第50話
意気込んだのも束の間、私の二度目の人間としての人生もまた、壮絶な波乱の幕開けだった。梶原早希の両親は彼女が6歳の時に離婚している。父に引き取られた彼女だったが父親は彼女が9歳になる歳に我が子を捨て失踪。
父方には早希にとっての祖母がいたが、彼女もまた認知症を患い介護施設に入所していたため、引き取り手がいなかった。そんな時、彼女の叔父にあたる人物が彼女の引き取り手として名乗りをあげた。
3回の離婚歴と前科があり、独り身だった叔父は親権を得る権利など無い筈だったが、有り余る財力によるイリーガルな操作で事実を捻じ曲げ、戸籍上の彼女の父親になってしまった。そして、彼女の地獄のような日々が始まった。
梶原早希は幼少の頃から父親による束縛と歪んだ愛情を押し付けられ、歪な欲望の吐け口として虐待される凄惨の日々を過ごした。いつしか、幼く純粋無垢だった彼女の心は殺され、瞳は人としての色を失った。そして、命令されるがままに動くだけの父親の玩弄人形になり果ててしまった。
それら全ては、彼女が毎日のように味わう屈辱と陵辱の雨の中で流し続けた、血と涙が染み込んだ数十冊に及ぶ日記に、憎悪と共に描き殴られていた。
彼女がこの苦難の末、選んだ道が、あの日の自殺なのだと思い至った。事実、あの日の前日の彼女の日記には遺書とも言える、残酷な世界に対する憎しみが綴られ、痛切な人生との訣別が記されていた。
正直、梶原早希になってからというもの、こんな苦痛を味わうのなら、猫に生まれ変わる事もなく、いや、何者にも生まれ変わらず死んで何も無い闇の中を百万年と彷徨い続けた方がマシだと思えるほど、凄惨な目に遭わされた。
そんな、辛酸をなめる日々で、私はもう一つ、ある決心をした。猫になることを望んだ彼女は、ただ梶原早希であることから逃げたかったのかもしれない。今の人生である以上、享受出来ない幸を、せめて猫になることで求めたのではないか。
二週間後に、再び彼女がこの最悪な家に戻ってしまうのなら、せめてこの身体を借りたお礼に、少しでも彼女が生きやすいように私の力で変えてあげたいと思った。猫の私を見た時の梶原早希の笑顔が忘れられない。余計なお世話かもしれない。放って置けないのは、儚げに笑う、女子高生の彼女を昔の私に重ねたからかもしれなかった。
学校で梶原早希が普段どんな生活を送っているのか、猫の身体で覗いた瞬間に私は直感的に理解した。
私の場合は、かつて幼馴染で仲も良かった、宮地の反感を買った小学生の頃から彼女の執拗な嫌がらせに耐える内、彼女に流され、群れながら心の無い言動を繰り返す周囲の傲慢で軟弱な人間の性に辟易し、誰とも心を通わせる気を失って、一人になる事を選んだ結果が孤独という道だった。
けれど、彼女の場合は違う。自身に降りかかる、クズな父親という厄災が彼女の人生そのものを奪い、女として生きる意味も希望も覆っていた。彼女が生きていることが不思議なくらい、彼女はあのクズの父親の傀儡に成り果てていた。
彼女を変えるなら父親の対処だけでは足りない。彼女が少しでも楽しく過ごせるように、残りの高校生活で青春と呼べる思い出を与えてあげるのも私の役目のはずだと思った。
だから私は、学校では彼女のこれまでの性格も何もかも無視して、周囲に積極的に話しかけて明るく振る舞った。
最初のうちは、雰囲気変わったね、頭でも打ったの?などと周囲を戸惑わせたが、梶原早希の明るい未来を強く願いながら、恥ずかしいほど明朗で陽気なキャラクターを自身の中で作り込んで演じ続けた。
すると「早希ちゃんマジ可愛いから仲良くしたいってずっと思ってたんだ!」と、まんざらでも無く、こちらとて嬉しい反応もあって、私は一人で舞い上がったりもした。
しかし、家以外でも私は、あの男に日々監視され、男の気まぐれに下される屈辱に耐えながら、私は常にあの男を警察に突き出す計画を練り続けた。
金銭の使い道を監視するために私の財布には常に男のクレジットカードと現金が折り目正しく揃えられていた。
