第20話


宿に帰ると、既に朝食が出来上がっていた。

 

 

鮭の切り身としじみ汁。適当な青物と魚沼産のコシヒカリと言うシンプルな朝食だった。

 

 

その他に、久志と早希が主人に好物だと公言したのっぺと三角ちまきが提供され、「もちろんこれもサービスらこって」と、懐かしい味にまだまだ舌鼓を打ちたい久志達を、ついでに訳ありな事も含めて労ってくれた。

 

 

デザートだと言って出された笹団子は、久志にとっては子供の頃以来で、実に懐かしい味だった。

 

 

「ごちそうさまでしたぁ」二人の手を叩く音が、柔らかな陽だまりになった食堂に響く。

 

 

昨夜の宿泊客は久志達だけだったらしく、暖かな食堂には閑古鳥が鳴いていた。

 

 

一度は宿泊を断られているが、久志は主人の厚いおもてなしに多大な感謝をしていた。

 

 

同情を誘うような妙な設定のせいで支払いを断られたら、畳んだ布団の枕元に宿泊の満額分のチップを置いておこうと决めた。

 

 

早希は頬にもち米ときな粉をつけながら、満足そうにお茶を飲んでいる。

 

 

「早希、頬に好物がまだ残ってるぞ」「うぇ~い」

 

 

嬉しそうに米粒を摘む早希を見て、主人が微笑む。

 

 

「微笑ましいね。そういえば、深い事は訊かんが、あんた達は新潟のどこ出身なんだ?」

 

 

 兄妹設定を勝手に押し付けたのは早希だったが、そろそろ嘘ばかり並べるのは心苦しいと思った久志は事実を伝えた。

 

 

「僕達は新潟の燕市出身です」

 

 

「おー、本当か。俺もそこ出身らて。いや、たまげたぁ。まさかご近所さんらったとはね」

 

 

驚いたのは久志も同様だった。関東のど真ん中で宿を営む新潟弁の、しかも同じ地域出身と来たら、今泊まっているここは母の言っていた隣のおばさんの弟さんの婿入り先の宿かもしれない。

 

 

だとしたら、いくら隣近所だとしても、お互い一回り以上年齢が離れているせいか、あまり面識が無かった事が幸いした。

 

 

しかし、これ以上話題を掘り下げられると何かボロが出てしまうかもしれないと、久志は手に大量の汗を握っていた。動揺し、額に汗を浮かべて目を泳がせている久志の横で、早希は呑気に頬杖をしながら爪楊枝を口に挟んで時間を持て余していた。

 

 

「もしよかったら、苗字、聞いてもいい?」あまり深いことを訊かないと言ったセリフはどこへやら。主人は同郷者に俄然興味を抱いて我を忘れかけているようだ。

 

 

その質問は、狭い田舎では一発でどこの誰だか分かる最大の尋問だった。

 

 

そこで久志は頭の中で当時のご近所さんの地図を広げ、近場に覚えのないなんとなく思い浮かべた適当な苗字を思い付いて言った。

 

 

「み、水本、です」

 

 

その苗字を聞いて、主人は首を捻りながら思案した後、頭の上の電球が灯ったような反応を見せたが、すぐに顔を曇らせた。

 

 

「うーん…聞いたことあるような無いような。うちの姉ちゃんなら知ってるろっかなあ。ああ、うちの姉ちゃん、県立病院で看護師してて、人の不幸から何まで、よく知ってる下世話な人でさあ。こっちに婿入りしてからも、あっちの情報には事欠かねえんだわ。は…姉ちゃんから最近そんな名前、聞いたような…」

 

 

主人は頭から湯気を吐き出しそうに掻きながら言う。

 

 

「ご主人。新潟の料理、本当に懐かしくて美味しかったです!」

 

 

 主人の言葉に、久志の頭の中では母親の言葉が残響していた。確信が動揺に変わりぎこちなくなった久志を、早希が知ってかしらずか助けてくれた。

 

 

SNSでバズる力を持っている、自他ともに認める明かな笑顔を向けられた主人の顔は、淡い朝日に照らされても、その照れようは隠しようがなかった。

 

 

「おお、それはよかった。三角ちまき、美味しかったか?」

 

 

「うん!」

 

 

 子供のようなあどけない返事は、嘘偽りのない純然さに輝いていて、作り手である主人を大いに喜ばせたようだ。

 

 

「じ、じゃあ、いつまでも長居していられないので、僕達そろそろ帰る準備しますね」

 

 

 久志がおずおずと言うと「いやいや、お風呂も沸いてるすけ、入って行きなて。外、寒みかったろ」

 

 

 主人の最後まで温かい厚意に、久志も早希も甘える事にした。

 

 

 

