第55話
締め切ったベッド脇のカーテンの隙間から朝日が差し込んでいて、部屋に舞う埃をチラチラと輝き映していた。久志はまだ痛む肋骨と所々の筋肉痛に顔を顰めながら、まとわりつく眠気を引きずりカーテンを引く。
窓の外は、まだ低い朝日に照らされ、およそ東京とは信じ難い光景が広がっていた。密集する家やその向こうの駅前に広がる雑居ビルやマンションが、一面雪化粧に白く塗りつぶされ、淡い朝日を浴びて輝いていた。
「ううん…」
部屋に雪崩れ込んだ朝日の眩しさから逃げるように春奈は身体を丸めた。
部屋の置き時計は午前7時を指していた。なんだかんだで、6時間くらい眠ったのだろうか。久志は掌に目を落とす。昨夜、春奈と寝入るまで繋いでいた手はいつの間にか解かれてしまっていた。
衣擦れの音がし、甘い香りに視線をあげると、ベッドの上で這うようにして窓の外を覗き込む春奈の横顔が目の前にあった。
久志の中で、一瞬だけ緊張が過ぎる。目の前の彼女はまだ春奈なのだろうか。
「へー、東京にもこんな雪降るんだね」
地元新潟ならば、このような光景は毎年必ずと言っていいほど見られる。雪が見るもの全てを真っ白に染め上げる雪原は、とても平坦で無機質だ。その景色を覚えているからこその感嘆な言葉、よかった。彼女は春奈だ。
朝日に照らされる春奈の、こっちの緊張感をまるで知らない屈託のない笑顔。思わず抱き寄せてたくなるが、そんな権利は自分にはない。そういえば、春奈の頬に浮いた痣は少し薄くなっているような気がする。二重で安心し、久志も春奈に笑い返した。
「ここまでの雪に慣れていない大都会の交通は、今頃大混乱だろうな」
「そうね、早希ちゃんが心配だわ…」
「もう出発する?」
久志が訊ねると春奈は、際どいコスプレ衣装のままの自らの肢体をながめてから、少し恥ずかしそうに頬を染めて応えた。
「さすがに、これじゃあねえ。シャワーでも浴びましょうか」
久志がだだっ広い浴場のシャワーだけを浴びている間、先にシャワーを浴び終わった早希は黒のボアジャケットに白いインナートレーナーにデニムを合わせ、足元はスニーカーと言う動きやすそうな服に着替えて、顔に痣を薄めるメイクを施した。
久志はというと、昨夜の着替えのまま、包帯やテーピングを変えてもらっただけだが、シャワーを浴びるとまた新たに、今日を乗り切る活力が湧き上がって来る。
「まずは、あのクソ野郎を警察に突き出すわ」
春奈は眉間に眉根を寄せて精悍な表情を作る。目的に向かって突き進む男気溢れるバイタリティーの豊富さと、それを叶えるために直向きに突き進む信念。空を睨み拳を握る春奈に思わず拍手を送りたくなった。
短い恋人同士だった当初は、彼女のこう言う、強さと行動力が好きだったなと思い出す。
彼女が何故、こんなクラスの3軍の末端の地味な自分なんかに手紙をくれたのか謎だったが、彼女のこの行動力と勇気によって、彼女に巡り会えたのは間違いなかった。
そういえば、王子と呼ばれた学校の人気者の告白も退けて、宮地の反感も恐れずに自分の気持ちを力強く訴えていたこともあった。クラスの目が完全にアウェー状態の中で、勇敢にも宮地と喧嘩をしていた春奈の強靭な姿も思い出される。
けれど、今の春奈はその執念のような強かさにより鋭く、毒々しい磨きがかかっているような気がした。と言うのも、少々乱暴な言葉遣いのせいだろうか。
「どぎつくなったな、春奈さん」
「本当にね、誰のせいかしら」
春奈も久志も準備万端だった。春奈は悪戯っぽく微笑みながら、久志の肩を軽く小突いた。そして、遅い冬の日の出からしばらくして、久志と春奈は、新雪を踏みしめながら、警察署を目指した。
「クソ野郎は警察に突き出す」
