第49話
その夜、もうすぐ満月になりそうな月明りの下で、私は身に起った事態の整理に明け暮れていた、というより未だに状況が飲み込めずに狼狽していただけなのだけれど。
いくら考えても私が猫に転生してしまった原因がわからないし、猫になったところでこの先、どう生きていけばいいのかわからない。
そんな時だった、私の頭に語りかけてくる声が聞こえた。
「願いは叶ったか哀れな人間よ。その身体はただの猫にあらず。彼岸の猫に生まれ変わったお前に、特殊な能力を授けよう」
「誰?」
起き上がり叫ぶが、声は可愛いニャーニャーと言う鳴き声にしかならない。
「ん?まあ、神。とだけ言っておけばこの雰囲気で説得力があるじゃろ?」
「神、さま?…」
「ズバリその能力とは、そのめちゃめちゃキュートな見た目でどんな人間も見つめただけでメロメロにしちゃう悩殺上目遣い。どうだ、いいだろう?」
「……」
私は大きな瞳で瞬きを一つして、耳をピクリと動かしただけだった。
「せ、せめて突っ込んでくれないとなんだかとっても虚しいんじゃが!」
「すみません、今ちょっと色々驚いていて…」
私は声にするのではなく、心の声で念じるようにしてみた。
「な、なんだ。盛大に滑ったかと思ったぞ」
「は、はあ…」
どうやら念じることで、この頭に直接響くような声と話すことができるらしい。
「まあよい。お前に授ける能力は再び人間に戻れる能力じゃ。再び戻りたければお前のその愛らしい瞳で誰かを見つめるがいい。するとその愛くるしさにキューンとなった人間は必ずお前の目を見つめ返してくるだろう」
「なんですって?私、もう一度人間に戻れるの?」
私は立ち上がり、前足で空を掻くように動かした。まるで、餌を全力でおねだりする猫みたいだった。猫だけど。
「おーよしよし、チャオチュールあげようねぇ。はっはっは可愛いもんだのう」
「何故か、そのワードを聞くと唾液が湧いてくるんですが!」
「にゃっはっはっは、そりゃあ猫ならみんなそうじゃ。ちなみにわしゃあツナ缶に目がないぞ」
「…?あなたも猫なんですか?猫の神様か何か?」
「おっと、涎で口が滑ったわい。まあ、話を本題に戻そう。そして、相手から猫になりたい。そう言葉を引き出せ。するとお前は人間に自らの声を届ける事ができる。その後は、これが一番肝心なのだが、鼻をチョンとしてもらうがいい。その瞬間、魂をその人間と交換する事ができるじゃろう」
「にゃにゃにゃんと!…って、ん~、急に言われても信じられないかも。まだ猫になった状況も飲み込めてないのに。てか、貴方は何もんよ?どこにいるの?まず姿を現しなさい」
私は、威嚇する体勢で周囲を伺う。しかし、あたりには誰もいない。河川敷の橋の下ではホームレスの段ボールが並んでいるだけだ。
「まあまあ落ち着け、話はまだ終わってない。ただしその能力の効果は大体2週間くらいしか保たん。まあ、13日以上は必ず保っているようだから、何かやりたいことがあるなら13日間を基準にすればいい。一日中食っちゃ寝の自由奔放な猫だが、餌の時間はきっちり身体が覚えている猫らしく、2週間をちゃんと使うんじゃぞ。例えばツナ缶をガッツリ買い貯めしておくとかな。そして訳2週間が経過すれば魂は再び元に戻る」
「いや、二週間くらいってアバウトすぎでしょ!お互い近くにいなかったら、状況によっては何が何だかわからないじゃない!」
「にゃっはっはっは。まあ、猫だけに、気まぐれってことじゃの」
「何それ、笑えないし」
「良いか、この能力を与えるのは一度きりじゃ。その後は素晴らしい猫生を謳歌すればいい。猫は良いぞ~。ツナ缶がまあ美味い。最近は魚肉ソーセージにもハマっているんじゃ」
「いや、あんた、ただの猫ね。やっぱ神でもなんでもないわ」
「にゃっはっは。まあ何とでも言えばいい。哀れな人間よ、哀れすぎたその人生に免じて其方に摩訶不思議な第二の生を授けようぞ」
「なんですって!確かに私は満足な人生を送れずに死んだのかもしれない。だからって幸せじゃなかったわけじゃないんだから!いい友達に囲まれて楽しい思い出をたくさん作れたし、いい家族にも恵まれて、最後まで幸せを感じたまま死ねたんだからなんの悔いもないわ!それを哀れ呼ばわりするなんて絶対に許さない!あなたが神様か何かなら言いたいことがあるわ!よくも私を病気になんてしてくれたわね!」
