第21話

 

宿を後にした車内からは、朝の透き通るような空から一転。澄み切った冬の青空を押し上げるように、筋骨隆々の灰色の雲が海の向こう側から迫ってきているのが見えた。

 

 

「午後には発達した雨雲が太平洋側から流れ込み、関東は今夜にかけて雨。寒波の影響もあって所により雪が降るところもあるでしょう。明日はクリスマスイブですが、もしかしたら関東では訳60年ぶりのホワイトクリスマスになるかもしれません」

 

 

 なんとなく付けていたラジオ。女性キャスターの快活な天気予報に被せるように、おじさんパーソナリティーがセクハラ紛いなプライベートな質問を投げかけている。

 

 

一緒にいるであろうスタッフの笑いも混じり、和気藹々としたトークが車内に流れていた。

 

 

「明日クリスマスだったんだな」

 

 

気づけばもうそんな時期だったことに、今更気づいた。

そんな世の中が色めき立つ一大行事を避けてきたのは、長い独り身生活で腐って捻くれた性根が、その眩しさに耐えられなかったからだ。

 

 

「クリスマスじゃなくてイブだよ。そこ重要じゃない?」

 

 

「長年、ぼっちだった俺にとって些細な事なんだ。なんか知らずに誘ちゃってごめんな」

 

 

「なんで謝んの。やっぱりサラリーマンやってると謝り癖で自己評価低くなんの?」

 

 

「確かに昔に比べれば腰が低くなったかもな。でも悪くないぞ。身の丈にあった姿勢を保てば入り組んだ社会を上手く歩けるんだ」

 

 

「ダサ。って言ったらこんな私をガキだって思うんでしょうね」

早希は窓の外を眺めながらサラリとそんな事を言う。

 

 

大人びた横顔にドキッとする。

 

 

「早希は世渡りの才能がありそうだな」

 

 

「嬉しくないし、で。クリスマスはフリーだって自分は宣言しておいて私の予定は聞かないの?」

早希は、久志に向き直って言った。

 

 

「どうせ同年代のノリの合う奴らと華やかなクリスマスパーティーとかだろ?それか男とデートか?まあなんでも、早希が楽しんでくれるなら、俺はいいと思う」

 

 

 満足そうに微笑みながらハンドルを握る久志の横顔を見て、早希はため息をついた。

 

 

「ねえそう言うお節介、親心みたいでウザいんだけど」

 

 

「妹想いのお兄ちゃんをまだ続けているつもりだが」

 

 

「今は別に設定とか関係ないじゃん。なんか萎える」

 

 

 早希は口を尖らせて窓の外を向いてしまった。

 

 

「どうした?穏やかじゃないな」

 

 

 女子高生らしくお節介な大人を煩わしがる早希が、久志は微笑ましく笑いかけた。それこそ鷹揚な大人の貫禄を見せつけるように。

 

 

「そうだ、今日の撮影会だけどさ。私服で撮影しないか?」

 

 

 久志は何事もなかったかのように、すぐに話題を切り替えた。

 

 

 早希の私服姿を見たことが無い久志の頭は、既に妄想で膨らんでいるのか、ニヤケ面を隠せていない。しかし久志とは裏腹に、早希は押し黙ったまま窓の外を睨んでいた。

 

 

「ん?どうした?」

 休日で混み合った幹線道路は渋滞を肥厚させている。久志達の車もゆっくりとその長い列に加わった。

 

 

「着替えなきゃダメかな?私的に制服で撮るのもJK強調出来ていいと思うんだけど。好きでしょJK」

 

 

「それならたくさん撮れた。今度は違う雰囲気の早希を撮りたいんだ。私服ならなんでもいいからさ。これから家に送るから17時に駅に集合しよう」

 

 

「待って、家に送るのだけはやめて!」

 

 

 急に語気を強めた早希の目は、どこか切実だった。小さな唇が心なしか震えている。

 

 

「…駅、でいいよ。買い物あるから」

 

 

「お、おう…」

 早希は顔を背けるようにまた窓の外に目をやってしまった。

 

 

そのまま渋滞を抜けるまで早希は不自然に口を閉ざし続け、その時間の経過とともに久志は沈黙の重さに耐えかねてラジオに耳を傾けたりもした。

 

 

