第4話
週末、久志は愛用しているフルサイズの一眼レフミラーレスカメラと広角から望遠域までをカバーできるズームレンズに、単焦点レンズ一本をバックに放ってアパートのドアを開け放つ。
雨上がりのよく晴れた昼の空が広がっていた。
久志は陽光の眩しさに手を翳す。
最近は眠れない夜が続いたが昨夜は久しぶりによく眠れた。朝日に向かって微笑む余裕の生まれた久志の表情も幾分か晴れやかだった。
あの一件以来、早朝の電車の中の彼女の不在の連続に久志の心の潤いは無くなり、荒廃した砂漠になり果てていた。あれから、彼女の面影を追うように、時間をずらしてみたり、同じ電車の各車両を隈なく探してみたりしたものの消息は掴めなかった。
泥のように座席にうなだれながら、ブラック企業に出勤する忙殺サラリーマンのような形相で苦役列車に運ばれる日々が続いた。
満員電車の中、肩を詰め合う座席で人目も憚らず色を失った瞳であの日盗撮した少女の写真を見ていた。
これは彼女を盗撮した罰なのかと思いながら、久志は「辛い…」と呟くと、隣で化粧をしていたOLと永遠にソシャゲをしていた大学生風の男に顔を覗かれたりした。
そんなこんなで仕事や他のことはこの1週間全く身に入らなかったのだが、久志の心を投影するように降り続いた雨が止むと、心に僅かに余裕が生まれたのだ。
そうだ、街にスナップでも撮りに行こう。
思い立つと、手は自然にカメラに触れる。
触られることを望んでいたかのように冷たい金属のボディーは久志にも温もりがあったことを実感させてくれるように手に馴染んだ。
身勝手な恋だったが、失恋にも似た暗闇の精神状態からカメラが救ってくれる気がした。
こいつを持って街に出れば、この負のループから抜け出せるかもしれない。そんな淡い希望が、心に光を灯した。
カメラの機能でモノクロに撮れるモードに設定し、自分の部屋を撮影してみる。
絶妙な白と黒の濃淡で描かれた、ただの雑然とした男の部屋は、なんとも哀愁のある写真に仕上がった。
今日は何も考えずに、心に触れるあらゆるものにカメラを向けて、気ままにシャッターを切ろうと思った。
自らの心模様を反映させるかのような、色をなくした世界のモノクロ写真が、今日はテーマだ。こうして久志はようやく立ち直れるきっかけを見出し、街へ繰り出すために電車に乗り込んだ。
正午を回り、久志は適当に入った喫茶店で厚切りベーコンとオムレツが挟まった特大サンドイッチを食し、一息ついているところだった。
隅の席でノートパソコンを開き、湯気の登るエスプレッソを少し啜る。
あれから適当な駅に降りてから数駅分を歩きながらスナップを撮り歩いた。
無我夢中でシャッターを切っている間は、失恋を忘れることができた。
モノクロで撮ることを自分の中のルールに課してみたものの、これがまた実に面白かった。
久志にとってスナップ写真とは、何気ない日常に溶け込む、偶然が折り重なった美しいと思った瞬間こそが醍醐味だった。
自分がファインダーで覗きたいと思った風景が目の前にあれば、なんでもシャッターボタンを押した。
久志はパソコンに読み込ませたデータを開いて、さっき撮ったばかりのモノクロ写真を見つめてエスプレッソを啜る。
まだシャッターの降りた商店街の真ん中を眩しい朝日に向かって走っていく自転車。白くハレーションした陽射しに向かって、疾走する自転車の後ろ姿が、モノクロにすることで光の立体感がより際立っている。
高いビルを見上げた写真は、硬質で重厚な窓枠が、黒光しながらグレーの空に伸びていく様は、規則正しく美しいはずの造形を禍々しくさせていて面白い。
路上駐車してあった外車のフロント部分を切り取った一枚。手入れの行き届いた傷や塵ひとつないピカピカなワインレッドのボディの表面部分がシックで濃厚な白と黒になることで、その輝きは深みをより増していた。
アンティークな街灯の上に止まったカラスを撮影した一枚。グレーの空に向かって鳴くカラスの不穏な雰囲気と街灯のデザインのバランスが絶妙で、美しさと不気味さのアンチノミーな魅力を醸し出していた。
