第5話
彼女は友達と駅ビルに入っていくところだった。
一瞬だけ立ち止まり、久志は自分の身なりを確認する。
ガラス張りのビルに映る自分の前髪を少し直す。キャメル色のダッフルコートに黒のジーンズに黒いポストマーシューズを履き、首に下げた一眼カメラの存在によって、フォトグラファーのような渋い風体を漂わせている。と、前向きに自分を鼓舞し、例のビルを睨む。
ファッションやアクセサリーショップを友達と渡り歩く彼女は、まるで電車で見る時とは別人だった。
彼女の絶え間のない笑顔に、久志はどこか勝手に安心していた。
リーズナブルなアクセサリーショップの商品ディスプレイの前でピアスを眺めている彼女達を、向かいのバス用品店の物陰に隠れて眺めていた。色とりどりのバスボールや石鹸の甘い香りに包まれながら商品棚を物色するふりをする。
彼女の声を聞くのは初めてだった。二人の笑い声が弾む。
少し鼻声っぽいハイトーンな声はよく通っていて、アニメ声優のようだと思った。どこか大人びた彼女の見た目と少しギャップがあり、彼女の魅了を一層際立たせた。
耳障りのいい彼女の声を聞きながら、目の前のマーブル模様のバスボールから香る甘い匂いを肺いっぱいに吸い込む。まるで陶酔するように久志は白目を剥き、気持ちまで甘く溶けていた。
「いらっしゃいませ~、何かお探しですか?」
そのまま酩酊しそうになっていると、作ったような甲高い雑音が飛び込んできた。
びくりと肩を震わせて隣を見る。
そこには、ソプラノ歌手のような恰幅のいい女の店員が分厚い付けまつ毛を瞬かせながら久志の顔を覗き込んでいた。
「あ、いえ、あの…はい。石鹸を」
思わず、当たり障りのないセリフが反射的に喉からこぼれた。
「石鹸ですねー。ハンドウォッシュ用とボディウォッシュ用どちらをお探しですかぁー?」
久志の目を真っ直ぐにホールドしながら、応えを急かすように高速で瞬くまつ毛に久志はつい言葉を選んでしまう。
「じゃあとりあえず、ハンドウォッシュ用を」
「かしこまりましたぁ。それならぁ、これなんかスクラブ入りなので古い角質まで落とせるので超おすすめです。よければお試ししませんかぁ?」
「い、今ですか?」
店員は当然だと言うように、小首を傾げて長いまつ毛を高速にはためかせる。少し、微風を感じるのは気のせいだろうか。
それから久志は女の店員に丁寧に右手を洗ってもらった。
洗ってもらっている間、彼女達は買い物を済ませてどこかに行ってしまった。
久志は、右手をゴシゴシと擦られながら店員に微笑み掛けられて、泣きそうになる気持ちを抑え、苦笑いを返すことしかできなかった。
スクラブ効果で白くなった右手との相対効果で古い角質が残ったままで薄汚く見える左手をそのまま、とりあえず早急に石鹸を購入した。
久志はその階のフロアを探したが彼女達を見失ってしまった。
石鹸を投げ捨てたくなる気持ちを抑えて、下りのエスカレーターを登りそうになりながら引き返し、エスカレーターを正しく乗ってから他のフロアも探した。
けれど、彼女達の姿はない。ため息をつきながら、展望用に設けた休憩スペースで肩を落とし、ふと外を見下ろす。
すると、彼女達がビルを出ていく所を目撃した。
今度は登りのエスカレーターを降りそうになると、登ってきた老婆にギョッとされながら慌てて引き返した。
