第52話


規則的な時計のリズムが、お互い見つめ合いながら様子を伺っていた春奈と久志の間で、やけに大きく響いていた。彼女に特に変わった様子は無いが、額に浮いた汗が粒になり、久志の頬に筋を作った。

 

 

「ま、まだ春奈なのか?」

恐る恐る訊くと、膝を抱えてこちらを見つめる目の前の少女は、一瞬すがめるように目を細くした。そして、その目は柔らかく弧を描き、痣の浮いた頬を持ち上げた。

 

 

「…ふひひ、どうやら」

春奈は照れたように笑う。

 

 

「あちゃー、恥ずかしい事、告白しちゃったな」

そして、所在なさげに抱えた膝の小さな二つの山に染まった頬を埋めた。気恥ずかしそうに唇を尖らせ、上目遣いのその視線のなんともいえない可愛らしさに、久志はたまらず愛しさを覚えた。

 

 

久志は、内気に引きこもる儚げな春奈の側に寄った。際どいサンタのコスプレをした春奈のスカートから覗く太ももの内側は角度によっては確信犯になるのでかなり気をつけた。

 

 

さらに、見事な谷間を作った胸の膨らみに視線が導かれそうになるのをものすごく堪えた。

 

 

何も言わず近づいたこちらに、どこか熱を帯びた視線を向ける春奈。

 

 

少し飛び跳ねた髪の毛をすくようにして小さな頭を撫でてやると、彼女は大きな瞳の長いまつ毛を音もなく瞬かせた。少し潤んだ瞳。少し緊張したように震える薄い唇。

 

 

いつの間にか、その顔が近づいていたのは久志が顔を寄せたからだった。

 

 

いい匂いが理性を逆撫でる。そして、痣があろうと、やはりどこまでも美しい春奈の顔がぼやけかけたその時。

 

 

「むにゅーーーー!」

むにゅーーーっと、張り手が唇に押し付けられた。確かな拒否の二文字を掌に集中させたそれは、明らかな力と勢いで久志の顔を遠ざけた。

 

 

「どさくさに紛れようとするな、最低男」

 

 

「すんません」

なんともいえない焦燥と寂しさを感じたが、この結果は当然であるし、罪といえば罪であり、受け入れるべき羞恥だ。

 

 

久志を押し返した春奈は鼻を鳴らし、得意げに微笑んでいた。

久志は、懐かしさと嬉しさを感じながら、落ち込んだのも束の間、すぐにその笑顔に笑い返した。

 

 

「なんだか、強かさに磨きがかかってる」

「お陰様でね」

「うう…耳がいてぇ、いや、全身か」

「ざ、ま、あ」

小さく舌を出す春奈は、早希の姿だがまるであの頃の彼女に声まで重なるように生々しい。こんな取り止めもないやりとりをしているだけで、久志はまた喉の奥が熱くなって、涙がちょちょぎれそうだった。

 

 

「まったく、あの神様か猫かわからない変な声の情報のいい加減さには呆れたわ。焦って損しちゃった。変な事言っちゃうし…。はーあ…まあでも、これであと1日は大丈夫かも」

春奈は困ったように息を吐きながら言うが、その表情はどこかほっとしたのか、表情が0時前より柔らかい。

 

 

「猫に戻ったら、また俺を見つけ出してよ。そしたら…うーん。デート?しようよ。なんか変な言い回しだけど」

久志は、提案というよりも一方的な願望で春奈に尋ねていた。

 

 

「何それ、猫の私とどこに行く気?猫カフェとか言ったら噛み付くわよ」

 

 

「はは、猫カフェは猫が最初からいる場所だろ。ドッグカフェとは違う。そうだな、普通に今日行けなかったよみゆりランドでもディズニーでもいい。って猫連れていいのか?なんなら…」

 

 

「なん、なら…?」

春奈は、また頬を蒸気させて、次の言葉に備え耐えようとするように、膝を抱く両手に力を込めた。

 

 

春奈の言う、ちょっと間の抜けた、信用に足りない剽軽な天啓の声。

 

 

けれど、その声の言う通り、目の前には、死んだはずの春奈がいて、摩訶不思議な体験を現にしている。

 

 

彼女の事を、もう望んではいけないと思っていた。望めるはずないと思っていた。けれど、あの頃の自分が彼女を傷つけたことは明らかで、そんな彼女は第二の人生を、壮絶な苦しみと痛みを乗り越えて今ここにいる。ならば、これが本当かどうかなど、もうどうでもいい。

 

 

これが夢でもいい。彼女に今一番伝えたい自分の本当の願いを伝えたい。

 

 

彼女に情けない別れを告げた日。口元まで出掛かっていたのに必死に堪え飲み込んだ、本当は伝えたかったあの時の想いを。今度こそ春奈に伝えたいと思った。祈るように、久志は、春奈を見つめて言った。

 

 

「一緒に暮らさないか。猫とおっさんの地味な二人暮らし。なんかほのぼのしない?」

「!」

春奈が小さく息を呑んで、大きな瞳がさらに大きく見開かれていく。

 

 

