エピローグ
第56話
「ねえ、春奈ちゃんにこんなゲージ必要なくない?」
東京駅から上越新幹線に乗り込んで数分。先ほどからゲージの中で不満そうな鳴き声をあげる三毛猫こと、春奈を憐れんだ早希が不満そうに久志に訴えた。
「乗車マナーだから仕方がないんだよ。ごめんな春奈。もう少し我慢してくれ」
「んにゃー」
春奈であるはずの猫は、不満そうに久志を睨んで鳴いた。
「マナーは仕方ないが、お前の手でゲージに閉じ込められるのが不満なんだよ。だって」
こともあろうに、ゲージの中の春奈はこくりこくりと頷く。
「はーあ…俺がゲージに閉じこもりたいよ全く」
ため息まじりに言って、久志は席に身体を投げつける。
「春奈ちゃんの実家楽しみだなあ。でも、ここに春奈ちゃんがいるのにお墓参りなんて、変な感じだね」
久志達は春奈の墓参りに彼女と久志の地元でもある新潟へ向かっていた。
実家に来て欲しいという彼女の願いの、その具体的な理由は聞きそびれていた。けれど、理由がなんであれ、彼女の訃報に、一度彼女のお墓に手を合わせずにはいらいというのも、彼女の死を悼む一人として当然の礼儀でもある気がした。
春奈の魂が実際はこの三毛猫に宿っているとは言え、だ。
「そうだな、お墓参りって故人の冥福を祈ったり、そう言うのだと思うけれど、俺たちはどうすればいいんだろうな。だって彼女は…」
ゲージの中の春奈であるはずの猫は、久志の方をじっと見て、可愛い腕を伸ばしてから大きな瞳を瞬かせた。
「何だか、元気そうだ」
「自分で言い出したこと聞かれてもわかんないし。馬鹿だよねー久志は、ね、春奈ちゃん」
言ったそばから早希は、春奈をゲージから出して膝に乗せてしまった。
「あ、こら!駅員が来ても俺は知らないからな。…ん?」
視線を感じて目を向けると、春奈がじっとガラスの様な透き通る目で久志を見つめていた。しかしすぐに、早希と一緒に景色が流れる窓の外に目をやってしまう。外の風景はまだ根雪が残る新緑の景色が広がっている。冬と春のちょうど間の季節だった。
あれから早希は森安巡査を頼りにさまざまなアドバイスを貰った。親権喪失裁判の手続きに踏み切り、満を持して、現在父にあたるあの男の親権を剥奪することに成功した。現在、児童養護施設から高校に通っている彼女は、久志のインスタの写真の影響もあって、知る人ぞ知るちょっとした有名人になっていた。芸能オーディションの特別推薦や、雑誌モデルの仕事を依頼するダイレクトメールが久志のアカウントに続々と届き、早希には興味のあるものから選ばせて、現在彼女は雑誌の読者モデルのアルバイトをしながら社会経験を積み、生活のために資金を稼ぎ、地道に貯金をしているそうだ。
更に、春奈との魂の入れ替えを経て、春奈の努力の甲斐があってか、明るくなった早希には、春奈が培った交友関係をそのまま持続させることができた。春奈は、梶原早希の日記に友達との交友日記のようなものを徹底的に記し残してくれたらしく、それは魂が早希に引き継いだ後も、彼女にとって大いに役立ったらしい。それもこれも春奈が早希のために残してくれたのだ、と早希は語っていた。また現代の女子高生の流行や好みを徹底的にリサーチした記録が残っていたらしく、それらは、春奈が早希のために友達を作るため、どれだけ努力していたのか垣間見える瞬間だった。
魂の入れ替えが終わっても、早希が毎日を楽しく過ごせるように環境を整えてくれた春奈の、梶原早希を想う努力の数々は、どれだけ時を重ねても、早希と久志の胸を打ち続け、彼女の優しさを思い出させるのだろう。
幸いにも、今回梶原早希に起こった事件に警察は、彼女の人生の多大な重荷になるとして、厳重に記者クラブやマスコミに伏せさせた。久志はと言うと、あれから肋骨に生えたひびの治療を定期的に受けながら、猫の春奈を飼えるようにペット可のマンションに引っ越して一匹の猫とおじさんの共同生活を開始していた。
久志にも懐いた早希は、春奈に会いたい、とよく部屋に遊びに来てくた。そのたびに久志は鼻の下を伸ばし、春奈に引っ掛かれるという平和な日常は、少なくとも以前の孤独な日常よりは随分と華やいだものになった。