そう意気込んだ春奈だったが、証拠を持ったこちらが一見有利に見えるものの、自体は予想以上に難しそうだった。
梶原早希の日記によれば、彼女は一度警察に逃げ込んだ事があるらしい。
その時の状況証拠は身体の痣のみだった。しかし早希は、訴えた先の警察署内でお腹や胸部といった彼女にとって恥部であった場所に残る痣を、他人に見せる事が途端に怖くなり、肝心な証拠を何も提出できなかった。
さらに半信半疑になった警察は、男に連絡してしまう。
男は方々の有権者で公役関係の顔も広く、早希が訴えた先の警察署内部で癒着のあった警察関係者はことごとく男に収賄されてしまう。結局、早希の訴えは有耶無耶にされてしまったらしい。
「それがわずか早希ちゃんが10歳の頃よ?本当に信じられない。それからあの子が大人を信じられずに、いったいどれほど苦しんで来たか…」
次第に早希は自分に降りかかる痛みや苦しみが、どうしようもない事を悟と、抗うことも考えることも止めて、全てを諦めた。そのうち、感じることさへできなくなって、汚れた大人の意地汚い欲望に搾取される地獄の日々をただ耐えるしか無かった。
「でもね、私が彼女と入れ替わったからにはそうはさせない」
道中、春奈は例のカメラを詰めた鞄を叩いて胸を張っていた。
「そうか、きっと洗脳されて、男には逆らえない早希はここまでの証拠を集めるほどの行動を起こせなかった」
「そうね。私も証拠と言える映像は持っているけれど、10歳の頃の彼女の気持ちがわかる。彼女が証拠である身体にできた痣を大人に見せる事を拒んだ苦しみが。こういうのって、証拠を見せる方もかなり勇気がいる。…本当は、このまま警察に行かないで逃げ出したいくらいひどい映像ばかりだし、いくら正しいことでも、屈辱的なのよ」
春奈の身体ではない早希の身体であっても、春奈は身につまされるように両腕を抱いて、今にも消え入りそうに肩を震わせて言った。
「無理、するなよ。それは春奈の気持ちはもちろん、早希の名誉でもある」
「…うん。でも男と警察に癒着があろうと、また男が彼らを収賄しようと、この勝負に絶対に負けるわけにはいかない。これは、どんな汚れた大人をも黙らせる、明らかな証拠だから」
悔しそうに俯く春奈の頭を撫でようとしたその時だった。春奈は久志の手をつかんで
「別に、そういうの今はいいかな」
と冷たくあしらって、その後、愉快そうに笑った。心配は杞憂だったようで、まだまだ頼もしい事に安心した。
「それに、この被害を訴える警官には当てがあるの。彼は立派よ。こういうセクハラとか猥褻沙汰にやたらと熱い正義感を燃やすフェミニスト。久志もよく知ってるはずだよ」
久志の脳裏には、かつて公然で盗撮犯として晒された苦い記憶がフラッシュバックする。
土偶警官の所へ行くと、顔に痣を作った春奈を見るなり目の色を変え、重々しい空気を醸し出しながら神妙に話を聞いてくれた。彼の名前は今更だが森安と言うらしい。久志達が尋ねた交番の巡査部長だった。
「君がこれまで感じてきた痛みこそが何よりの証拠だ。今は話してくれただけで十分だ。ありがとう。だが、辛いだろうが他の証拠が必要になる場合がある。その時は勇気を出してそれを提出して欲しい」
と、春奈の顔を見つめ、目に熱い涙を浮かべながら震える声で言う森安巡査に、最早収賄をされるような疑いを抱く余地はなかった。
それから、昨夜の出来事を全て森安巡査に話した。それから間も無くすると、早希の家の周りは応援を要請されたパトカーで溢れて一時騒然となった。まるでサクセスストーリーの映画を見ているように状況が好転していく。その一連の鮮やかな展開に、心なしか春奈の横顔は安堵しているように見えた。
一時、久志と春奈は市の警察本庁舎で事情聴取を受けたが、男の軟禁と外傷については正当防衛が認められ、間も無くして帰宅することが出来た。