「いいね…」
一人、満足そうに呟きテーブルに置いた一眼カメラを撫でた。側から見れば自画自賛する痛いおっさんだ。そこへ喫茶店のドアが開いて女子高生らしい二人が入ってきた。
「あーマジで腹へった。バイト前だし今日マリトッツォ3個いこうかな」
「給料日直後の暴食ヤバすぎっしょ。でも面白そう。チャレンジ動画撮っていい?」
明るい声に、短いスカートと生々しい白い脚。既に空になったコーヒーカップを傾けながら久志はそれを盗みた。
側から見れば、痛くてキモいおっさんだ。
残念ながら彼女たちは久志が死角になる席に行ってしまった。ほんの少しの寂しさを覚えた久志は、気を取り直してまたスナップに出かけようと思った。
会計をしようと席を立つ。
路地を眺められる明るい席で、メニューを見ながらはしゃいでいる彼女達はどこにでもいる女子高生だった。学校帰り、バイト前にこうして友達と寄り道をすることが彼女達の日常なのだろう。
あの子もあんな風に学校では笑っていたのだろうか、とふと思う。
早朝の各駅停車の最後尾のいつもの席。
憂鬱な毎日に、身体だけが運ばれているよな、人形のような彼女を思い出す。
久志は彼女の事を何も知らずに、ただ独りよがりに眺めては悦に入っていた。
あの頃の自分はなんて卑しく愚かで、呑気な馬鹿だったのだろうと吐き捨てたくなる。
彼女は今どこで何をしているのだろう、と考えているうちに、また性懲りも無く目頭が熱くなって来たので、急いで外に出て頭を冷やすことにした。
気分を変えるために久志は、一眼レフカメラのレンズを交換した。
単焦点レンズという、画角を変えられないレンズだ。
画角が固定されているが、軽量でコンパクトになるのでカメラの収まりもいい。さらに単焦点レンズは口径が大きく、カメラに取り込める光の量が多くなるので、明るくボケ味を生かした味のある写真を生み出すことができる。
路地裏を歩いていた。
すると、ツタが侵食する二階建ての煉瓦造りの建物があり、軒先にはピザを焼く職人のイラストと共に店の名前が彫られた木製の看板があった。
ピザ屋らしいその店は、やや年季の入った外観もインテリアに取り込んでいて趣がある。
木枠の窓の向こうでは、真剣な目を光らせた髭がダンディーな職人がピザ窯に向かってピザを焼いていた。
その一角だけ切り取るとどこかの異国のようだった。窓枠の向こうを主題に、雰囲気のある外観を副題にして写真を撮った。
ふと視線を感じて路地に目を向ける。そこには、薄汚れた、けれどまるまる太ったぶち猫がこちらに向かってきていた。威風堂々としたその歩き方は、この裏路地で逞しく生き抜いてきた威厳を思わせる。
さらにその後ろには割と毛並みのいい三毛猫を連れ添っている。種類がまるで違うので親子ではなさそうだ。二匹はまるで師弟関係のようで微笑ましい。
猫の目線にカメラを捉えてシャッターを切った。
子分猫は久志を少し警戒したが、親分猫は道中に転がる石ころを見るような一瞥をくれただけで、目の前を堂々と素通りする。
ぶち猫は、先ほど久志が写真を撮ったピザ釜が見える窓の前に来ると足を止めた。後ろ足を折って前足を行儀良く揃えて座ると、周囲をゆっくりと見渡してから窓の方をじっと見る。まるでそこに用でもあるかのように。子分猫も親分猫の隣に習うように座った。
「尊いな…」久志は呟き直感的にカメラを向けていた。
親分猫は窓に沿って立ち上がる。内側から見れば、猫が覗き込んでいるのだからさぞ可愛いだろう。
久志はシャッターを切った。さらにそれに気づいた先ほどのピザ職人が猫に気づいたらしく、親しみを込めた笑みを浮かべて窓に近づいてきた。そして、何やら口を動かしている。久志は唾を飲み込んで、カメラを構えていた。
窓を開けた職人は猫の頭をあいさつがわりにポンポンと優しく叩くと、猫はしわがれた太い鳴き声を上げた。
子分猫も親分猫に習ってか細く鳴く。
