第41話

 

 次の日、久志は昨日撮ったばかりの春奈のポートレート写真の現像を、馴染みの写真屋さんに急ぎで依頼した。

 

 

文化祭も次の週末に迫り、広瀬先輩からも、いい加減写真の選定は済ませておくようにと釘を刺されていたからだ。

 

 

 その日の夕方には出来上がった写真を机に広げる。机の小さなスペース一面には愛しい笑顔が咲き乱れ、世界を照らす光がここから滲み出ているような気がした。

 

 

しかし、そんな穏やかで幸福を感じれば感じるほど、心の隅からふと顔を覗かせる黒い影がある。それは一人の時ほど、大胆に姿を現し、甘い思考を黒々と染め、侵してゆく。

 

 

いざと言うとき、彼女を助けることが出来なかった情けない自分。

 

 

教室で、春奈が明白な虐めの被害にあっているにも関わらず、皆が戸惑い、あるいは嘲笑し傍観的態度を決め込んでいる時、自分はその卑怯な連中の端くれの一部にしかなれなかった。

 

 

そんな中、彼女は堂々と宮地に自分の意志を主張し、反抗し勇ましさを見せつけた。クラスの端っこで、いつもは大人しく読書をしているだけの物静かな彼女が、怒鳴りながら宮地に掴みかかっていた。あの瞬間、今まで笑っていたクラスの誰もが意外な彼女の姿に呆気に取られていた。

 

 

机の上の儚い笑顔に目を落とす。コンクリートに咲く花のように、力強く芽を出し、咲き誇った彼女の笑顔を守れるのは自分しかいない。

 

 

久志は、机の上の春奈の写真を指先でなぞりながら、彼女の様々な表情を思い出していた。

 

 

彼女と初めて対面した日、校舎裏の告白シーンを覗いた件もあって、ぎこちない自分に対して、終始鷹揚に微笑んで包んでくれた。実は気が強く、思ったことをすぐに行動に出来る先導力はなんとも頼もしい。冗談が好きで、よく笑うこと。その時の、あの独特な笑い声。辛い時も微笑みを絶やさず、逆に落ち込む自分を、大丈夫だと励ましてくれる強かさ。誰も知らない、彼女の尊い春奈の姿の数々が、今目の前にある。

 

 

そして今、自分と彼女以外の他者に対し、写真を撮る表現者として自分なりにできることは何かと考えた。周りに、惚気や彼女に盲目だと笑われようが関係ない。

 

 

写真展ギャラリーのテーマはズバリ「僕の彼女」がいい。

 

 

こんなにも魅力的な彼女の姿を、自分達の中だけで留めておくのは勿体無いと思った。彼女の本当の魅力を知らない全ての人に見せつけてやりたいと思った。

 

 

春奈の魅力を知らないまま、近寄りがたい雰囲気に勝手に敬遠をしているクラスメイトへのサプライズでもあり、自分が彼女の恋人だと言う表明でもある。

 

 

同時にそれは、もう決して一人にしないと彼女に伝えるためでもあった。いざと言うとき、彼女を助けることが出来ない情けない彼氏だけれど、悲しんで泣いている彼女をまた笑顔にできるのは自分の役目なのではないか。傷を舐めて、一緒に泣いて彼女を支えられるのは自分だけだ。

 

 

内藤や藤巻には、揶揄われるだろうか。粘着質で悪辣な宮地からは反感を買ってしまうかもしれない。だが、前向きに考えればそんな黒歴史を作るのも文化祭の醍醐味なのだとも思う。

 

 

 

 この写真のように、自分達二人だけが笑顔になれればそれでいい。自分たちだけが自分達のために存在するこの写真のように。

 

 

と、決断したにも関わらず、未だにそれを文化祭で実行しようとしている実感がわかない。考えるだけで震え上がる緊張はきっと武者震いなのだと自分に言い聞かせた。

 

 

 机の上に並べられた春奈の写真が、心なしか「無理はしないで」と優しく微笑んでいてくれているような気がした。

 

 