「てか、三人で新幹線に乗るなんて、なんだか感慨深いなぁ」
ふと、何かを思い出したように、景色が流れる車窓を眺めながら早希が口を開いた。
「ん、なんだ?三人で新幹線に乗った思い出なんて俺達にないだろ?」
「まあ、最初に出会ったのは新幹線じゃなくて電車の中だったけれどね」
早希は、膝上の春奈の頭を撫でながら視線を車窓に固定したまま僅かに目を細めて言った。
電車、と言う言葉に久志の胸は僅かに動悸を早めた。思わず、ポケットにしまっているスマホを、なんの防衛反応か、思わずジーパン越しに触ってしまう。
そんな久志の反応を見逃さなかったのか、春奈であるはずの三毛猫は久志の邪な欲望や、ゲスいあの頃の下心を射抜くような、キッと風切り音がするかのよな鋭い睥睨を向けた。
「う…」
思わず、呻き声のような間の抜けた声が喉から漏れた。早希は妖しくも美しく笑いながら、久志を見た。早希と春奈から向けられる視線が痛い。
「もしかして、早朝の待ち合わせ電車の中で、寝ている早希を俺が盗撮した時…起きてた?」
久志の問いに、春奈も早希を見上げた。そして、早希は、意味ありげにニヤリと笑って、コクりと頷いた。
久志は、喉元を通り過ぎる熱湯にもがき苦しむように頭を抱え羞恥に悶え、耳を塞ぎながら大声で叫びたくなった。
「でも、あの出会いがなかったら私は、本当に、あの後の自殺を思い止まらなかったかもしれない」
早希は、大切な思い出を懐かしむように目を細めて春奈の頭を撫でている。
思いもよらない言葉に、久志は戸惑い、聞き返さずにはいられなかった。
「盗撮する瞬間を猫に見られてるのに気づいてビビってるおっさんと無防備な女子高生の構図に、ロマンのけらもないような気がするが」
自虐的に言う久志に、しかし、早希は鷹揚に首をふって応えた。
「指でこうやって、構図を作って私にフレームを意識してる時の久志を見ている時の春奈ちゃんの目が、すごく綺麗だったの」
早希は、指で銃の形を二つ作るとそれを合わせて久志に向けた。そして春奈にも。片目を閉じてズームしたり引いたりしながら話し続ける。
「まるで久志の事、ずっと昔から知っている人みたいに、駅のホームで座ってじーっと綺麗なまあるい瞳で見つめてた」
今度は胸がじーんと暖かくなってくるのを感じる。春奈を見ると一瞬だけ目があったが、すぐにプイッと目を逸らされてしまう。
「私が死のうと思った橋の上で、春奈ちゃんに再会した時に思った。ああ、なんか死にたいくらい最悪だった日々が、何か変わるような気がするって」
早希は春奈を撫でながら柔らかい声で言った。新幹線の中の騒音が全て消え失せて、彼女の薄い唇から発せられる綺麗な声が優しく耳に届いた。
「そして、私は不思議な力で春奈ちゃんになって、人生が変わった。私を助けてくれてありがとう、二人とも」
早希は、呆然とする久志に微笑みかけた後、春奈を抱き上げて、春奈の目を見つめてから、頬ずりをした。
久志は、気持ちようさそうに目を細める春奈と早希をみながら、かつて春奈が自分に手紙をくれた時の事を思い出していた。
もしかしたら、自分は彼女にとって憧れだったのかもしれない、と思うのは少し、自意識過剰だろうか。
やがて、新幹線「とき」は燕三条駅のホームに滑り込んだ。再びゲージに押し込まれた三毛猫と久志と早希はタクシーに乗り込んだ。
到着したのは春奈の実家だった。
ゲージから出た三毛猫の春奈は、ピッタリと早希の足元に身体を寄せて歩いていた。インターホンを押すと、家の奥から「はーい、ちょっと待っててねー」と、間延びする女性の声が聞こえてきた。
早希と目を合わせ、一緒に足元を見ると三毛猫の春奈は行儀良く座り、締まり切った玄関を見上げ、尻尾をゆったりと揺らしていた。
彼女が、人間だった頃は、いつの日もこの玄関から送り届けてくれる家族がいて、いい事があった日も、悲しい事があった日も、久志との思い出を重ねた日も、この敷居を跨いでは彼女の人生の一ページ一ページを重ねてきたのだろう。奥から聞こえた、おそらく母親と思しき声も、彼女の耳には泣きたくなるほど懐かしく、寄り添いたい声であるはずで、名残惜しいのかもしれない。