気づけば僅かに震える指先でシャッターを連写していた。久志の姿に気づいた職人は、けれど穏やかな笑みを顔に残したままだった。
彼は猫達に魚肉ソーセージのようなものを与えた。猫達はそれを加えると、今度は用は済んだと言わんばかりに、無愛想にそそくさと後をさっていった。店主はそれでも猫を優しい目で見送っていた。
「すみません。あまりにやり取りが可愛かっったんで無遠慮に撮っちゃいました」
「ああ、構いませんよ。あいつら太々しいでしょ。この辺の店のちょっとした材料をああやっていつもせびりにくるんですよ」
「シャバ代を徴収しに来るにしてはあまりにも姿が可愛いですね」
「はい、みかじめ料は魚肉ソーセージで済んでるんで安いもんですがね。最近は子分ができたみたいで二倍になりました」
主人が窓を開けているせいか、ピザの焼けるいい匂いが鼻をつつき小腹をくすぐる。
「あの、もしよかったらご馳走になっていいですか?」
主人はにっこりと笑むと「いらっしゃい」と爽やかに言ってくれた。
味気のない久志の思い出の中で、ピザと言えばありふれたチェーン店のデリバリーピザしか食べた記憶がなかった。
いきあたりばったりではあるものの、ピザ窯で焼き上がったばかりのマルゲリータピザには思わずカメラを向けていた。
熱々の窯の中で熱せられたピアが室内の空気に冷やされたことによって、芳醇なチーズとトマトソースの香りをもうもうと上げながら、色とりどりの表面が脈打つようにうごめいている。
店主がそのままピザボードの上、カッターで手際良くカットしてくれる。ナイフで一切れを持ち上げると美味しそうなチーズが上質な織物の繊維のような糸を引いた。その瞬間を狙って久志はピザの写真を撮った。
「その写真、SNSに上げてくれたりするんですか?」
店主は人の良さそうな笑顔で訊ねてきた。
「あ、ええ、はい。インスタしかやってませんけど」
せっかく美味しそうなピザをモノクロで撮ってしまった後ろめたさのせいか、歯切れの悪い受け答えになってしまった。
「そうですか。では、ごゆっくり」
店主は変わらず柔和な笑みを向けてくれる。
彼が厨房へ消えるとピザを口に運んだ。
問答無用で美味い。
口触りがよく濃厚で風味豊かなチーズと爽やかなトマトソースの酸味がモチモチの生地の歯応えの上で踊っている。
咀嚼しながら久志は、さっきの写真だけはカラーに戻して必ずインスタにあげようと心に誓った。
PCの編集ソフトを使えば簡単にモノクロ写真からカラー写真に戻せる。
モノクロ設定で撮っても色情報を戻してくれるハイスペックな現代カメラ技術の賜物だった。
一人前のピザをぺろりとたいらげた久志は、PCを広げると早速先ほどの写真を読み込ませてモノクロからカラーに現像する。
「うわぁ、まるで雑誌の一ページみたいなクオリティーじゃないですか」
後ろから静かに感嘆する声が降ってきて、久志は肩を震わせた。
「これ、インスタに上げてくれるお礼です」
そう言いながらテーブルに置いてくれたのは一杯のコーヒーだった。お店のロゴの入ったティーカップには黒い液体が香ばしい湯気を上げている。
久志はそれを見た瞬間、店主の言わんとする意思を察した。久志はティーカプのロゴがよく見える角度で適当な画角を決めると、湯気が映り込むように写真を撮った。すぐさま写真をプレビュー再生して店主に見せる。
「僕の腕というより最近のカメラが優秀なんですよ。ほら」
「おおすごい!いやあ、なんか悪いですねこんな気を使ってもらっちゃって」
「こちらこそ。楽し撮影ができたので、どちらの意味でもごちそうさまです」
その後、記念にと言うことでピザとコーヒーの写真と、猫に魚肉ソーセージをせびられる優しい店主の微笑ましい写真のデータを店主にプレゼントして、久志は店を後にした。
ああやって直接誰かに自分の撮った写真で喜んでもらえる経験をしたのは実に数十年ぶりのことだった。
忘れかけていた懐かしい喜びが一気に呼び戻されるような気がした。
自分の目を通して直接喜ぶ誰かの顔を、視界と言いう画角に納め、それを心のシャッターで切り撮り記録に焼き付けることは、くすぐったいような、懐かしい感情を呼び寄せた。
