第19話


深呼吸をすると、潮の匂いを含んだ冷たい空気が火照った身体を程よく冷やしてくれた。

 

 

「早朝の、うっみー」波の音と早希の軽やかな声が響く。

 

 

 紺色の西の空から伸びる水色は、東のオレンジがかった水平線に向かってなんとも言えない甘いグラデーションを描いていた。

 

 

冬の寒さを和らげるような柔和なオレンジが波に揺れている。

 

 

澄んだ空気のおかげでどこまでも高い南の空に、昨夜の満月が夜に取り残されたように、消え入りそうになりながらぽつりと浮いている。

 

 

 

 砂浜に降りた瞬間、はしゃぎながら走り出した早希を久志はカメラで追った。

 

 

明るいおかげで昨夜より早いシャッタースピードで早希を捉える。

 

 

不意に早希はスカートを翻しながらこちらを振り向く。

 

 

マーブル色の空と青い海を背景に、風になびかれる髪を耳にかけながら、自然な笑みをつくってくれる。

 

 

ファインダーの中で、朝日よりも眩しい光がそこに輝いていた。

 

 

「って言うか、ローファーの中に砂めっちゃ入った。えい!」

 

 

 早希は叫ぶと右脚を前に突き出した。

 

 

ローファーは綺麗な弧を描いて砂浜に着地する。横構図で、早希が空を蹴り上げている写真が撮れた。放られた靴は余白に見事に収まっている。

 

 

「久志!いくよー」

 

 

 早希は、こちらの返事も待たずにもう一方の脚を大きく蹴り上げた。久志はカメラを連写する。

 

 

 撮影後、プレビュー画面に撮れた写真の一連の動作がスローモーションのように再生される。

 

 

無邪気な笑顔の早希の脚が空に伸びていく。

 

 

早希の表情は、はしゃぎ回る子供のように破顔していて、脚が空に伸び切った時に靴は消えていた。

 

 

そして、蹴り上げた脚を下ろしながら早希はだんだんと驚きと焦りの表情になった。

 

 

その表情がどんどん濃くなる。

 

 

やがて久志のカメラは明後日の方向を移して画面がブレ、次の写真では何もない砂浜を写していた。

 

 

さらに次の写真には心配そうに笑いながらこちらに寄ってくる早希が写っていた。

 

 

 

「うわ、ごめん。まさか直撃するとは思わなかった。大丈夫?」

 

 

 頭に鈍い痛みが残っている。

 

 

早希が放ったローファーは、見事に久志の脳天を直撃していた。

 

 

 

「ああ、なんとか…」早希は八の字に眉を下げていた。

 

 

せっかく開放的になってくれた早希に、カメラマンが気を使わせるわけにはいかない。

 

 

「早希のパンチラ撮れた報いだろうな」

 

 

「ざまあみろ」

 

 

小さな拳が飛んでくるが甘んじて受け、心地の良い痛みが肩に広がる。それでも久志は懲りずに口を尖らせる早希を撮った。

 

 

 早希は海の方に身体を向けると今度は、片脚のソックスのつま先を引っ張り、両方のソックスを砂浜に放る。

 

 

その背中は、次にどんな可愛い姿を見せてくれるのかと、こちらの期待感を盛り上げてくれる頼もしさがあった。

 

 

久志はそんな靴下を脱ぐ後ろ姿にすら、シャッターボタンを押した。

 

 

ただ記録するのではなく、自らの記憶に焼き付けるように何度も何度も。

 

 

「おーい、脱ぎ捨てた靴下とか靴とかどうするんだ?」

 

 

「パンチラ写真あげるから拾ってー」

 

 

 早希が振り返り扇情的に笑う。

 

 

「ったく…」愚痴を言いながら、さっきから頬は緩みっぱなしだった。

 

 

拾い集め、砂を払ってから持ってきたカメラバッグに靴と靴下を救出すると、裸足で波打ち際まで走る早希を追いかけた。

 