男は現場の状況から春奈に対する性虐待と脅迫、久志に対しての暴力が認められ、現行犯逮捕されることとなった。
事情聴取の帰り道、森安巡査が運転するパトカーの車内で彼からそう報告を受け、久志と春奈は肩を撫で下ろした。さらに彼は、親の子供の利益を著しく害する行為により、親権を剥奪する為の裁判の請求ができるのだと教えてくれた。
「まあ、わからない事があったらなんでも相談に来なさい。幸いにも梶原早希さんの居住エリアは私の管轄だから、これからも十分に警戒しておくよ」
言いながら、森安巡査はバックミラー越しに久志に向けて鋭い睨みを効かせる。
雷に打たれたように肩を震わすだけの情けない久志に気づいた春奈は「大丈夫です、この程度の男なら、私はねじ伏せれますから」
春奈がそう言うと、鋭利な刃物のような森安巡査の目は、驚くほど柔和に微笑んだ。
外はすっかり夕方になっていた。久志と春奈は、森安巡査部長に丁寧にお礼を言って別れた。
昨夜には雪が止んでしまったらしいクリスマスイブのこの日。
僅かな降雪にも狼狽える東京の足並みは、今朝から電車の運行休止や交通機関のトラブルのニュースで持ちきりだった。けれど、街は数十年ぶりのホワイトクリスマスに、トラブルの憂など、微塵も感じさせないほど大いに盛り上がっていた。
繁華街に出れば、どこを見ても街を彩るカラフルのネオンがクリスマス色に輝き、どこからともなくロナンチックなベルの音が聞こえてくる。肩を寄り添い、白い息を登らせるカップルや、手を繋ぎ合う親子の幸せそうな背中が眩しい。
「人間っていいなー」
「変な冗談はよせって」
久志の胸の中で、不穏な制限時間を知らせる砂時計がサラサラと時を落としていた。一人落ち着かない様子でスマホを確認すると17時40分を示している。
横を見ると、こちらを見上げてどこか楽しそうに微笑む春奈がいて、思いの外落ち着いている彼女に久志は戸惑った。
「ほら、じゃあ先ずはなんだ、猫の捜索だろ?どんな猫なんだ?…え?」
冷たくなった久志の指先を、春奈の小さくて柔らかい温もりが絡め取ってくる。僅かな力が久志の手を握る。
人混みの中で繋ぎ合う手と手が結ばれる感触は何とも懐かしく、久志は見開い手春奈を見る視界がたちまち霞んだ。
胸にあふれる感情は、その小さな手をずっと自分の元に繋ぎ止めてあげられなかった悔しさと、彼女との儚い時間に対する寂しさ。そして何より、春奈の事を愛しいと思う、どうしようもないほど再燃し燃え上がる恋心だ。
「ふひひ。歳をとると泣き虫になるって本当なんじゃないの?」
久志は、込み上げる涙を抑えることができなかった。春奈の手を両手で包んで、膝を付き、何かに必死に乞い縋るように額に当てて静かに泣いた。
彼女を手放したせいで、ただ腐る一方だった無味乾燥で虚しかった34年の人生。彼女を手放したせいで、こんなにも大好きな彼女の死に目に、側に居てあげられなかった、激しい後悔。
嬉しくて、有り難くて、感謝でたまらなかった。同時に、悲しくて、悔しくて、寂しくてたまらなかった。
もっともっと、またこうして、困ったような笑顔で微笑んで欲しい。握った暖かな手の感触を明日も感じていたい。もっと、春奈と言葉を交わしたい。けれど、時間はもうすぐそこまで迫っている。
「最後の私の願い、聞いてくれる?」
少し寂しそうな柔らかい声が降ってくる。暖かい雪のようだった。
そう、猫の気まぐれのように、飄然と訪れた奇跡に、久志は感謝をしてそれ以上は何も望むことはできなかった。
久志は、叶うはずのないわがままを涙と共に飲み込んで、年甲斐もなく泣き、涙と鼻水で濡れる顔を袖で拭って大きく頷いた。