現金を使った場合、レシートを取っておく決まりがあり、使った場合はカフェやコンビニの買い物でも、その使用目的を問われ、GPSの記録と照合しながら、男の確認が入った。
友達など居ない梶原早希だったからこそ、久志と出会った時の友達と割り勘にした喫茶店代などは、下校帰りに喉が渇いたからカフェに寄ってお茶をしたと、一人で行った事が当然のように、人形のような無感情な表情で演技をし、男を必死で誤魔化した。
男の犯行の証拠を採取するための小型カメラを購入する際は、下校途中にある家電量販店に取り寄せてもらい、購入して消費した現金は、わざと財布を落とす事で誤魔化した。家電量販店に行っていたGPS記録は、量販店の軒先に並べられたテレビが映し出していた番組に見とれていただけだと嘘をついた。
久志とのデートに先んじて洋服を同じ方法で買った。消費した現金を誤魔化すために工作した小細工は男にバレてしまったが、無理もないと思った。彼は、凶悪な怪物ではあったが、同じ手が何度も通用するほど馬鹿ではなかった。
男が下す陵辱の雨の前で、本物の梶原早希は、完全に精巧な玩弄人形だった。それに対し、私は悍ましい屈辱を耐えるための演技を、男の前で演じきれていなかったのだろう。
男は、私を疑い始めていた。
ごめんね、早希ちゃん。私はあなたを完璧に演じきれずに男にあらぬ疑いをかけてしまい、男の逆鱗に触れてしまった。
危うく殺されかけたよ。
でも、今、ちゃんと証拠を採取できたから、今度こそ、私が、私達が勝利する番だから。
私は、私と梶原早希の間に、男を追放できなかったもしもの事を考えて、いくつか保険をかけた。
彼女が日々の苦しみを綴り続けた日記に、証拠映像の事を記した。さらに、今度こそ彼女の見方になってくれるであろう、彼女に無我夢中で盲目な、少し心許ないけれど、まあ、深夜ストーカーに遭っている!って電話すれば飛んできてくれる程度には頼りになる護衛を見つけてきたことを記した。
彼は、今後あなたの本当の魅力を世間にアウトプットし、インフルエンサーになり得る写真の力を携えている。なんせ、日本一の広告写真家のお墨付きだ、とも。
そんな風に、彼に小さな復讐をするついでに、彼を利用することを選んだこのわずかな時間の使い道は、間違いじゃなかったと、もうすぐ猫に戻る私は、ほとんど後悔をしていない。
あるとすれば、クリスマスイブに久志と最後にデートできなかった事くらいかな。
けれど、それは早希ちゃんに伝える必要もないから、そっと心内に秘めた。
そして私は、彼女の日記に、最後にこう記した。
早希ちゃん。余計なお世話だったかな?
でもね、私はあなたが死のうとした直前に、猫の私を見つけた時の笑顔が忘られないの。あなたは、笑うとすっごく可愛いんだよ。
だからね、久志(あなたの護衛)にはたくさんあなたの写真を撮らせた。
こんな世界で、こんな酷い世界で笑った貴方は、立派なこの世界の住人だった。ありのままでいい。誰もが認めるような、輝かしい存在感を放っていなくてもいいわ。
ただ、あなたが生きてさえいれば、そこにいてくれさえすればいい。
インスタグラムのURLを記しておくから、今度覗いてみてね。
あなたが嫌った世界で、あなたを見つけ出した沢山の人がいる。あなたの笑顔を見たみんなは、あなたの写真を見て、口を揃えて、きっとこう言うでしょう。
いいねって。綺麗だねって。可愛いねって。
だから、生き続けて欲しい。そして、猫に戻った私と出会えたら、その時はそうだな、猫に代わってあげたお礼に、チャオチュールでもくれないかしら?
それじゃあ、またどこかで会えたら会いましょう。
PSまあ、あなたが彼をどう思うかは別として、少なくとも彼は、利用しまくっていい人だから、利用するだけ利用して役に立たなくなったら捨ててくれてもいいわ。
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