彼女たちの姿を窓越しの視界でロックオンし、仲良く手を繋ぐカップルの間を何組か突き破りながら、エスカレーターを駆け降りた。
彼女達にようやく追いつくと、ちょうど喫茶店に入っていく。彼女達は人で溢れる店内のソファと椅子で挟んだ二人用のテーブルについていた。
久志は一瞬だけ躊躇ったが、彼女が自分の顔を覚えているかもしれないと懸念することなど自意識過剰が過ぎると思い、構わず彼女の姿が見える絶妙な席を選んで座った。
離れ過ぎず、近づき過ぎず。
友達と話す彼女の顔を正面から見る事ができ、声も聞こえる、いい席を選ぶことができた。
快活に、楽しそうに友達と話す彼女から発せられる声を聞くうち、自分の中で勝手に描いた彼女のイメージは偶像であり、下世話な心配は杞憂だったのではないのか、とすら思う。
今の彼女が普段の彼女で、電車の中の彼女はきっと通勤列車の能面のような人々と同様に、倦怠感と退屈を顔に貼り付けていた仮面に過ぎなかったのではないか。
耳心地の良い彼女の笑い声を聞き、花のように咲く笑顔を盗み見ていると、心が俄かに暖かくなってくるのを感じた。
だが、今の彼女が本当の彼女だとしたら、、あの自殺未遂のような危うい行為を繰り広げたあの夜の出来事はなんだったのか。
光があれば影があるのは当然だとしても、その陰影はあまりにも真逆すぎて理解に苦しい。
だが、今はただ。目の前を彼女を受け入れるべきなのかもしれない。心配やお節介などは、なんの変哲もない、どこにでもいる普通の女子高生の彼女には不要なものなのだから。彼女が何を抱えていようと、暖かく見守るべきだ。
ああ、良かった。久志は心の底から安心していた。
電車の中で彼女を見かけなくなってからと言うもの、自分は自己欲求が満たされないもどかしさを感じていたのではない。彼女がただ心配だったのだと気づいた。
目の前の彼女の姿が何よりも眩しい。何故か、目頭が熱くなる。
運ばれてきたコーヒーで溢れた感情をなだめようと一口啜る。
「あっつ!」
落ち着かないまま傾けすぎたマグカップから熱い塊が流れ込んできて反射的に叫んだ。
周囲の客が久志を振り返る。
その僅かな騒めきに余計に焦るが、幸いにも彼女は会話に夢中になっていた。
久志は何事もなかったかのように咳払いを一つして、格好つけるようにPCを開く。ヒリヒリする舌を携帯していたミネラルウォーターで冷やしてからペットボトルを鞄にしまう。
再び、マグカップを手にとって十分に息を吹き、冷ましてから恐る恐るコーヒーを飲んだ。今度は芳醇な香りとともに舌の上に程よい苦味が広がるのを感じることができた。
「ふう………!」
息をついたのも束の間、視線を感じふと見ると、彼女の大きな瞳がこちらを見ていた。
彼女は、あっ!と言うように何かに気付き、目を丸くした。
驚いた久志の肺からは空気が逆流し、飲み込もうとしたコーヒーが口から吹き出してしまった。
「っぶ!げっほげっほ!!…」
彼女は身を乗り出すようにしてこちらに反応したが久志はそれどころじゃなかった。
ナプキンを口元に当てて、咳を繰り返しながらPCに掛かった黒い液体を拭いてからテーブルを吹く。
彼女の友達も何事かとこちらを振り向く。だが、彼女は肩をすくめ、苦笑いをしながら他の話題を振ってこちらから気を逸らしてくれた。
久志の状況が落ち着く頃には、彼女の方からはこちらに視線を向けることはなかった。
なんだったんだ、今の?