 郷土料理に舌鼓を打ち、温泉にも浸かって身も心もすっかり癒された久志は、ほくほく気分で自室に向かう。

 

 

早希はまだ風呂だろうと勝手に思いながら、ドアノブを捻るとドアが開いた。

 

 

古い旅館に自動ロックはない。鍵をかけ忘れた事を反省しながらも、主人一人しかいないのなら警戒も何もないのかもしれないと一人自嘲思し、自室に上がった。

 

 

朝日が滲む和室に、埃が光を散らしながらキラキラと舞っていた。遠くで波の音がする。

 

 

 静かだ。顔を洗おうと洗面室に行くと半開きになったドアから白い何かが見えた。

 

 

正確には純白のブラウスと白い素肌。それから上下水色のブラとショーツに引き締められた女性らしい肢体が目に焼き付く。

 

 

ブラウスを捲り、自らの身体を鏡越しに見ている早希がそこにいた。

 

 

 そしてあるものが目に飛び込み久志は思わず目を見張った。

 

 

透明感のある真っ白な少女の肢体。その脇腹や背中に見るも無惨な青い痣が、異物として早希の身体に張り付いていた。

 

 

「!…」

 

 

久志が息を呑んだ気配に気づき、早希は振り向くと引き戸を勢いよく閉めた。

 

 

 

「バカ!変態覗き魔!」

 

 

「ご、ごめん…」

悪気はなかったが、無駄な好奇心は高い恨みを買ってしまっただろうか。

 

 

「昨日ストーカーに追いかけられた時に転んでぶつけたの」

くぐもった声が、扉越しに響く。

 

 

ほろ苦い罪悪感が、胸に染み入ってくる。今まで彼女は痣の痛みに耐えながら、自分のカメラの前で笑っていたのかも知れない。

 

 

そう思うと、今まで何も気遣ってやれなかった無力感が、悔しさとなって怒りの熱を伴いながら全身の血管を駆け巡る。

 

 

「今まで気にしてやれなくてごめん。それ、痛むのか?」

 

 

早希を隔てる扉に触る。彼女の衣擦れの音を意識しながら。

 

 

「ううん。…」

 

 

「すまん…」

 久志は謝り、そして今一度脳裏に焼き付いたあの痣を思い出し、もうこれ以上、その傷に触れないでおこうと決めた。

 

 

「ねえ、今日はこれからどうするの?」

 

 

 冷たい扉が寂しそうに訪ねてくる。

 

 

帰る事を惜しむような、ほとんど不安を敷き詰めた僅かな期待を、託されているような声だ。

 

 

「今日は撮影会の約束してただろう?忘れたのか?」

 

 

「そういえば、そうだったね」

知っていたくせに、と言ってやりたい。口角が上がり華やぐ気配を隠し切れていない早希は、白々しいほど素直で可愛い。

 

 

「家に遊園地のチケットがあるんだ」

 

 

「遊園地!やった、もしかしてディズニーランドかシー?」

 

 

 扉が僅かに開き、隙間から瞳を輝かせた早希の顔が現れた。

 

 

「なんで遊園地って言ったらディズニーになるんだよ。確かにそっちも豪華絢爛だろうよ。でもこっちはイルミネーションの数じゃ負けちゃいない。よみゆりランドは嫌か?」

 

 

「ううん、好き。行った事ないけど」

 

 

「行った事ないのに好きなんだな」

 

 

「久志と一緒ならどこでも好きだよ」言いながらわざとらしく口を塞いだ。

 

 

「おっさんを揶揄うな」

 

 

「ふひひ、あ。でもディズニーもいつか行きたいな」

 

 

「俺なんかとで良ければランドもシーも二泊三日でどっちも楽しませてやる」

 

 

「ついにおっさんの本性見せつけたな。そのパパ活の申請、喜んで受理しようではないか」

 

 

早希は言いながら小指を鍵状に曲げた手を伸ばしてくる。

 

 

久志も同じように手を作って指を絡めた。

 

 

「俺の社会人生命が破滅に向う悪魔の契約だな。ってかこういう場合握手じゃないか?」

 

 

交わし合う冗談は、気まずい雰囲気をはらってくれたような気がする。

 

 

「指切りの方が破った時の罪が深い気がするから」

 

 

指切りならば、破った時の条件は無いのか?と、骨張った彼女の指の冷たさを感じながら思った。

 

 

笑う早希の笑顔は、朝日の差し込む朗らかな和室の隅に溶けていってしまいそうなほど儚く見えた。

 

 

束の間の密室はそろそろチェックアウトの時間だった。久志は、ネットで調べたこの宿の一泊分の料金を、畳んだ布団に忍ばせて荷物をまとめた。

 

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