「俺が春奈を飼うんだ。もう少し広い、ペット可のマンションかアパートに引っ越して、猫タワーとか、爪研ぎとか、猫じゃらしとか、おもちゃもいっぱい買ってさ。猫じゃらしで猫の春奈と遊ぶの楽しそう。どう?」

久志はそんな未来を想像すると、これ以上にないくらい頬が緩んで破顔した。



春奈は見開いた瞳の目尻に綺麗な雫をためて、可愛らしく微笑んだ。

 

 

「…うん、ちょっと楽しそうかも。でも彼女とか作ったら私、そいつ引っ掻くかも」

頬に涙が伝うと、それは顎の先でぶつかって、白いシーツに雫をこぼした。

 

 

「うっ…ん」

「うって言ったな、うって~!」

春奈は涙を散らしながら頬を蒸気させ、爪で引っ掻くようにして久志に襲い掛かろうとした。

「違う!うん、だ!うん!」

 

 

「まあいいわ…って、夢物語ばっかり語っていられないんだけれどね。あの声の情報がいい加減でも、私が猫に転生している以上この不思議な力は確かだし、二週間くらいという曖昧なタイムリミットは放っておけないわ。明日には早希ちゃんを見つけないと」

 

 

「本物の梶原早希がどんな猫かは覚えているんだろう?」

 

 

「うん、それなんだけれど…くあぁ」

と、春奈は欠伸を噛み殺すのに失敗した。安心したからだろうか。先ほどまでの怒涛の疲れが、取り留めもない会話を繰り広げる内に彼女の身体に回ってしまったのかもしれない。

 

 

「眠い?」

「うん、ちょっといろいろ、本当に疲れちゃったみたい…」

春奈の瞼が、重そうに上下し、モゴモゴと口元を動かしながら片目を擦る。まるで赤子のようなその仕草に、久志は口角が自然に上向いた。

 

 

「そっか。じゃあ寝なよ。あの男の様子なら俺が気にしておくし。俺はちょっと作業をしてから休むことにするよ」

 

 

「んにゃ、作業?」

春奈はもう片方の目も擦る。ちょっと、可愛すぎると思った。触れたくなるが、そんな事をしたら彼女は嫌悪感で目を覚ましてしまうだろう。

 

 

「うん。これまで撮った写真、SNSにアップしようと思って。最後、ちょっと変な投稿でフォロワーに心配させちゃったみたいだから」

 

 

「ああ、あのクソ投稿ね。あんなの、即刻削除して、今までの美しい私を即刻アップロードして。梶原早希ちゃんの魅力を人類にたっぷり投擲してやりなふぁ~い」

まるで酔っ払ったように舌足らずな声で、ふらふらと頼りない人差し指を向けてくる。

 

 

「見られてた!?うわ、恥ずかしい…」

「まあ、不可抗力でね…」

不可抗力。

 

 

その言葉にあの男の下衆で不敵な笑みが浮かぶ。彼女も思い出したのだろう。ブンブンと記憶をかき消すように勢いよく頭を振ると、久志に抱きついてきた。

 

 

「おっと…」

思わぬ彼女の行動に久志は戸惑ったが、久志は春奈を抱き止める。首筋から汗の滲んだ甘い香りがする。けれど、今は男としての反応は微塵も無く、ただ身体に中に痛々しい痣を浮かべる春奈の肩を抱いて、頭をそっと撫でた。

 

 

「君の笑顔はこんなに素敵だよってさ、SNSの皆の反応と共に、梶原早希の閉ざされた心に盛大に訴えてやる」

 

 

「それは素敵だねえ…」

首に回った春奈の腕が、眠いははずなのに締め付けが強まった気がした。

 

 

「これでいいんだろ?」

久志は春奈の背中を「もう大丈夫だから、安心してお眠り」と願いながらぽんぽんと優しく叩く。

 

 

「うん…」

消え入りそうな春奈の声。次第に彼女の腕の力も弱まった。そして、耳元で彼女の深い寝息が聞こえた瞬間、彼女の全身の力が抜けて重くなった。

 

 

それを、そっとベッドに寝かせてやる。

 

 

際どいコスプレの衣装の節々に残る痣が生々しく痛々しい。それは彼女が自分に合うため、あの一言を伝えるために駆け抜けた壮絶な薔薇道で負った傷跡だ。



いつの間にか、本命は魂の入れ替えをした梶原早希を救う目的にシフトしていたらしいが、彼女が走り抜けた道の過酷さを思うと、視界が滲み熱い涙が止まらなかった。

 

 

雪が降り積もる深閑な夜。春奈の深い寝息だけが聞こえる息苦しいほど清潔な部屋で、久志は嗚咽を上げながら泣いた。

 

 

本当の春奈の死を未だに実感できない。けれど、本当の彼女はもういなくて、魂だけがここにあるこの嘘みたいな奇跡に感謝している自分が情けない。

 

 

春奈にあんな最低な別れを切り出したあの日。本当の気持ちを言っていれば、彼女が将来病気で亡くなってしまうとしても、きっと自分も春奈もこんな辛い思いをしなくてよかったはずだった。

 

 

再び人間に戻った春奈のため、今自分ができる最大の償い。それは、きっと彼女の願いを叶えてやることだ。久志は涙を拭った。そしてポケットからスマホを取り出した。

 

 

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