「ああ任せとけ!」
「ねえ、声おっきいし恥ずかしいんだけど」
気づけば、街ゆく人が恥ずかしそうにしている春奈の手を久志が握って跪いて泣いている風態に、どこか気の毒そうな視線を送っていた。
春奈は、ひたむきに自分の運命を全うしようとしている。ならば、自分だけ今更メソメソしていられない。
「久志がこの場所で職務質問を受けた時に撮った猫。あの写真をもう一度見せてほしいの」
久志はスマホに保存した写真データをスクロールし、見つけた。街明かりを背景に悠揚に毛繕いをする三毛猫。
「やっぱり、この猫が梶原早希よ」
なんと言う偶然なのだろう。これほどの急場に、こんな偶然が上手く組み合わさるなんて奇跡以外の何物でもないような気がして、全身が泡立った。
「実は、この猫がどこに居るのか知ってる」
久志と春奈はある場所に駆けた。猫に目がなく、日々食料と言う名のみかじめ料をせびられるのだが、それをむしろ嬉しそうに歓迎しながら野良猫に餌を与え続ける、店主が経営するピザ店。
レンガ作りのそのピザ店は雪の積もる屋根からいい香りのする煙を吐き出し、暖色の淡い光を窓から漏らしながら、のんびり営業をしていた。
店に入るなり、店主は久志を覚えていたらしく、隣の春奈を一瞥してから意味ありげな微笑み浮かべて「いらっしゃい」と言って歓迎してくれた。
「こんな足元悪い中、わざわざ来てくれて嬉しいよ。可愛らしい彼女さんとゆっくりしてってくれ」
しかし肩で息をし、少し様子がおかしい久志に気づいて、店主は訝しそうに首を傾げた。
「あの、この前この店に餌をせびりに来た、二匹の猫は今日はまだ来てませんか?」
「…あ、ああ、あの子達か。そうだな、あいつら雨でも毎日せびりに来るくらいしつこいけど、今日はこんな雪が積もってるからな。どうだろう。来るとしたら、もうすぐかな?」
店の奥からピザの焼ける香ばしいチーズの匂いが漂ってくる。思えば、朝からほぼ何も食べずに警察署で取り調べを受けていた。腹の虫は鼻腔から吸い込んだ芳醇な香りに刺激され、腹の中で暴れ回っていた。
ぐ〜、とどちらともなく盛大な音を響かせ、お互いに恥ずかしそうに顔を見合わせた。
「春奈、ピザ食いたくない?」
「めっちゃ食う!」
「今日は、こんな足元のせいでデリバリーの注文ばっかりなんだ。だから店はほぼ貸切状態。ようこそ、ゆっくりしてって」
店主は、嬉しそうに二人を交互に見てにこやかに言った。
「ねえ、これって最後の晩餐ってやつ?」「勝手に殺さないでよね。私は猫に戻るの、ピザが最後とは限らないわ」「そうだ、餌はキャットフードでいいのかな?あと名前は春奈のままがいいんだけれどどうかな?そうだ、先ずはペットを飼っていいマンションにでも引っ越さないとな」「なんで私、あんたに飼われる前提になってるわけ?」
こうして話ができるのもあと何分、何時間、あるいは何十秒だろうか。タイムリミットが迫っていると思うと、無力な自分の非力さと虚しさに、ピザが湿っぽく、しょっぱくなりそうだったので、久志は少しでも明るい未来を思い描いて春奈に提案した。
しかし春奈は久志とは対照的に、どこか清々しい笑顔で、子供の描く無邪気な夢物語を微笑みながら聞く母親のように、決して表情に陰を作る事なく聞いていた。
「おーい、お客さん。彼らの姿が見えたよ」
店主は窓を指さしている。見ると窓にあの時のぶち猫が顔をひょこりと覗かせていた。常に眉間に皺がよったように見える不機嫌な顔が懐かしい。間違いなくあの時のあいつだ。
「あの!少し…」春奈は、そう言って店主を呼びつけ、何やら耳打ちをした。
「ああ、いいとも」