久志は先程の彼女の反応が気になりながらも平静を取り戻し、エアーポッズプロを耳に嵌める。
周囲の音を聞きやすくするライブリスニング機能を起動し、彼女の声に耳を傾けた。彼女の声と薄い唇が連動し、友達との会話の中で様々な表情を見せてくれる。
PCで作業をするふりをしながら、何度も彼女を盗み見、至福の時間を味わった。
いつの間にかコーヒーが無くなっていた。PCでは何の作業をするでも無く、ここではただのカモフラージュのお飾りでしかない。
PC画面は興味のないネット記事を永遠に写していた。
外を見るといつの間にか日が暮れていた。
街路樹に施されたライトが点灯し、街はクリスマスらしいライトアップで溢れている。
一際高い、彼女達の笑い声が響く。
そこには電車の中で見た物憂げな彼女はすっかりいなくなっていた。どこにでもいる健全で普通の女子高生。今まではそんな影にこそ魅力を見出していた久志だったが、今では酷く身勝手な、偏見のような期待を抱いていたことに忸怩たる思いだ。
明朗な彼女の方が、どこまでも美しく、尊い存在だった。ますます彼女の魅力に飲み込まれそうになった。その時だ。
ストン、と心の中で乾いた音が響いた。あてどない歩みが止まった気がした。
足元を見る。揃った足はどこか、寂しそうにも毅然とした足並みで止まっていた。
道が突然消えたわけでも、大きな壁があって行き止まりになっているわけでもない。
そもそも進むべき道が違うのだ。
「もうやめよう」ため息のようにつぶやいた。
いい歳したオッサンがこれ以上、女子高生をストーカーするわけにはいかない。
そう、彼女はどこにでもいる普通の女子高生。
もう、あの電車にはいない。
自分など、彼女の青春の一ページに見切れもしなかった、通学中に乗り合わせただけの有象無象の他人だ。
久志は立ち上がり彼女達の声を背中に受けながら会計を済ませて外に出る。
外の肌を刺すような寒さに身を縮めた。
街路樹にネオンの色とりどりの光の葉が咲き乱れていて、街ゆく人の綻ぶ顔を照らしていた。
久志は再びカメラを取り出し、レンズを85ミリの中望遠単焦点レンズに交換した。
何かが吹っ切れたように、今度は彩度を引き上げたビビッドな写真が撮れるカメラモードに設定し、イルミネーションを撮り歩いた。
派手な発色で浮かれた色彩を放つネオンに照らされた、休日出勤の帰路に着いた猫背のサラリーマンの哀愁ある背中。
肩を寄せ歩くカップルの幸せそうな後ろ姿を、イルミネーションの光を前ボケに額縁構図で切り取る。
親分猫と一緒にいた子分猫に似た毛並みのいい三毛猫がいたので、路上で毛繕いをしていた所をネオンの玉ボケを背景にローアングルで切り取った。
猫はさまざまな表情を見せてくれるので、構図を決めてから連写をした。
「やっぱりイルミネーションはカラーだよな」
撮れた色鮮やかな写真をカメラのプレビューで確認しながら、それでも頭の隅に少しでも彼女の笑顔が蘇ると喉の奥がつんとした。
「くっそぉ、可愛かったなあ…でも俺にはこいつがある」
カメラを持つ手に熱が入る。ボタンを操作しプレビュー画面で写真を送っていくと、三毛猫があくびをしているシーンも撮れていて思わず微笑む。
プレビュー画面で次の写真を送った瞬間、息を飲んだ。周囲の音がフェードアウトした。
写っていたのは、ちょうど喫茶店を出てきたあの子と、その友達だった。猫に合わせていたオートフォーカスのピントが連写をしている内に外れて後ろに取られてしまったのだ。
二人は喫茶店の前で何がそんなに盛り上がったのかハイタッチをしていた。
二人の横顔は満面の笑みで、例の彼女は片足をあげた弾みで短いスカートがふわりと浮いていた。
ローアングで撮っているせいで少し危ういが、女子高生同志の楽しそうな日常を切り取った画としては被写体の容姿の良さも相まって味のある写真に仕上がっていた。
背景のイルミネーションのカラフルな玉ボケも彼女たちを引き立てている。彼女を忘れようと心に決めた矢先にもかかわらず、久志はだらしなくにやけてしまった。
「ちょっと、君」
不意に鋭い声に背中を撃ち抜かれ、心臓が飛び出そうになった。
久志が振り返るとそこには警視庁と刺繍の入った防寒衣を着てる人物が二人。
久志は冬の寒さを思い出したように身震いし、背中にはじわりと脂汗が滲んだ。
警察官二人組が早足で久志に向かってくる。先頭にいた男が迫るように久志の前に来ると、足のつま先から頭の上まで舐めるように一重の三白眼で睨みつけてくる。
よりにもよってなんて最悪なタイミングなんだと絶望しながら、手汗が噴き出す手でカメラを握りしめた。
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