第3話
冬の日の入りは早く辺りはすっかり暗くなっていた。その日の仕事が終わり、久志の運転する軽バンは帰宅ラッシュの渋滞に飲み込まれていた。
車窓には、目抜き通りがクリスマスに先駆けたイルミネーションに彩られた街路樹を見上げる人々が見える。
やがて渋滞が解消され、軽バンは緩やかに走り出した。
車は多摩川を渡る橋に差し掛かり、ナビが示す会社までの到着予想時刻は夜19時を超えた。
橋の上は片側2車線で車の流れは法定速度でスムーズに流れていた。
残業が確定してしまった。
特に早く帰宅してもやる事は思いつかない。こういう時、家に自分の年齢なら居て普通な嫁や子供、あるいは彼女なんかが待って居れば帰宅が待ち遠しくなったりするのだろうかと、叶わない夢を無感情に考えたりもした。
急ぐ理由もない久志の車は、諦めたように左車線に寄り、行き急ぐ車に道を譲る。道の先に左折車もいるせいで右車線よりもだいぶ緩やかだ。
いつの間にか広がっていた夜空には明るい三日月が浮かび多摩川に幻想的な光を降らせていた。薄暗い橋の街灯の先にふと目をやった瞬間、目を疑った。
車道に沿った広い歩道の先に目を奪われる。腰ほどまである長い髪の毛とスカートを揺らして両手を広げ、少女が平均台を渡るように橋の欄干の上を歩いてた。
久志は反射的に急ブレーキを踏んでいた。
「嘘、だろ?…」
呻くような声が喉から漏れた。心臓が破裂寸前のような早鐘を打っている。
彼女が、一歩でも踏み違えた瞬間、目の前から彼女の姿は消え、遥か眼下の暗い水辺からは高い水飛沫が上がるだろう。
後続車が派手なクラクションを鳴らして、アクセルをふかして追い越していったが、久志の耳には何も届かない。
淡い街路灯の中でもよく映える赤いマフラーと黒いコート。間違いない、あの電車の子だ。
クラクションが立て続けになり、ようやくハザードランプすら点灯させていない事に気づいた。
「どうして、誰も気づかないんだよ…」
舌打ちをし、ハンドルを抱くようにしながら前のめりになり、あたりを見回す。
しかし辺りには、眩しすぎるヘッドライトをぎらつかせる帰宅ラッシュの車の群れが、無感情で無表情な葬列のように連なっているだけだ。
とにかく彼女を止めなければ。
強く噛んだ唇の痛みすら感じない。思考は正しく回るのに、手には大量の汗をかき、身体は石のように動かなかった。
「そ、そうだ警察…」
相変わらず他力本願だが、ようやく手が動こうとしたその時、少女は橋の上に綺麗に着地した。
直後、久志の身体から張り詰めた空気が抜けるように一気に脱力した。まるで長く息を止めていた直後のように、肺に大量の空気の流動を感じて、大きく深呼吸をした。
彼女は、頭をキョロキョロと動かして周囲を伺っている。少し距離があったので久志はハザードランプをつけたまま少女の横顔が見える位置まで車を動かした。
「え、猫?」思わず声が漏れた。
見ると彼女に擦り寄る猫がいて、彼女は膝を折って猫を撫でていた。どこか微笑ましい光景に頬が緩みかけたその時、柔らかかった少女の表情が一変。氷点下に凍りついたような視線がこちらを捉えた。
整った目鼻立ちから放たれる睥睨は、射られた矢のようだ。
この世の全てを憎悪し、反発する意思を含んだその鋭さは、軽バンの装甲をいとも簡単に貫通し、久志の緩んだ心を穿つようだった。
けれど少女はすぐに視線を猫に落とし、何やら一人で話し始めた。その光景はどこにでもあるような、猫を愛でるただの少女だった。そして薄く微笑んだ。
こんな状況にもかかわらずその笑顔に、久志は心を奪われていた。少女の笑顔を、初めて見たからだ。だがすぐに、身体から剥がれていく緊張感は鋭い鉤爪となって、胸に引っかかる。
先ほどの危うい行動の直後、通りすがりの猫に慰められている姿が痛々しく、胸が息苦しくなった。
いつも久志から居合わせる電車内で彼女に感じていた、どこか暗澹とした雰囲気。
その影の正体を目の当たりにしたような気分だった。
だからと言って、自分に何かできるわけでもない。その暗闇の深淵さに、ただただ圧倒されていた。そして、相変わらず見とれていた。
今更、その暗さを知って彼女の視界にすら入っていない自分など、どんな光になり得るのだろうか。そんな愚問で自問自答する自分は、彼女の危機に何もしてやれない、所詮は腰抜けに過ぎないと言うのに。
安堵したその時だった、少女は猫を背に走り出した。その躍動は、今度こそ本気で自殺をするのではないかと思わせる勢いだった。
