第18話


「ねえねえ起きて」

 

 

 深い眠りの沼から無理矢理意識を引き抜かれる感覚は、その囁く彼女の声でなければ不快感に思えたかもしれない。

 

 

 遠くから波の音が聞こえて来る。重い瞼を開く。薄明りの空は紺色に染まっていた。部屋は外よりも濃い藍色に染まっていて、目の前に早希の顔がぼんやりと浮かんでいた。

 

 

久志は寝ぼけ眼を擦って、ゆったりと瞬きをした。早希は薄い唇を持ち上げた。

 

 

「朝日、見に行きたくない?」

 

 

 正直3時間くらいしか寝れていないので、昨夜の疲れが接着剤となって背中と布団を強力に接着していて取れそうにない。あくまで誘いであるから断る余地はあるのだろう、と久志は思った。

 

 

「…ごめん、かなり眠い、無理かも」

 

 

 唸るような声が口から漏れ、瞼を閉じた。衣擦れがし、早希は首を傾げながら顔を近づけて来る。

 

 

ふわりとシャンプーの甘い匂いが鼻を掠めた。

 

 

眠りの沼に沈みかけた意識が、再び浮上する。

 

 

「ねえねえ久志…」耳元で囁かれる。

 

 

頬に彼女の髪の毛が触れ少し痒かった。

 

 

「ねえ、久志…」焦らすように名前を何度も呼ぶ。

 

 

生暖かい吐息が耳にかかる。

 

 

「久志さ…」

言葉を発しようとする際の、口内の唾液の絡む音が聞こえるほど、早希の口元は近距離だ。

 

 

腰が浮くようなくすぐったさが背筋を這う。妙な興奮を覚えそうになったその時だった。

 

 

「昨日からずっと、鼻毛が出てるんだよね」

 

 

「きえーーー!」

久志は絶叫を上げながら布団を吹っ飛ばし、バネのように起き上がった。そして羞恥に打ち震える乙女のように、顔を覆った。

 

 

側には、肘を立てて掌に顎を乗せ、パタパタと優雅に空中をバタ脚させながら面白そうに笑う早希がいた。

 

 

「いつからだ!?いつからお鼻からこんにちはしてたんだ!?挨拶されたら挨拶を返すのが礼儀だろう」

久志は呑気にしている早希に、突き刺す勢いで人差し指を振るって叫んだ。

 

 

 

「ふふふ、こんにちはじゃなくて、今はおはよう、でしょう?」

 

 

鷹揚に言う早希に、さっきより明るくなった紺色がふわりとかかる。

 

 

もうすぐ日の出なのだろう。

 

 

「どっちでもいいそんなの!畜生!ちょっと洗面所行ってくる」

 

 

「ごめんごめん、鼻毛は嘘だよ。ねえねえ、海行こうよ。うっみー」

 

 

 兄妹設定のせいで相部屋だったのだが、早希の寝ていた布団は久志の布団とは2畳分ほど離してあった。

 

 

誰もいなくなって乱れたシーツの上に浴衣が脱ぎ捨てられている。早希は既に制服のスカートとブラウスを身につけていた。海へ行く準備なのだろう。

 

 

「う、嘘だと!…ふ、ふて寝してやる」

 

 

久志は布団を被るが、不覚にも彼女の悪戯によって、眠気と言う名の接着剤はもう効き目がなくなっていた。

 

 

「添い寝してやる」

 一瞬耳を疑った。

 

 

けれど、その有言はすぐに実行に移された。早希に向けた背中に生暖かい柔らかな肌の感覚が触れ、その面積は徐々に大きくなった。

 

 

その感触に戸惑っている内にいつの間にか脇腹あたりに手を回されて動けなくなる。

 

 

耳元に彼女の悪戯っぽい声と息遣いを感じる。甘い香りが布団の中という密室に充満し、甘美な窒息に久志の心臓は爆発しそうに跳ね上がる。

 

 

「こ、子供が大人をからかうんじゃない」

 

 

 久志はかろうじて残った理性を振り絞り、布団ごと飛び起きた。

「まったく、どっちが子供なんだか」

 

 

かけ布団のなくなった白いシーツの上で早希はつまらなそうに身体を起こす。スカートがはだけ、白い陶器のような太ももが覗いていた。

 

 

折り畳まれた足先は素足で、健康そうな艶のある指がどこか、寂しそうに折り畳まれている気がした。

 

 

ブラウスのボタンは第三ボタンまで外れていて、昨夜見た水色の生地がまた見えそうになって目を泳がせた。

 

 

スカートに入っていないブラウスの裾が描く猥雑さは、男である理性をくすぐってくる。狙っているのかいないのか、早希は意味深な笑みを艶のある細い唇にたたえていた。

 

 

 こうも乱された思考をリセットする方法はもはや他に無かった。

 

 

「行こう」

 

「え?」

 

「海。朝日見るんだろ?」

 

「うん!」

 

彼女の表情に、朝日よりも眩しい笑顔が咲いた。

 

 

部屋を出ると薄暗い廊下に米の炊ける香ばしい匂いが漂っていた。

 

 

ロビーへ出ると、仄かに赤みかかった空の柔らかな暖色が、レトロな古い家具が並ぶホールを淡く照らしていた。

 

 

「おはよう。昨夜は遅かったのにこんな早くからお出かけかい?」

 

 

 主人は玄関で掃き掃除をしていた。

 

 

疲れた表情を隠せない久志の顔を覗き込みながら訊ねてくる。

 

 

「妹が朝日を見たいと」

 

 

「兄を叩き起こしてやりました」早希は得意げに拳を作る。

 

 

叩き起こされてはいないが、実際いろんな意味で脳天を揺さぶられたのは間違いない。

 

 

「うん、元気な妹さんら。朝ごはんは作っておくすけ、気をつけて行ってきな」

主人は、新潟弁で実に爽やかな笑顔を向けてくれる。

 

 

「やった!」両手を広げて喜ぶ早希に、主人と久志は顔を見合わせた。久志は苦笑う。ここまでよくしてくれる主人に、申し訳ないという気持ちが発露するが、主人は笑顔のまま頷いてくれた。

 

 

 

「昨日あれだけ食べたのにもう腹減ったのかよ?」

 

 

久志が呆れたように言う。

 

 

昨夜の夜食とも言える時間帯の新潟料理のフルコースを早希と久志はいとも簡単に平らげたのだが、早希はその後、コンビニのおにぎり一個分はある三角ちまきを3つは食べていた。

 

 

「おじさん、また三角ちまき食べたい」

 

 

「うんうん。今朝は笹団子もあるすけ、またいっぺ食えばいいこて」

 

 

言いながら、主人は目元を拭う仕草をする。まさかとは思ったが、主人は涙ぐんでいるのか。

 

 

久志はこの宿に来た際の妙な設定を思い出した。訳あって着の身着のまま兄妹二人きりで夜逃げしてこの宿に転がり込んだ、と言うあのいかにも怪しい設定を。

 

 

主人は手を振る早希に手を振り返しながら、再び目元を拭った。

 

 

何故、夜逃げして来たのかを訊かないでくれる主人には感謝しかない。これ以上の嘘を重ねるのはここまで良くしてくれる主人に申し訳ないという気持ちと同時に、当然、これ以上上手い嘘も思いつかないからだ。

 

 

久志は屈託のない主人の笑顔に見送られながら、頭を下げて浜辺へと早希を追った。

 

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