主人は一瞬戸惑ったようだったが、すぐに面白そうな悪戯を思いついたような笑顔を見せて言うと、厨房に消えた。彼らに与えるはずだった餌の入った皿を持ってくる。そのまま、窓の方へ行かずに代わりに店のエントランスの扉を開けた。同時に春奈は出入り口付近のテーブルに身を隠した。
「ほうら、寒かっただろう。今日は客がいないから、もしよかったらこのあったかい店内で飯を食ってってくれ」
芝居がかったように言う店主に促されて、ぶち猫は不機嫌そうな顔のまま尻尾を嬉しそうに振って店内に入ってきた。その後ろには、あの時の三毛猫の子分猫もいた。
そして店主が皿を二匹の前に置くと彼らはパクパクと勢いよく食べ始めた。春奈はというと、その後ろで気配を消しながら久志にシーと言うように人差し指を口元に当てていた。
彼らが餌を食べ終わって、ぺろぺろと毛繕いを始めると、春奈は彼らに忍び寄った。春奈に全く気づかない二匹だったが、ぶち猫の方が先に気づき、何かを無表情で三毛猫と春奈を交互に見る。春奈が指を口に当て、しーと息を漏らすと、気づいた三毛猫はびくりと肩を震わせて春奈に振り向いた。
「早希ちゃん」
その声にびくりと肩を震わせた三毛猫は、春奈に威嚇のポーズをとった。尻尾をピンと張り、毛を逆立たせると牙を剥き出した口から鋭い息を吐く。しかし春奈はそれに押される事なく、顔に笑みを浮かべたまま三毛猫に歩み寄った。ぶち猫は興味を失ったのか、一人と一匹の前をゆったりと通って、空いていた席に飛び乗ると足を折り、丸くなった。
春奈が威嚇する三毛猫に手を差し伸べると、猫は春奈の手を引っ掻いた。
「いた!…コラ、自分の身体でしょ。お願いだから大事にして、ね?」
言ってみたものの三毛猫は警戒を解かない。
「もうすぐ私たちは元に戻る。それはきっと覆らない事実だから、もうこれ以上抵抗するのはやめて。お願い」
三毛猫はついに低い声をあげてうなり始める。無理もないが、真剣に猫に語り続ける春奈と猫を、店主は明らかに困惑した顔で交互に見る。それから、肩をすくめながら事情を説明してくれ、と促すように久志に視線で訴えてくる。久志は店主の側により「悪いけれど、今はそっとしておいてあげてくれ」と真剣に言った。
「はー、まあいいわ。じゃあこう言えば、少しは大人しくなってくれる?あなたをずっと苦しめていたあの最低な父親だけど、警察に突き出してやったわよ。あの男から親権を剥奪させる協議も、この事件で得た権利を行使して随時行って行く計画があるの」
そう春奈が言った瞬間、まるでその言葉を理解したかのように、猫は、はっと息を飲むように顎を引き、逆立てた毛がふわりと落ち着き、張ったしっぽがダルんと下がる。吊り上がった目はキョトンとしたように丸くなっていた。
「こりゃあたまげた…言葉がわかるのか」
店主の感嘆とした声が静まり返った店に響く。
「本当よ。ね、久志」
「ああ、そうだ。春奈の顔と俺の顔を見ろ。これは昨夜奴と戦った証だ。ボッコボコにしてやったんだぞ。でも、激戦を制した俺たちは正当防衛が認められて俺は無罪放免。あの男は捕まって今頃拘置所だ。助けになってくれる、いい警察官がいるんだ。親権の事は今後俺も協力していく」
急に水を向けられ、久志はしどろもどろに答えた。すると猫は春奈に音もなく歩み寄って、先ほど引っ掻いた指を舐めた。
「本当に、長い間苦しかったわね。よく耐えたわ…」
春奈は声を震わせながら、猫の頭を撫でる。透き通るようなガラス玉のような猫の瞳が、撫でられながら春奈を見つめていた。
「あなたになって、あなたを知ることが出来て私はよかったわ。後悔なんてしてないよ。だって、あなたの笑顔が見たくてここまで頑張れたから。だからお願い、元に戻っても、ちゃんと生きて」