 

 波打ち際では、小さな波がシュワシュワと泡を弾かせながら消えていく。

 

 

冬の海にも関わらず、早希は躊躇なく押し寄せる波に素足を浸からせた。

 

 

「きゃあ冷たい」

 

 

「ちょっ!おい、さすがにそれは風邪ひくぞ」

 

 

 そうは言いながらも、久志は早希にカメラを向け続けた。

 

 

「じゃあ一緒に風邪ひこう、っぜ!」

 

 

 早希は波の上で脚を蹴り上げた。真冬の塩水が、太陽が顔を出す直前の臙脂色がかった空をキラキラと舞い、久志の衣服やカメラに着弾する。

 

 

「おいおい、勘弁してくれよ」言葉とは裏腹に久志は笑っていた。

 

 

子供のようにはしゃぐ早希にカメラのシャッターは切り続けた。

 

 

 水飛沫を撒き散らす早希をしばらく追いかけていると、一瞬だけ稲光のような閃光が水平線を駆け巡った。

 

 

 

「わあぁ」

 

 

「はいはい、そろそろマジで風邪ひくから海から一旦あがろうな」

 

 

 早希の手を引いて波が掛からない所まで避難させる。

 

 

 さざなみの音が大きくなった気がした。

 

 

遥か水平線から、黄金色の太陽が顔を覗かせる。眩いオレンジは、西の空に僅かにかかった藍色の夜を、祓うかのように迫り上がってくる。

 

 

僅かに残っていた星も、明るみがかった空に溶け出していた満月も無くなって、世界が朝へと移り変わる。音もなく繰り広げられた目の前の光景に久志も早希も黙って見ていた。

 

 

「綺麗…」新鮮な朝日を受け、息を漏らすように言う早希の横顔を、思い出し、捕らえる。

 

 

「早希の方が綺麗だよ」久志がいう。

 

 

「最高の瞬間をそんな手垢塗れの世辞で汚すなバカ」すかさず早希が三流ドラマの大根芝居をぶった斬った。

 

 

「照れている、と受け取っておこうかな」

 

 

実は満更でもなかった久志はちょっぴり傷つきながらそれを悟られまいと下唇を噛んだ。

 

 

 早希は、再び押し黙り、口角を柔らかく上げて瞑目する。

 

 

そんな横顔を捉えようとシャッターボタンを意識したその時、早希の手によって阻まれた。

 

 

正確には早希に片方の手を封じられた。

 

 

小さな手が久志の手を、指を絡める。

 

 

その手の冷たさに驚き、少しでも温めてあげられるように、ぎゅっと握りしめた。

 

 

横を見ると柔らかい光に包まれ、潮風に髪をなびかせる早希がこちらを見ていた。

 

 

「イケメンすぎないか?」冗談でもなんでもなく、久志は心から言った。

 

 

 

「ふひひ」と、少し独特な笑みをこぼしてから早希は「それなら嬉しい」と穏やかに言った。

 

 

その横顔は間違いなく、朝日よりも綺麗で、イケメンで眩しかった。

 

 

「新潟の海だと水平線に沈んでく夕日が見れるけれど、こっちで見れる朝日もいいねぇ…」

 

 

 早希は、波の音に消え入りそうな声でそう言った。そのどこか切なそうな横顔に見覚えがあった。

 

 

それは昨夜、宿の広縁で思い出した彼女の姿だった。心の奥底に仕舞い込んだはずの埃を被った古い古い記憶をしまった引き出しが、不自然に音を立てた。

 

 

主人の新潟弁への素早い返答。

 

 

新潟の郷土料理を堪能する時の並々ならぬ興奮と感動めいたリアクション。

 

 

兄妹設定でしかも新潟出身の自分に合わせるための演技だとしても上手すぎる。と言うより自然そのままだった。

 

 

それに、自分が新潟出身だと彼女に言った覚えがない。

 

 

