新木久志久志の日常1

第2話

 

冬の早朝。

 

まだ太陽も登りきっていないうちに新木久志は木造二階建てのアパートの201号室から会社へ向かうのが日課だ。まだ薄暗い外に出た瞬間、白い息が高く登っていく。

 

久志は、背を丸めながらドアを施錠した。

 

 

徒歩20分の道のりを歩き、小田急鶴川駅のホームで上り列車を待つ。

 

通勤ラッシュにはまだ早いため、滑り込んだ電車に乗車する人はまばらだ。

 

 

能面のような無表情の人間と肩を並べて揺られること数分。快速急行へ乗り合わせられる新百合ヶ丘駅に到着した。

 

 

 本来ならこのまま乗り換えて新宿へわずか40分足らずで行ける通勤快速も今の時間なら空いている。

 

 

しかし、久志はそちらのホームには目もくれない。

 

 

もうあと30分もすれば地獄の満員電車に変貌し、新宿に着く頃には息も絶え絶えで一日の体力の半分を削られる、あの通勤快速の車内に光輝くほどにも見える空席が両手を広げているのが見えるのに、だ。

 

 

能面達が各駅停車から掃き出されると、ようやく久志もゆっくり腰をあげる。

 

 

乗り換えるためでも、トイレに行くためでもない。

 

 

急行を使わず、各駅停車でゆっくり行きたいなら、このまま席に座っていればいい。

 

 

しかし、そうでもなければ、何の為に席をわざわざ立つのだろうか。

 

 

それは、現在乗っている車両を乗り換えるためだった。

 

 

もう間も無くやってくる快速急行を待つ列には久志は目もくれず、久志は同じ電車の最後尾の車両に乗り込んだ。

 

 

そして車掌席の窓に久志は何気ない顔で寄りかかる。

 

 

 他の電車と待ち合わせのため、この電車は10分程ここに止まる。この10分のために久志は日々を生きていると言ってもよかった。

 

 

 ようやく顔を出した朝日がホームを照りつける。

 

 

この車両で久志と彼女の二人きり。

 

 

車窓から差し込むオレンジ色の穏やかな光が、彼女を照らした。

 

 

 どこかの高校の制服を着ている彼女はお馴染みの黒のコートに紅いマフラーをしている。腰まで伸びた艶やかな栗色の前髪が丸みを帯びた頬にかかり、彼女は長いまつ毛を伏せて心地良さそうに寝息を立てていた。

 

 

眠っている姿を初めてみた。

 

 

年頃らしく膨らんだ胸が深く上下している。

 

 

思わず見惚れてしまう。

 

 

無防備な彼女をいつも以上に見てしまう。

 

 

久志は高鳴る鼓動を意識しながら、膝上の水色のタータンチェックの短いスカートから覗く白くて長い脚を見て思わず唾を飲み込んだ。

 

 

膝上に織り目正しく添えられた細い手、その指先の白さ…

 

 

 気づくと久志は銃の形を作るように人差し指と親指を立ててそれを両手で合わせていた。フレームを作り、仄かな冬の朝日を浴びて気持ちよさそうに眠る彼女を縁取り、構図を作る。

 

 

 快速急行が向かいのホームに滑り込み能面達を攫ってゆく。駅のホームにはさらなる静寂が広がった。

 

 

「綺麗だ…」

 

 

思わず声に出てしまった。久志はあることを思いつき、背筋を伸ばした。

 

 

ポケットからスマホを取り出す。

 

 

彼女は、埃がダイヤモンドダストのように舞う暖かそうな日差しの中で、相変わらず目を瞑っていた。

 

 

イメージした構図を作ると、久志はスマホのカメラモードからシャッターボタンを押した。

 

 

 パシャリ。無遠慮な電子音が二人だけの穏やかな空気に張り詰めた。

 

 

思わず周囲を見回す。無人の車掌室。朝日の差し込むホームは誰もいない。尻尾を揺らして、こちらを覗きこむ猫以外は。

 

 

「うお!」

久志は思わず胴間声をあげた。

 

 

