梶原早希の日常1
第22話
一瞬にも似た僅かな雪は直ぐに止んだが、重い雲は空を低くしたままだった。
久志とのこれからの予定を考えれば。それだけなら、足元が浮遊するような軽快さに胸が踊りそうになる。
けれど、その前にやらなければならない事を考えるとなんとも、この空のように心が重い。
久志には家からの最寄駅である町田駅で降ろしてもらった。
私は金曜日から着ている制服の匂いを嗅いだ。
特に臭いや汚れがあるわけではない。
けれど、丸二日も同じ制服を着続けている女と一緒に居続けさせるのは、彼がどう思おうが、このままでいいなどと、今思えば相当恥ずかしい事を口にしてしまったと後悔した。
現在午後の一時。
私の財布には、いつも通り、きっちり2枚ある一万円札と私のものではないクレジットカードが入っている。
私は、なんとか予算2万円で買えそうな洋服店に目星をつけた。
初めからこうすれば良かったんだ。
わざわざあんな家に帰る必要なんてない。
ビルの中は、明日のクリスマス気分に浮かれたカップルや仲間同士の楽しそうな笑顔や声で溢れていた。
ジュエリーショップのガラスウィンドウが放つ光に照らされた、肩を寄せ合うカップルが見える。
女は幸せそうに微笑み、彼氏の腕に絡み付いている。
ふと、ショーウィンドウにその光景を眺める私の顔が視界に入りそうになって顔を伏せた。
あんな風に当たり前の幸せを、私は心から羨ましいと思う。平和な世界は、残酷なほどどこに、どこにだって当たり前に転がっていた。
適当な洋服店に入ると、マネキンが着込んでいたあるコーディネートが目に留まった。
白のシャギーニットにファーベレー帽がクリスマス女子っぽくて素敵だった。
この服を着た自分が夜を彩るイルミネーションに囲われて、笑顔を浮かべながらフワフワと軽やかにポーズを変え、久志が次々とシャッターを切っていく。
そんなシーンが思い浮かび、少し恥ずかしくなた。ロングコートとスカートを合わせた値段を見ると予算ギリギリだった。
しかし、こういうミーハーなセンスはきっと久志が喜ぶだろうと思った。
17時までの時間潰しの残金の事も考えれば少し厳しかったが、私は思い切ってマネキンのコーディネートをそのまま店員に注文していた。
丸二日も身に付けていて、さすがに気分も悪かったので別の店で下着も買った。
ビルを出てから私は個室の漫画喫茶を探した。
個室に拘るのは、時間を潰すだけなら喫茶店などでも良かったが、着替える必要があるのと、ある程度の時間荷物を預けられる条件が必須だったからだ。
出来ればビジネスホテルやラブホテルが良かったがそんな予算は当に無い。
駅周辺にはいくつか店舗があるが、なるべく安く余った予算で入れる個室を探し当てるために私はある決断をしなければならなかった。
バッグから息が切れたように静まり返った黒い液晶画面を取り出す。
「少しだけなら、大丈夫だよね…」
電源を入れると、金曜の夜から息を殺していたスマホは、齧りかけの白いリンゴのロゴを液晶に浮かべた後、ホーム画面を映し出した。
やはりと言うか、まず目に飛び込んできたのは通話アプリに表示された悍ましいほどの着信の数とメッセージの数だった。
背中に冷や汗が伝う。
あの男がGPSをチェックする前に、再び通話してくるまでに急いで用事を済まそう。
Googleマップを開いて最寄りの漫画喫茶の料金表を見比べた。
完全個室。シャワー完備。値段もよく、少し距離のあるそこまで歩いた。
用が済めば直ぐにスマホの電源をオフにした。
漫画喫茶の受付でオールバックの店員に学生証を提出し、入会手続きを終えると、今夜の宿泊分も含めたパック料金を支払った。
入室した個室はおおよそ二畳程の、窓のない部屋だった。
薄暗い暖色のダウンライトの灯りが落ち着く。
リクライニングのシートも座り心地がよく、これならば少しは仮眠が出来そうだ。そう思って寝転がり、私は今夜の事を想う。
今夜は彼を、久志を眠らせない。
撮影会を終えて、適当に遊園地ではしゃいでから遅めのご飯行って、時計の針が0を超えてクリスマスイブになるまで、今夜は久志と遊び倒そう。
昨夜のように、私のわがままに振り回されて困りながらも嬉しそうにニヤけて、隙あらば、私の恥ずかしい姿を盗撮しようとする彼の姿が脳裏に浮かび、胸が暖かくなった。
約束の時間までまだある。
それまで、眠って過ごすのも悪くないと思った。夜通し遊べる体力も温存できるだろう。
久志の体力の心配などしない。今夜だけ。今夜限りだから。私のわがままを全て彼に押し付けてとことん付き合ってもらおうと思った。
そしてその後は…
幸せな想像から一転。
暗い影が、心の隙間に差し込み頭を振る。
私は立ち上がると、店の受付に電話を掛けてシャワー室の使用を申請する。
私は熱いシャワーを浴びながら、今夜久志と何をして過ごそうかなどと、具体的な空想にも似た夢のような甘い時間を思い描いた。
けれど、それも瞑目しなければならない。
私は、まだ若い艶を放つ白い肌を撫でた。
彼の視線がよく留まっていた胸を揉んでみる。私のより少し大きい。
そして、脇腹から背中に掛けて浮かぶ青痣に触れ、鏡に映った痛々しい姿を鏡に映して、唇を噛んだ。
彼に見られた所以外にも、スカートに隠れる太腿やお尻などにも痣ができていた。その人目に付きにくい位置を絶妙に蝕む跡は、あの男の陰惨さをよく表している。
昨夜の宿のお風呂だって、他のお客が居れば入浴は叶わなかっただろう。
あの宿の部屋で、こんな私を見てあの時彼は、無関心でもお節介でもなく、沈黙をすると言う手段で私の痣に優しく触れてくれたのだと思う。
私は彼の優しい瞳に映る自身の姿を想像し、痣だらけの身体を抱く。
不意に、久志の顔を覆うように、あの男の顔が頭をよぎる。
ダメだ。陰鬱な思考はあの男の支配する現実に結びつけてしまう。そうだ。まさにこの久志との時間こそがまるで夢のようだ。そして、あの家に帰った瞬間、私は辛い現実にまた引き戻されるのだ。
私はシャワー室を出ると、新しい下着を身につけて、買った服を着た。
化粧も済ませて鏡を見れば目の前には、いかにも写真映えしそうな可愛らしいティーン女子が写っている。
きっと久志はわかりやすいくらいに目の色を変えてシャッターを押してくれる事だろう。
狭い個室の隅に着ていた衣類を数時間も放置するのが気持ち悪くて、私はコインランドリーで制服を洗おうと決めた。
PCを起動し、マップを開いて最寄りのコインランドリーを検索した。
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