彼女が便宜的に始めた兄妹設定さへ、どこか見えない紐で手繰り寄せられているような誘引力を感じ、どこか居心地が悪いような、それでいて悪くない、くすぐったいような妙な嬉しさを感じる。

 

 

 朝日に照らされた早希の横顔を見つめる。

 

 

光の中に滲んで溶けていってしまいそうな儚さの中で揺れているその横顔に、久志は胸に僅かな痛みを覚える。

 

 

「ああ、そうだな…」

久志は、絶好のシーンにも関わらず、写真を撮ることも忘れて、凪いだ海の朝日の煌めきに染まる早希を隣で感じていた。

 

 

 新潟の日本海の海では、時期によるが水平線に沈み行く夕日は見れても、登る朝日は見れない。彼女はまるで、新潟の海で見れる日を知っているかのようだ。

 

 

「約束は、守ってくれてありがとう」

 

 

そう言ったはずの早希の声が、まるで別人の声で耳に届いた気がした。

 

 

久志は驚いて早希の方を振り向く。

 

 

「え?…約束?」久志が訊ねると、早希は些細な忘れ物に気づいたようにハッとなり、繋いでいた手を離すと、何かを誤魔化すように笑う。

 

 

「あ、ごめん。ただ本当に日の出見たかっただけだから、ちょっと大袈裟に言っちゃった」

 

 

 離れた手先が急に冷えていく感覚が妙に寂しかった。

 

 

笑う早希の目元に、雫が光ったように見えたのは気のせいだろうか。

 

 

そうであれば、笑ってはいるけれど、何かを堪えるように薄い唇が震えていたのも気のせいだろう。

 

 

久志もまた、何かを誤魔化すようにカメラを海に向ける。

 

 

早希と見た風景を、記録に残すためという程でファインダーを覗く。

 

 

朝日が空に描いた青とオレンジの美しいグラデーション。黄金色の雲。煌めく水面とビーチ。けれど、シャッター音は大きな渚の音に虚しくかき消されるだけだった。

 

 

やっぱりもう。

 

 

自分の撮る写真に、早希が写っていないのは酷く寂しい。

 

 

「へっっくしょい!!」

 

 

 隣で盛大なくしゃみが聞こえた。振り向くと、背を丸めながら両肘を摩る早希と目が合った。ジト目になって鼻水が垂れている。

 

 

「ふへへ、はしゃぎすぎちゃったみたい」ズズ…と鼻を啜るが、すぐにまた垂れてきた。シャッター音が響く。

 

 

 

「乙女の羞恥を盗撮するなバカ」鼻声で訴える早希。

 

 

「どんな綺麗な風景より鼻垂れ早希には叶わんな」

 

 

「言ったな!変態カメラオタクめ」

 

 

「好きって感情は往々にして変態になるんじゃないかな?」

 

 

「意味わかんないし盗撮魔の心理なんて掘り下げたくない」

 

 

 久志はコートを脱いで早希に羽織らせた。

 

 

「…ありがとう。でもマフラーは渡さないから」

 

 

 早希は昨夜と同様、コートオンコートでぶかぶかになり、さらに自らファーを被ってエスキモーのような風態になる。そのスタイルの良さと容姿で人目を惹きつけるほど完璧な彼女が、不恰好になっているのは懲りずにカメラを構えたくなるほど可愛い。

 

 

しかし今はカメラを構えない方が良さそうだ。

 

 

「はいはい。ポケットにティッシュあるから使って」

 

 

「おーい、お前たち。飯できたから帰ってきな」

 

 

 砂浜に主人の声が反響した。久志は振り向き手を振って了解の旨を手を振って告げる。

 

 

「いえーい三角ちまき~」

 

 

 サーファー達が自分の背丈以上あるサーフボードを持って砂浜にやってきた。

 

 

そんな人目も気にせず無邪気に声高らかに叫び、我先にと帰る早希の背中を、久志はこの時はまだ何も心配せずに見守っていた。


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