 その後、親が携帯料金を払っている事をいいことに、春奈と何時間も電話を繋げっぱなしで夜中まで話続けた。部屋の模様や何をしながら電話をしているのかなど、別にどうでもいいような事を教えあって、春奈の今の様子を想像しては、久志は胸を高鳴らせた。そしてその電話の中で春奈にある告白をした。

 

 

「文化祭の展示会で君のポートレート写真を飾らせて欲しい」

 初めは春奈も戸惑ったが、出来上がった写真を一緒に選別して展示するという形で了承を得た。明日部室で会う約束をすると、鬱蒼とした神社で逢瀬ばかりしていたお互いが、一歩を踏み出せたような気がした。

 

 

 学校へ行く準備をしていると急に少し気が重くなった。クラスの中で先週の昼休みの騒動が妙な尾を引きずっていないといい。

 

 

 だが、それもすぐに杞憂に終わった。登校した彼女の様子は、むしろいつもより堂々としている。

 

 

綺麗な内履を身につけ、制服も借り物ではなく彼女のもので、机も椅子も何事もない。教室に彼女が姿を表すと、皆が一瞬だけ黙り、教室中に緊張の波が伝わっていくのが目に見えた気がした。その場にいた皆が一瞬口をつぐみ、また普段を装うようにまたすぐに会話を再開する。その様子に春奈は鼻を鳴らし、涼しい顔で自分の席に着いた。

 

 

 それがおかしくて、久志は一人だけ笑ってしまった。その気配に気づいたのか、春奈がこちらを一瞥して、口角を上げた。相変わらずの春奈の気丈さには胸が躍る。久志も春奈に微笑みかけた。きっと上手くいく。久志は小心な心中に、常に燻る不安を打ち消すように、そう願い続けていた。

 

 

 前途洋々な朝の爽やかな雰囲気は、穏やかな時間の波を運び、久志は放課後を楽しみにしながらいつもと変わらない学校生活を送る。

 

 

今はまだ、今まで通りの二人の関係を学校では維持しているが、文化祭を終えれば、誰になんと言われ、思われようと、彼女との時間を学校生活で謳歌するつもりだった。

 

 

浮き足立つ二人の想いが表出したように、休み時間や授業中、まるで消しゴムのカスを投げ合う友達同士のように、どちらかが視線を送り、気づいたら、微笑んだり、変顔を作ると言う妙なゲームを開始していた。久志は既に春奈に突撃してあの神社で交わすような会話をしたくてたまらなかった。

 

 

昼休みを終えようとした時、校庭から何やら柄の悪い雰囲気の、他校の制服を着た男や私服の男が数名、忙しない様子で走って出ていくのが見えた。そういえば、春奈は昼食を済ますと、何か用事でもあるかのように、そそくさと教室を出ていったが、心なしか帰りが遅い。

 

 

彼らを視線で追うと校舎の柵を乗り越えて、タイミングを合わせた様にやって来た白いライトバンに慌てて乗り込み、うるさいエンジン音を唸らせてどこかへ行ってしまった。

 

 

 さらに一人の女子生徒が顔を青くして何かを叫んでいた。血相を変えた教員が慌ててその女子の元へ駆け寄ると、彼女は体育倉庫の方を指さした後にくず折れて泣き出した。

 

 

 背筋に言いようのない悪寒が痛みを伴って走る。

 

 

もうすぐ昼休みを終えようとしていて教室に集まっていた他のクラスメイト達も、立ち上がって何事かと興味深そうに校庭を見つめている。「なんか雰囲気やばくね?」「なんだ、事件か?」「授業流れるラッキー展開か?」口々に騒ぎ始めた連中をよそに、久志は立ち上がって、体育倉庫に駆けた。

 

 

 遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてくる。

 

 

久志は全身に汗をかいていた。春奈の笑顔が浮かんでは消えてゆく。泣きそうになりながら足を前へ前へと運んだ。玄関に来て、靴を履き替えずに校庭に出ようとすると、後ろから襟元を掴まれて下駄箱に背中を押し当てられる。

 

 

目の前に立ち塞がったのは、王子の告白現場に居合わせていたあの響と呼ばれていた赤髪の男だった。

 

 

「よう。お前も体育倉庫に向かう野次馬の一人?」

 

 

「離せ!邪魔だ」

 

 

