚だった。
甘口カレーみたいに、辛さのない甘い旨味に満ちた、穏やかで気分のいい怒りだった。
先ほどの、急に男である事を試されそうになった瞬間が冗談でホットしたのだろう。
「今日から冬休みなんだけど、実は今日はバイト終わりにそのまま友達の家に泊まりに行くって親には説明してあるんだけど…」
早希はどこか辿々しい口調で目を泳がせている。
「お友達の家に泊まりにいくのにわざわざ家に帰ってきたのか?」
実際、彼女は帰る途中にストーカーに追われてる。友達の家に泊まるのに、わざわざ帰宅する理由があったのだろうか。
「ごめん、私、久志さんに嘘つきました」
かと思ったら、早希は急に頭を下げてから、ずるい上目遣いで久志の目を覗いた。
「仏の顔も三度までとか言うよな」
「いや、久志の顔は何度でもよ」
「上手く捻じ曲げても、サッカーだったらレッドカードだぞ」
「でも野球ならもうワンナウト残ってる。久志なら無限」
「俺をチートモードの謎ゲームに仕立てるのはやめてくれ」
「ごめんちゃい」
「よろしい。じゃあ洗いざらい正直に話せば許そう」
久志はため息をついてからバツが悪そうに口を尖らせる早希に訊ねる。
「ストーカーに追いかけられたのは嘘です」
「なんでそんな嘘をついたんだ。マジで心配したんだぞ。ご丁寧にカメラを持ってたけれど、駆けつけたのが馬鹿らしいじゃないか」
「馬鹿じゃない!いや、カメラ馬鹿だけど…来てくれたのはすごく嬉しかった。嘘ついたのは、なんて言うか、まあ…久志さんにあいたか…」
「久志の顔は三度までだからな」
「三度目以降、逆に興味ある」
「まあ、さっきの言葉の先を言われたらだらしない顔でニヤケまくってるだろうけど」
「じゃあ言っていい?久志のニヤける顔がみたいの」
「あのな、大人を揶揄うな」
「久志さんに会いたかったの」
「いや、嬉しいなぁこのやろう」
久志は堪えきれずに顔中の筋肉がだらしなく弛緩してしまう。
「なるほど、気持ち悪いわね」
久志は、顔面の全ての筋肉を駆使して泣くのを必死に堪えた。しかし、涙はフィジカルではどうにも制御できなかった。
「三度目以降の顔、ヤバいわね」
「いい加減にしろ!」
「別に信じなくてもいいけどさ。明日会う予定があるから、今夜久志さんに会うための理由が思いつかなかったの」
早希はつまらなそうにそばに転がっていた小石を蹴った。
つまるところ早希は、あのような嘘を付いて、久志に今夜構って欲しかったと言う事らしい。
久志は、心の中で歓喜の雄叫びをあげていた。
そして、お互いに押し黙りしばらく紅顔を背けていた。久志は、恥ずかしさを誤魔化そうと、自然に手に握ったカメラへと逃げてしまう。
カメラを構えると、つまらなそうに髪を触る早希の姿を撮った。
「ちょっと変なところ撮らないでよ」
早希は慌てたように久志に迫った。小さな拳が背中をポコポコと殴るが、その痛みはなんとも心地いい。
「不意打ちなんてズルい!撮ってもらうメンタルじゃなかったし今ぁ」
早希がカメラに迫っている姿を35ミリの画角で抑える。久志も照れ隠しだった。
「ちょっとマジでやめてよ、もう!」
早希はカメラを持っていた久志の腕を振る。頬を膨らませる早希はやはり可愛かった。
怒っている表情を、笑いを堪えて必死に作る姿に、久志は調子に乗りそうになるが、不意打ち撮影は本当に嫌そうなので、いい加減やめてやる事にした。
闇夜を拒絶するかのような灯で満ちた、まだまだ眠る気配のない繁華街の中心に楽しそうな笑い声が響く。
少なくとも、気不味く気恥ずかしい空気は打ち晴らせたようだ。
「ねえ、久志さん車運転できる?どこかちょっと遠くにでも連れてってよ」
例え目の前の光景が夢だとしても、その映像は一生脳裏に焼き付いているだろうと思った。
彼女のキラキラとした楽しそうな表情が、その声が、渚のように久志の意識に何度も打ち寄せ残響する。
代わり映えのないつまらない日常がただ垂れ流されていく冗長な映画のような日々を、眠たそうな目を擦って見続けている必要はない。
つまらないのなら違う映画をセットすればいいのだ。そしてどんな映画が始まるのかと心を躍らせながら、未知の物語に身も心も委ねればいい。
例えそれまで積み重ねた時間の意味がゼロになるのだとしても。大事なのは、心が踊るか、そうじゃないのかではないか。
「早希が思ってるほど遠くじゃないかもしれないけれど、俺なりにちょっと遠くでいいなら」
「やった」
早希は嬉しそうに小さく跳ねた。そして、久志は24時間営業のレンタカー屋でホンダのN-BOXを借りた。
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