最低最悪。
萩尾
プロローグ
第1話
多摩川にかかる大橋の上。夕日が落ちたばかりの夜景を私は呆然と眺めていた。
鉄道橋を走り抜ける小田急線が機械の蛇のように新宿へと這って行く。
遠くには都会の高いモールビルが立ち並び、世界は夜を拒絶する様に曖昧な夜景を作り出している。
冷たい乾燥した風が、スカートと長い髪の毛を巻き上げながら、夜の向こうに引っ張っていく。幽玄な三日月の月明かりが眼下の多摩川の緩やかな流れをキラキラと照らしていて、遥か遠くまで伸びるそれはまるで光の道のように伸びていた。
「きれい…」
思わず、嘆息が漏れる。そして、橋の欄干に手をかけた。
ローファーと丸みを帯びた金属の欄干は相性が悪い。
風が吹き付ける。
けれど、それもまたスリルがあって楽しい。少しでも気を抜くと、滑り落ちてしまいそうだ。
まあ、気を張る必要もないんだけれど。
両手を広げてバランスを取る。一歩、二歩と歩くたび、遥か月明かりで輝く多摩川の水面と、目の前の無機質なコンクリートの地面が揺れる。
まるで退屈な生死を分けるゲームだ。どちらに転んでも、別にどっちでもいい。平均台のように欄干を数歩歩いて気づいた。
「って私、結構運動神経あるんじゃね?」
だったら、と息を吸う。肺に冬の冷たい空気が満ちて心地いい。
目を瞑って歩いてみようと思った。
もしも、地面に落ちた場合は明日、この場所にもう一度来ようと思った。そしてこのゲームをもう一度すれば良い。
暗い視界の中、耳元を甲高い風の音が通りすぎて、巻き上げられた後ろ髪が顔に散らばる。ローファーが欄干を踏み外した。その時だった。
「んにゃーん」
え?猫?確かに、猫の鳴き声がした。風の音じゃない。
私は橋の上に降り立った。胸が高鳴り、手が汗ばんでいた。しかし、目を向けた先には、ただ冷たい橋がアーチを描いているだけだ。
「んにゃおーん」
足に暖かいふわふわが押し付けられ、足元に目を落とした。そこには尻尾を立てて円な黒目でこちらを見上げる三毛猫がいた。子猫よりは身体が大きい。けれど、大人の猫というよりは小ぶりで比較的若い猫のようだ、飼い猫のように毛並みが整っていて艶やかだ。
「んにゃ?こんな所で何してるの?」
私も猫撫で声で訊ねると、猫は注目してもらえた事に満足したのか、淑やかな動作でその場にちょこんと座った。凛とした佇まい。心を見透かすような丸い瞳に見つめられ少し緊張した。
「にゃ?」
私が首を傾げると、猫も首を傾げた。思わず笑みが溢れた。けれどその頬が少し引きつるので、頬を揉んだ。
膝を折り、猫となるべく視線を合わせる。笑ったのなんていつぶりだろうと思いながら猫の頭に手を添えた。
「こんな所で、ひとりぼっちで危ないぞ」
言いながら猫の頭を撫でると、三毛猫は目を細めて私の温もりを求めるように頭を突き出してきた。
「まったく、君のせいでゲーム中断だ」
言いながら、さっきからずっと頬の違和感が気になっていると、悲しくなってきた。同時に、こんな自分自身を自嘲した。勇気を出して電源をオフにしたスマホには今頃、最低な父親からおぞましい数の着信とラインの通知が来ているに違いない。
人間の都合など露知らず、猫は顎の下を撫でられて、ごろごろと気持ちよさそうに喉を鳴らした。
私の奇行を誰かが見ていたのだろう。一台の軽バンがハザードランプをたいて路肩に停まった。
どこの誰だかわからないが、きっと自分の行動を見て「死ぬな!」と軽薄で陳腐な価値観を押し付けて来るのだろうと思った。気まぐれの偽善や教科書通りの道徳心を押しつけられるくらいなら、猫の温もりの方が1000倍ましだと思った。
なんかもう、やっぱり無理だった。あの父親の元での地獄のような日々。心から頼りたい時に限って、都合よく目を逸らし、私を見離す身勝手な大人も、そんな連中で溢れるこんな世界も、もう懲り懲りだ。
「あーあ、猫になりたい」
なんのしがらみもなく、呆れるほど呑気で可愛いもふもふを見ていたら、思わず本音が漏れた。
猫はピクリと耳を震わせた。そして、すくっと腰を上げると、目を丸くして私を見上げた。
「ん?どうしたの?…ふふ、可愛いね。やっぱり私、今日死ぬね。最後にあったかい温もりをありがとう」
そう言って私は再び立ち上がった。
「あの!」
後方で声が響く。高い女性の声だった。
私は舌打ちしながら先ほど止まったバンの方を見るが、相変わらずハザードランプを瞬かせて停まっている。日が暮れたばかりの片側2車線の道路は帰りを急ぐ車で溢れている。あの車じゃなかったら誰だ?
「あの、ちょっと待ってください!」
もう一度声が響いた。よく聞くと、その声は妙な残響を残しながら、周りの雑踏にかき消されない。頭の中に直接声が響いているような、変な感じだった。辺りを見る。やはり周囲には誰もいない。ただこちらを見つめる三毛猫がいるだけだ。
「こっちですよ、こっち。私、猫です!」
まさかと思った。私は欄干から手を離して三毛猫に向き直った。
「ああ、よかった、思いとどまってくれて」
猫は長い尻尾をゆらゆらと鷹揚に揺らしながらこちらに歩みる。
嘘だと思いながら、周囲を見るがやはり誰もいない。猫の丸い瞳だけが私を捕らえて離そうとしない。
「ちょっと待って、あなた。本当に私に話しかけてる?」
私は恐る恐る声を上げて訊ねる。
「じゃあこういう言葉遣いでもすれば信じてくれる?そう、吾輩は猫である。にゃあ」
なんて剽軽な冗談なのだろう。その大人びた余裕はむしろ、この奇妙な状況に妙な説得力を持たせている。
「いやいやいや、そうじゃなくて…え、うそ。これって、マジで…すごい」
「うふふ、猫に話しかけたのはあなたでしょう?」
大人の女性のような余裕な笑み。よく見ると意外としなやかに長い身体をしている。妖艶な瞳をたたえたまま、三毛猫は歩み寄ってくる。
「所で、あなたは本当に猫になる気はない?」
猫は私の前までくると、後ろ足を畳んで座りながら言った。
冗談のような事を真剣な声色で猫は言う。
なんだか、面白おかしくて早希は思わず笑ってしまった。
けれど、猫は月明かりのように怪しく光る美しい瞳で見つめてくる。吸い込まれてしまいそうな真剣な面持ちに私は思わず息を呑んだ。
「…は、はい」
猫に向けて、思わず敬語になってしまうが、少しも可笑しいと思えなかった。一瞬だけ、猫から畏怖すら感じたからだ。
「じゃあ決まりね、もしあなたが本当にそう望むのなら今から私と、魂の交換の儀式をしましょう」
猫になりたい。
暴力も、蔑みも凌辱もない、この苦しみから解放されるのであれば、なんでもよかった。義務とか社会だとか秩序だとか、面倒な同調圧力に縛られる人間の宿命も関係ない。
人が抱える息苦しい世界の外で呑気に伸びたり丸くなったり、いつでも寝ていられる存在になれたら、今度こそ私は幸せになれるかもしれない。
私は、そんな憧れの存在に手を伸ばした。
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