いったい何が彼女の感に触ったと言うのだろう。

 

 

そもそも怒っているのか、ただ気が利かなかった自分に呆れ果てているのか、いずれにせよ気分を害したらしい原因に思考を巡らせても、女心という迷宮に飲み込まれる前に引き返す他ない気がした。

 

 

「ねえ…」

 

 

 ようやくこちらを向いてくれた彼女の表情に、背景を流れる景色も吸い込まれていく。

 

 

僅かに紅潮した彼女の頬が艶かしい。信号が赤になり停車する。

 

 

「はい…」

何故か敬語になってしまうのは、自分などは、彼女の気分の従順な下僕だからだ。

 

 

「実は明日さ。イブなのに、仕事があるんだ」

 早希は鼻を啜った。信号が青になって走り出す瞬間、目元を拭ったように見えた。

 

 

「仕事?バイトの事か?」

早希はこくん、と首肯する。

 

 

イブにバイトをしなければいけないと言うことが余程悔しいのだろうか。経済的な事情などで冬休みなどの長期休暇を利用してシフトを詰め込み、小遣い稼ぎや家庭や、懐事情に貢献したい学生は珍しくないはずだ。

 

 

「それはなんていうか…気の毒だな。クリスマスや年末なのに特に予定が無くて、イベントで浮かれる周りの連中に嫉妬して、あえて仕事を入れることで、その忙しさで悔しさや寂しさを紛らわせていた俺とは、まるで事情が違うだろうに」

 

 

「なにそれ、虚しいね」少し口角を上げてくれるのを見て久志は少し安心した。

 

 

「それと、そっちの事情も知らずに適当なイメージで、もの言って悪かった」

 

 

「別に…私こそかまってちゃんみたいな示唆したの、ちょっと反省してる」

 

 

早希は、恥ずかしそうに膝を折って口元を隠している。蒸気した頬。そして、湿った瞳がゆっくりと久志を捉えた。

 

 

「でもさ、久志に頑張れって言ってほしい…そしたら、なんか乗り越えられる気がする、から」

 

 

今時の若くて健全な女子高生がクリスマスに仕事をしなければいけない事情は聞くべきではないのはわかっている。

 

じんわりと胸に染み込む暖かな温度は、窓の外に立ち込める寒さを感じさせないほど心地いい。久志の口元は、ごく自然に柔らかく、緩んだ。

 

 

悔しさに耐えられず、目尻に涙の粒を浮かべて耐えているのがなんともいじらしい。小さなプライドを押し殺し、羞恥を感じながらも大人に甘える素直さに、久志はたまらなく愛おしさを覚えていた。

 

 

 久志は、再び信号が赤になったタイミングで早希の頭に手を伸ばしていた。

 

 

「うん、頑張れよ。俺も明日どうせ一人だし、暇潰しにライン送るから休憩中にでも寂しい俺の相手してくれよ」

 

 

 柔らかい髪の上で手を軽く弾ませてから、滑るように撫でた。長いまつ毛が羽ばたくように動き、その奥の大きな瞳が真っ直ぐに久志を見つめた。

 

 

早希は心なしか嬉しそうに軽く唇を結び、膝に乗せた小さな手を握っていた。

 

 

早希のそんな姿に、設定ではなく、本当に肉親のような慈愛が生まれ、妹をもった兄とはこんな感じなんだろうなと思った。

 

 

「ふひひ、ありがとう。だから今夜は一足早いイブだと思って楽しみたいな」

 

 

「ああ、そうだな」久志は力強く頷いた。

 

 

 空に、一瞬だけ白い粉が舞ったような気がした。

 

 

「これ雪じゃ無い?」と早希が仰ぐ空には、いつの間にか、一面重々しい灰色に覆われていた。

 

 

そして、チリ埃のような粉雪が空からゆっくりと舞い落ちる。

 

 

それは車のフロントガラスに着地し、小さな水滴と化した。

 

 

アプリで天気予報を見れば明日の予報は雪だるまのマークに変わっていた。

 

 

 明日でも明後日でもクリスマスでもなく、早希と過ごせるのなら別にどんな天気でもいい。

 

 

ホワイトクリスマスで東京がいくら盛り上がろうと、久志にとって今夜こそが何よりも最高のプレゼントだった。

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