感情が読み取りにくい猫の春奈のまあるい瞳は、今何を想い、何を感じているのだろうか。
「うう、緊張するよう」
最近わかったことだが、早希は極度の人見知りだった。慣れてしまうと、それまでのぎこちなさが嘘の様に生意気な態度に豹変するのだが、それは久志に限ったことかもしれない。
久志は最近生意気ばかりの早希が珍しくしおらしくなっているので、ニヤけ顔になっていると、春奈に睨まれた。
「猫になりたいよぉ」
こんな時に春奈がそばにいるからか、春奈を抱き上げて頭の匂いを嗅いで落ち着こうとしている。春奈はそんな早希の鼻の頭を、宥めるようにぺろっと小さく舐める。全く、この二人は微笑ましいほどに仲がいい。久志の両手には、挨拶代わりに用意した粗品と、早希の荷物と春奈のためのゲージがぶら下がっていた。すっかり蚊帳の外で、荷物持ちの久志は「やれやれ」と独言て、ガチャガチャと音を立てながら肩をすくめた。
「ごめんなさいね、はいはい、どちらさ…?」
現れた、初老の女性は春奈の母親だろうか。早希を見るなり一瞬固まってしまった。続いて、足元の春奈である三毛猫に視線を送る。
「あ、こんにちわ。どうかされましたか?」
そう久志が訊ねると、目の前の女性は一つ鼻をすすって目元を指先で拭ってから首を振った。
「いいえ、ごめんなさい。なんだか一瞬、あなたが春奈に見えたから。って言うより、あなた達の間に春奈が居たような気がしたのよ。うふふ、変ね、私。まあ、いいわ、とりあえず上がってくださいな」
玄関に上がり、そして挨拶変わりの粗品を差し出す。お互い初対面な上に、付き合っていた当時の事を彼女は知っているのか定かではなく、久志はそのせいで母親に後ろめたさを覚えていた。
「わざわざ遠いところからありがとう」
と、おっとりした母親の言葉に久志は適当な社交辞令しか返すことしかできない。
そう言えば、春奈はどこに行った?と玄関の方を一瞥したが、三毛猫の姿は見えなかった。気遣いの上手い春奈のことだから、あるいは何か想うことがあって家には入りたくないのかもしれない。いずれにせよ、彼女の気持ちに寄り添うには、この状況は複雑すぎるだろう。
今は、葬儀にも参加できなかった不届者として、しおらしくも彼女の遺影に手を合わせる事が精一杯だ。
「そこのお嬢さんは、ええっと、久志さんの……?」
緊張しているせいかずっと俯いて黙っている早希に水を向ける母親に、早希は打たれたようにピンと背筋を伸ばした。
そう言えば、早希との関係を決めていなかった。彼女ではないし、友達と言うのも何か違う。二回り以上も歳の離れた自分達の関係をなんて言ったらいいのかわからない。そう答えあぐねていると。
「私は彼の妹です」
頭の中でカチリと何かがハマる音がした。聞き覚えのある声で、聞き覚えのある、いつまで続くのかわからない二人の曖昧な設定が蘇った。その設定を、早希は知らない。
視線を感じてふと上を見ると、そこには開かれていた襖の奥に飾られた大人になった春奈の遺影が、懐かしい笑顔を向けている。
その笑みは、動揺する久志を嘲笑っているようにも、悪戯っぽい無邪気な子供のようにも見えた。
「ああ、あの写真、有名な写真家の人にとってもらったのよ」
久志の視線に気づいた春奈の母親が遠い目をして言った。
「そうそう、あの無礼な人ね。どう?上手に撮れてるでしょ」
早希の言葉に、久志は困惑を浮かべ、目を丸くした母親と目があった。しまったと言うように早希は、わざとらしく口に両手を当てて、肩をすくめた。いつの間にかそばにいた三毛猫が、ハテナを頭の上に浮かべるように小首を傾げていた。
もう一度、春奈の遺影を見る。まるで、あの独特な笑い声が、聞こえてくるような気がした。
-end-
最低最悪。 萩尾 @hagio62
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