まるで時が止まったように、思考が止まる。ただ目の前の光景が、想像通りに終わりを遂げる。それを待つのみに思えた。
しかし、彼女は何かに見えない糸に背中を引っ張られたようにピタリと足を止めた。
久志の心臓はもはや爆発寸前に脈打っている。
「な、なんだ?」
彼女は辺りをキョロキョロと落ち着かない様子で見回した後、神妙な面持ちで猫に向き直った。
そして、まるで猫と会話をしているかのように、彼女は猫に向けて何やら口を動かしている。
側から見れば、それは異様な光景だった。自殺未遂とも言える奇行の後に、猫に話しかけている。
それはどう見ても、彼女を気の毒に思ってしまう、ある意味痛々しく哀れな姿だった。
けれど、久志は彼女が思い切った行動に出ずに済んだことで、心の底から安堵していた。
少女は猫の小さくてふわふわした頭に鼻を埋めるとまた笑った。猫は目を細めて反発するように少女の顔に頭を押し付けていた。
その姿を見て久志は車を発車させた。横顔を見て、もう大丈夫だと、根拠のない安心を覚えていた。
やがて、彼女は猫を抱き上げて歩き出した。少女と猫の姿が後ろに流れていく。サイドミラーには対向車でちらつきながら小さくなっていく彼女と猫の姿が見えた。
久志は車を走らせながらハンドルを強くにぎり、唇を噛んだ。
彼女の何も知らず、ただ一方的な憧れを抱くだけだった自分など、気色悪いエゴを押し付けることしか出来ない、偽善者以下だと、痛感した。
こんな自分より、よほど猫の方が頼りになるではないか。
翌日も久志は早朝に家を出た。
新百合ヶ丘駅のいつものホーム、いつもの各駅停車新宿行きの最後尾の車両へ向かう。
昨日の事があったので少女の消息を心配しながらも、女々しく息をつめて、車両に乗り込んだ。
少女がいつも座っている席にはしかし、ただ差し込んだばかりの朝日が誰もいない座席を柔らかく照らしているだけだった。
想像通りといえばその通りだった。
けれど心の準備なんて脆いもので、最悪な想像が目の当たりになると想像以上のダメージを受けてしまうものだ。
足の力が抜け、誰もいない車両のでふらつき、優先席の手すりにしがみついて身体を支えた。
「やっぱ、俺のこと見えてたのかなあ」
久志の湿っぽい独り言に、発射時刻を告げる車掌のアナウンスが答えた。
寝不足の久志の脳裏には軽バンで路肩に止まっている際に、彼女に睨まれた時の光景がよぎった。
夜の車内で軽バンの中の自分の顔まで確認できるとは思えなかった。
そもそも車の中にいた自分が見えていたとして、彼女が毎朝同じ電車の同じ車両で合うあの人だ、などと認識したかもしれないと言うのも、身勝手な思い上がりだと思う。けれどもしそうなのだとしたら、彼女の不在は、今後永遠のものになるのではないか。こんな、お節介も焼けないクソ野郎など避けたくて当然だ。
背中が薄ら寒くなった。
昨夜から続くこのイタチごっこの思考はすでに何十周も繰り返され、目の下に濃いクマになって現れていた。
彼女に嫌われるくらいなら、自分の存在など一生視界に入らないまま、雑音の中で通り過ぎていく有象無象でいいとすら思う。
分不相応にも女子高生に恋すおっさんは、ひとりぼっちの早朝各駅停車の最後尾の座席に横になり、顔を覆って足をばたつかせながら子供のように慟哭した。
対面のプラットホームに急行電車が滑り込む。
久志は慌てて涙を拭きながら何故か座席に正座をした。
明日。そうだ明日だ。
彼女はきっと体調が悪いのだ。思えば彼女がこの車両にいることを知ったのは今年の春頃からだった。大抵の平日はいたが、二、三日居ないこともしばしばあったでは無いか。
また数日後には、いつもの席にしれっと座ってくれているかもしれない。
翌日の天気は雨。
早朝の新百合ヶ丘駅のいつものホーム、いつもの各駅停車新宿行きの最後尾の車両へ向かう。
緊張しながら前に運ぶ足は早足になっていた。また女々しくも息をつめて、車両を覗き込む。
久志の心には冬の雨よりも冷たい雨が打ちつけた。
意気消沈し、座席に倒れるように座ると力なくうなだれた。
深いため息を吐いて顔を覆う。
「夢も希望もねえ…」
また車掌の発車時刻を告げる相変わらず饒舌すぎるアナウンスが答えた。
雨音に紛れ、久志は静かに泣いた。
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