春奈が顔を寄せて言うと、猫は、少し濡れた春奈の頬をぺろっと、慈しむように舐めた。春奈は猫を抱きしめる。想いが通じたのだろう。二人は頬を寄せ合って抱き合った。気持ちよさそうに目を細めて春奈の胸に抱かれる猫を、春奈は天使のような微笑みを浮かべながら抱きしめていた。
「それと、少し頼りないけど使い勝手はいいあなたを守ってくれる人を紹介するわ」
春奈が手で久志を示すと、三毛猫は完全に言葉がわかっているように久志の方を向いた。
「彼の名前は新木久志。34歳のおっさんだけれど、あなたの為なら肋骨にヒビが入るほど頑張ってくれるから。文字通り、あなたのためなら骨を折ってくれるわよ」
先ほどからかなり不本意な紹介をされ続けて、痛みに耐え続けていた肋骨がさらに痛くなったように感じた。
久志はじっとこちらを見つめる猫の瞳に僅かに緊張しながら、軽く手をあげて応えた。
「あ、そうだ」
春奈は、何かを思い出したように三毛猫を抱いたまま立ち上がった。そしてそのまま、客席の椅子の上で丸くなっていたぶち猫の方へ歩よると、気配に気づいたぶち猫は春奈を見上げた。
「あなたがこの子の面倒を見てくれたのね?そう。アナタはこの子の先輩であって、私の先輩。でしょ?」
ぶち猫は何度か耳をぴくんぴくんと震わせてから大きなあくびをした。そして、退屈そうに細められた目で春奈を見ていた。
「お礼に、ツナ缶でもご馳走したいと思うのだけれどどう?」
春奈がそういうと、まるで言葉が分かったようにぶち猫は徐に立ち上がって尻尾をぶんぶんと振った。どしんと構えた大柄で無愛想な表情とは裏腹な、俊敏に動く尻尾がなかなか可愛い。
「それとも、定番のいつもの魚肉ソーセージがいい?」
妙だと、久志は思った。
このぶち猫は魚肉ソーセージをこの店にせびりにくるのだと、春奈に言っただろうか。
「店主さん。メニューのツナサラダを追加注文でお願いします。ツナ抜きで、ツナはこの子にあげてください」
言われた店主は、まるで映画の大団円を見ているかのように少し興奮した様子で頷くと、厨房に駆けて言った。
それから、サラダとツナが別に乗った皿を両手に持った店主は、客席にそれぞれを置くと、ぶち猫はテーブルの上に置かれたツナをガツガツ勢いよく食べ始めた。
ぶち猫は皿に盛ったツナ缶を平らげると、口の周りの髭に付いていた繊維まで綺麗に舐めとり、満足そうに毛繕いをしていた。
久志は少し味気ないサラダを食べていて、店主はデリバリー用のピザの注文が一気に押し寄せたことにより、ピザ釜の前で汗を流していた。
宅配はどうしているのかと不安になったが、それらは出前館やウーバーイーツと言ったフードデリバリーのおかげで心配ないのだという。
「ところで、私達って本当に元に戻るのかな?」
春奈が猫を抱きながら首を傾けると、猫も同じように小首を傾げる。なんとも可愛い光景だった。春奈も同じ事を思ったのか「ふひひ」と声を漏らして、フレンチキスをするように猫の鼻に自らの鼻をくっつけた。
その時だった。
「え?…あれ?私…」
彼女は目を見開き急に表情を変えて猫を持ったまま、固まっている。猫は「ミャオーン」と鳴いて、彼女の手から離れると久志の方へ寄ってきた。まるで、彼女をフォローしろとばかりに訴えてくるアイコンタクにピンときた。
それは、あまりに唐突で呆気のない出来事だった。久志は思わず持っていたフォークを落としてしまった。
「私、元に…戻った?」
「梶原早希…?」
久志が訊くと彼女は恐る恐る首肯する。
目の前の彼女は紛れもなく梶原早希だった。店内を沈黙が充す。
「あのー、お客さん。今度は何事で?」
静寂を破ったのは、サービス用の食後のコーヒーを持ってきた、店主の声だった。
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