同時に、淡い痛みと寂しさがじわりと胸に染み出した。久志は古い傷跡を思い出していた。
けれど、それは既に取るに足らない、些細な痛みだ。そう自分に言い聞かせ、久志はまたいい被写体は無いものかと街を歩き出した。
日が傾き斜陽が強くなると、夕日色に焼ける街には光と影の高いコントラストが描き出す面白いシーンが増える。
しかし落陽するスピードは黄昏時などと呑気そうな言葉と裏腹に意外と早かったりする。
なので、アンニュイで幻想的な魅力溢れる街に久志は期待を寄せながら、どこか気が急いていた。
ハッと息を飲むようなシーンにシャッターを切っては、偶然との出逢いに、胸を躍らせずにはいられない。とは言っても、モノクロ写真なのだけれど。
強い光が描き出した人や人工物の長い影を白と黒で撮り歩く。
灰色の世界で美しく輝く世界をファインダーで縁取り、切り取ってゆく。
シャッターも、撮り歩く足もいつまでも止まらなかった。
白黒の世界は、彼女の消息を追ううちに迷い込んだ暗闇の心に、忘れかけていた日常と言う輪郭を優しく描き出してくれた。
モノクロ写真の冷たい線は、荒涼とした心にはちょうどいい温度で視覚から入り込み、胸を暖めてくれる。
いつのまにか久志は、茫洋で曖昧な輪郭が描くモノクロ写真の奥深さにどっぷりとハマっていた。
けれど、やはりと言うべきか、心のどこかではやはり燻る小さな火種のように、ある想いが弱々しく明滅している。
歩道橋の上に立ち、カメラを構えファインダーを覗く。
人々が行き交うスクランブル交差点を前景に高いビル間に沈む太陽を捉えていた。
手前から奥に向かう道路の上では車や交差点を渡る人々の黒い影が蠢いている。
モノクロでプレビューされるカメラの背面液晶を見て、それはどこかひどく現実離れした世界だと思うと同時に、忘れていた物寂しさが不意に込み上げた。
自分はこうして、現実を忘れようと必死なのだ。
きっと明日になりまたいつもの通勤電車に乗れば思い出すかもしれない。
身を焦すほどの寂しさを誤魔化すように久志はシャッターを切った。
綺麗だ。
よく撮れている。
だがやはり物足りなさが残った。
歩道橋の欄干に捕まり久志は交差点をぼんやりと眺めた。
夕日は交差点を行き交う人々を柔らかく照らしていた。
響く電車の走行音と交差点を行き交う人々の無数の足音。どこからともなく聞こえるクラクションやビルボードの騒がしい広告音声。カメラを通さないカラーの世界もファインダー越しのモノクロの世界のどちらにも自分の居場所を見失いかけていた。
無味乾燥の冬の寒さだけが丸めた背中に落ち、白い息が高くのぼる。スマホを開き、あの日の、あの少女の写真を見る。
やはり、目の奥が熱くなった。
「はー………」ため息の長さだけ、人々が久志の見下ろす交差点を通り過ぎてゆく。
忙しそうに、楽しそうに。
「え?うそ…え?え?マジで」
久志は魔の抜けた声を漏らす。楽しそうに、友達と二人、見覚えのある制服で、もう電車で見かけなくなったあの子が、交差点を通り過ぎて行った。
彼女は珍しく笑顔だったけれど。赤色のマフラーに黒のダウンコート。間違いない。
人にぶつかり、謝りながら、急いで歩道橋を降りる。信号が点滅し始めていて猛ダッシュで横断歩道を渡り切った。
人違いかもしれない。ただ似たような誰かかも。
それでも願わずにいられなかった。
普通は接点があるはずもない二人は、街ゆく人々がそうであるように、完全にすれ違ってしまった。もう電車の中でさへ見られなくなった彼女を追って、一体自分は何をしようと言うのだろうか。
気づいたら、勝手に足が動いていた。やっていることは完全にストーカーのそれだが、いても立ってもいられなかった。
追い付いたところで何をどうすればいいのかも分からないまま、久志は彼女を追いかけた。
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