野太い声に驚いたのか、猫は尻尾を巻いてホームをかけていく。

 

 

しかし次の瞬間、女子高生は、ふさふさとまつ毛を揺らして、まだ眠そうに目をこすりながら瞼を開いた。

 

 

 久志は胸を破って飛び出そうな動悸を感じながら、スマホを胸の前で握りしめた。

 

 

リクルートスーツを着た彼女無し34歳のおっさん(独身)が密室で無防備な女子高生を目の前に、はぁはぁしながら虚どっているのだから、今まさに誰かが電車に乗ってきたら怪しまれるに決まっている。

 

 

深呼吸をし、自らを落ち着かせた。

 

 

猫はいつの間にか姿をくらまし、少女は小さく欠伸をしてからぼんやりと向かいの窓を見つめていた。

 

 

 やがて、待ち合わせ電車が滑り込み、数人が乗車してきて彼女と二人きりになれる僅かな時間が終わりを告げた。

 

 

 電車は短い駅と駅の間をいちいち停まりながら、新宿までの長い道のりをまるで亀のように進む。

 

 

朝の気だるさと静けさの中で、ガタンゴトンと緩く穏やかなリズムが続く。

 

 

久志は電車が停車するたび、少女が降りるまであと何駅、と心で惜みながら数える。人混みの間から、スマホを見るわけでもなくぼんやりと床に目を落とす少女を盗み見ていた。

 

 

相変わらず、物憂げな表情。

 

 

切長ではっきりした二重が、整った目鼻立ちの輪郭を強調している。

 

 

長いまつ毛は、どんな角度から見ても彼女の憂いを帯びた美しさを際立たせている。

 

 

ため息の漏れそうな桃色の唇が吊り上がったところは、一度も見たことがない。

 

 

と言うか、他人しかいない電車の中で一人で無表情以外の表情を作る人の方が少ないだろうけれど。

 

 

彼女にはどこか、特別な贔屓目のせいか、悄然とした雰囲気に他人には抱くことはない特別な魅力を感じる。

 

 

勝手な憧れを抱いているだけでかもしれないが、つまり久志にとって彼女は、とても綺麗な女子高生だが実は誰にも言えない暗い秘密を持っているのではないか、という勝手な夢と理想を詰め込んだ憧れの存在なのである。

 

 

久志は先ほど撮った少女の盗撮画像を見る。思わず見惚れてから、気だるそうにスマホを操作する彼女を見てまた見惚れる。

 

 

取りも直さず、変態だった。

 

 

いや違う。他でもなく、いい歳して恋をしている。

 

 

自覚してもなお気持ち悪いが、久志は既にそんな自分に吐き気を覚える時期はとうに過ぎ、今は開き直っていた。

 

 

恋をする対象は自由でいいじゃないか。

 

 

それこそ、アイドルやアニメキャラにガチ恋したっていい。今は多様な価値観が認められるいい時代なのだ。と、久志は潤いの少ない34歳彼女無し独身男の生活を迷走する内、物事を無理やり正当化し、虚しさや惨めさのダメージを受け流すスキルを身につけた。

 

 

ある駅に停車し、彼女は下車した。立ち上がると、小顔が引き立つ長い足を踏み出して、長い髪を揺らしながらホームを去ってゆく。

 

 

「本日もごちそうさまでした」と、久志は心でつぶやいた。

 

 

 彼女が視界からいなくなった現実世界に既に用はない。

 

 

空いている適当な座席に腰を下ろした。会社の最寄り駅まであと数十駅近く、この有り余る時間で久志が毎日行うルーティンがあった。

 

 

 スマホのインスグラムタのアプリをタップする。昨夜アップロードした写真に馴染みのフォロワーからコメントやいいねが付いていた。親指は表情とは裏腹な、テンションの高い文字や絵文字を連ねながらコメントへの返信をする。

 

 

 マイページに表示されるフォロワーの数199人、フォロー数は213人。決して自慢できる数字ではない、地味すぎる支持数だ。

 

 

自らのギャラリーページには久志の唯一の趣味であるスナップ写真が並んでいる。一つの写真に対してテーマとともに軽いエッセイ的な文章を認めていて、まるでフォトグラファーや写真家気取りだった。