 ねちっこく、嫌味っぽい声に久志は反射的に感じた怒りのまま押し離そうとする。しかし相手の力の強さには敵わなかった。

 

 

 チャイムが鳴る。野次馬など誰一人として居ない。皆一様に教室から首を伸ばしてよく見える校庭で慌ただしく集まる教員達を見ていた。教員達の怒号が飛び交っている。

 

 

「お前、水本と付き合ってんのか?」

 

 

「関係ないだろ。なんで今そんなこと聞くんだ?」

 

 

「この写真、お前らだよな?」

響が掲げる携帯のディスプレイに、角上市場で春奈とデートしている様子が映し出されていた。

 

 

 心臓の鼓動が激しく胸を叩く。今日の放課後から行う作業は、自分が春奈の恋人なのだと、皆に表明する準備だ。こんな男一人に躊躇い、口籠もってなどいられない。

 

 

「ああ、そうだよ。俺の彼女の写真だけど何?というか、盗撮?キモいからやめろよな」

 

 

「なんだよ、あんな暗い女と付き合ってるの、バレたくないのかと思ったけど平気じゃねーか」

響は鼻で笑う。

 

 

「じゃあ、お前の彼女がこーんな淫らな姿を他人にも見せてたら、お前はどう思う?」

 

 

 次に映し出された液晶画面を見た瞬間、全身が粟立った。そのまま強張った身体は、石のように動かなくなった。

 

 

血の気が引き、足元から這い上がった冷気が脳天を突き抜ける。

 

 

 薄暗い体育倉庫。その暗がりに、制服を乱されて白い肌が露出し、悲痛と悔しさに歪む春奈の顔が浮かび上がっている。目尻に浮いた涙がもの寂しそうに光っていた。そんな彼女を知らない男達が囲っている。

 

 

 次の写真が表示される。下着がはだけて、顔に痣ができた春奈は歯を食いしばり、涙と、鼻水で顔が濡れていた。下卑た笑いを浮かべる知らない男が隣でピースをしている。

 

 

 鈍く乾いた破裂音がした。一瞬の気絶のような意識の消失の直後、目の前には響が頬を抑えて倒れていた。どうやら、響を殴っていた。酷い写真が収まった携帯は彼の側に落ちている。

 

 

久志は、その携帯電話を思いっきり踏みつけ、その勢いのまま倒れ混んだ響に突撃し、馬乗りになった。ほとんど無意識だった。そしてそのままもう2発ほど拳を顔面に打ち込んで叫んでいた。

 

 

「お前ぇ!春奈に何してんだ!」しかしその直後、脇腹が爆発したような衝撃を受けた。久志は床に転がりながら、息が出来ずに喘いでいた。

 

 

「…いってえ…は!まさかお前が殴りかかってくるなんて思わなかったわ。」

 

 

響はフラフラと立ち上がると、ゆらめく巨塔のように久志の前に立ちはだかった。

 

 

「いいか、この写真をバラまれたく無かったらアイツと別れろ。あいつに二度と関わるな。宮地の怒りを買っちまったあいつが悪い。携帯、ぶっ壊れてもデータは転送してあるんだからな…」

 

 

「…宮地?なんでお前があんな奴の言うことを聞く?あいつと王子が付き合ってるなら、お前があいつの忠犬みたいな役割をする必要も義理もないだろ?」

 

 

「ああ、宮地は俺の女でもあるんだよ。ヤってる回数は俺の方が多いしな。こんな汚れ仕事もお姫様のためだ。俺ってマジで優しいだろ?王子なんかよりアイツには絶対に俺が似合う」

 

 

「狂ってる…」

 

 

 下衆の戯れに付き合っている暇はない。響の手を久志は体育倉庫に駆けた。ちょうど、仰向けになって毛布に包まれた春奈が担架に乗せられ救急車に運び込まれるところだった。

 

 

「春奈!春奈!春奈ああ!」

 

 

 全身を震わせて肺がはち切れるほど叫んだ。喉の奥が焼けるように熱く、涙が止まらなかった。

 

 

 教員達と数人の生徒の向こう側。彼女の姿が救急車に吸い込まれる寸前、朦朧とする春奈が、僅にこちらに視線を向けたような気がした。

 

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