 

 

主に街スナップや自然風景などの何気ない日常の写真ばかりで、どれも本格的なミラーレス一眼カメラとレンズで撮っている。スマホで撮ってもいいようなありきたりな日常。

 

 

だが久志はあえて一眼レフカメラで撮る事に拘っていた。

 

 

写真のクオリティーというよりも、フォロー数でフォロワーを稼いでいる感は否めい。

 

 

素人の久志のようなスナップ写真でも、切り取り方や構図のセンスが明らかにいい人はフォロワー数とフォロー数に何十倍や何百倍以上の差があるのが当たり前だし、プロともなればフォロワー数だけ膨大なまま、そもそもフォローをしない。

 

 

始めた頃は、伸び悩むフォロワー数に頭を抱え、才能の差をやっかむ事もあったりと、剥き出しの自己顕示欲の傲慢さに悩まされた。

 

 

だが、今はただカメラと写真を撮ること、それ自体が好きなのだと自分に言い聞かせ、伸び悩むフォロワー数をようやく気にすることは無くなった。

 

 

 ただ漫然と過ごす日々の中で、ふと美しいと思った何気ない瞬間にカメラのシャッターを切る。その行為自体にいつの間にか味気ない日々の価値を見出していた。

 

 

 撮った写真にコメントやいいねをくれる見ず知らずの誰かがいるという事実はそれだけで、彼女も友達もいない、女子高生にガチ恋している痛い独身男(34歳)というなんの色気もない、むしろ汚点しかない久志の、数少ない潤いだった。

 

 

 久志は盗撮した少女の写真をまた見つめた。

 

 

ハレーションする朝日のオレンジの中で、誰もいな車内でうたた寝をする女子高生。まるで映画のようなワンシーンのようだと嘆息さへ漏れる。正直、自分が今まで撮った写真のどれよりも心が躍った。が、もちろんこれをインスタにアップする気は毛頭ない。

 

 

「人を、撮る、か…」

 

 

 久志の写真にスナップ写真に人が映り込むことはあっても、誰かを主題に写真を撮っているわけではない。

 

 

 亀のような各駅停車は、ようやく目的駅に到着する。さらに駅から歩くこと15分。久志の勤務する会社に着いた。

 

 

 新潟の広大な田園風景の真ん中で育った久志は、地元の高校を卒業後、30キロの米袋と今は亡き爺ちゃんに米の保存にいいと、餞別で受け取った米櫃だけを持って上京。

 

 

東京の三流大学を出、特別な目標もないまま身の丈にあった企業をしらみ潰し的に面接をするような就職活動の末、面接をした記憶すら無い企業から採用通知を受けたのが今の会社だった。

 

 

主な仕事はプロパンガスのルート営業。

 

 

自社で販売しているプロパンガスを契約している客を定期的に訪問し、点検やヒヤリングを行いながら、給湯器やガスコンロなどのガス機器の販売や工事を行っている。

 

 

会社に着けばスーツから作業着に着替え、ミーティングの後は会社のロゴがバッチリ入ったダサい軽バンに乗り込み営業に向かう。

 

 

とは言え、一日中絶えず営業をして回るわけではなく、担当する地域に赴いて、午前中は1件のガス機器の交換工事。午後は数軒の点検と集金をして夕方には帰社して報告書類をまとめれば定時には上がれる。

 

 

自分のペースでこなせる気ままなものだった。これまでの生涯のテーマがただ平穏無事というなんとも保守的でつまらない惰性の延長線なので、張り合いのない退屈な仕事だが、原則定時退社、土日祝日や盆正月、GW等の休日も充実していて毎月、ゆとりのある給料も貰えて質素だがむしろこれこそ望んでいた未来だと、自己肯定できるほどに今の生活に満足していた。

 

 

潤いは少ないかもしれな。生活は限りなく地味でダサいかもしれない。

 

 

そんな風に久志は、今日も今日とて、いつも通りの、何も起きないつまらない日常が繰り返されるのだと思っていた。

 

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