しかし、例の声はもう聞こえなくなった。しばらく叫び続けていると、疲労のせいかすぐに眠気がやってきた。柔軟で軽い身体なのだが、すぐに瞼が重くなってしまう少し厄介な身体だった。
目が覚めてから、私はこの小さな身体で冒険をした。猫は、やはりこの見た目でさまざまな徳をしていた。コンビニやスーパーの買い物帰りの誰かの後ろをついて歩き、ミャーオと、猫撫で声をあげると大抵の人は振り向いて、表情を緩めると舌を鳴らして私を呼んでくれた。
そして頭や喉元や身体を撫でさせた後に、お腹を見せてやると、破顔して根負けしたと言うように手元の袋を漁り、適当な食べ物を与えてくれるのだ。
東京にいて、猫に生まれ変わって特にやりたい事もなかった私は、ある人物に会えたらいい。そう漠然と願いながら毎日を悠々と生きていた。別に会えても会えなくてもいい。もし会えたらそうだな。いつものやり口で餌をねだった後、心優しく食べ物を恵んでくれたら顔でも引っ掻いて立ち去ってやろうか。なんて事を考えながら、そんなチャンスをなんとなく持っていた。
そんな矢先のことだった。
私は、早朝の駅のホームに立ち入った。人気のない待ち合わせ電車の中に目をやると、朝日を浴びながら居眠りをする女子高生の姿がふと目に止まった。そんな無防備な彼女にスマホを向けて盗撮をしようとしている男を見かけたのである。
無駄に正義感のある私は、猫の姿にもかかわらずその盗撮犯に近づこうとしたその時。
パシャリ。乾いた電子音が彼女と彼以外、誰もいない車内に響いた。
遅かった。周囲に誰もいないことをいい事に、少女は薄汚い男の歪んだ性欲に搾取されてしまった。
男は、自ら発したカメラのシャッター音に驚いたのか、あたふたと周囲を警戒している。そして私の存在に気づいた。その間抜けな顔に、私は見覚えがあった。瞠目しながら情けなくハの字に曲った眉の下、オロオロと瞳を泳がせて、額に汗を浮かべながら周囲を警戒している。そして、猫の私と目が合うと、こっちが驚くほど盛大に肩をビクリと震わすと、猫相手の私にスマホを隠すような素振りを見せた。
呆れた。呆れ果てて言葉も出ない。まあ猫だから当然なのだけれど。
彼は紛れもない新木久志だった。
まあ、なんというか。スーツ姿がよく似合っている、どこにでもいる平凡なサラリーマン。ただ残念な事に彼は、人の道を踏み外し社会不適合者に零落していた。
他にも視線を感じて、目を向けると駅員と目が合い、仕方なく私は一旦遁走した。
それから私は、あの声の事を思い出していた。確か「人間に戻れるのは二週間くらいで、チャンスは一度きり。人間に戻るには…」
まことしやかに思えてならない胡散臭い話ではあるが、あの時の、ツナ缶大好き笑いのセンスゼロの、猫の神様か何かの声とそんな会話をしたのは事実だ。
私はそこである計画を立てた。
そして、すぐに実行に移した。幸いにも久志と少女がいる電車は車掌室のある一番後ろの車両だ。
私は再びホームに戻るとまだ車掌のいない車掌室に忍び込み、身体を入れられそうな隙間に身体を潜めた。
やがて電車が発進する。電車が駅で停車するたび、車掌は乗客の乗降を確認していた。その隙に私は車内の久志と少女の様子を確認する。それを繰り返し、少女は、とある駅で降車していった。
私も車掌の足元をすり抜けて下車し、彼女を追いかけた。
それから彼女は学校に行ったのだけれど、私は彼女の姿に驚いた。そこには昔の私がいた。友達がいる様子も無く、クラスの隅でいつまでもひとりぼっちで浮いていた。無表情で無愛想な彼女に寄り付く生徒は一人もいなく、彼女はつまらなそうに頬杖をついてスマホをいじっていた。
やげて学校が終わると、再び彼女を尾行した。彼女の猫背は、どこか暗い気配を背負っていて、感情のない人形のような鬱蒼とした無表情は崩れることがなかった。
帰り道にしてはやけに寄り道が多く、同じ場所を行ったり来たりしていた。次第に夜の帳がおりると、幽玄な三日月が空に低く浮かび、紺色の空には淡い星々の瞬きが散りばめられていた。大きな河にかかる橋には帰りを急ぐ都会の車で溢れてる。
風が強い。少しでも身体の力を抜いたら、不意に私の身体が飛ばされそうだった。彼女は橋の中ほどで足を止め欄干に手をかけ、眼下の暗い水辺を見つめた。その横顔を見て、私は確信した。彼女は自殺をしようとしている。
そして、彼女は欄干に足をかけると、曖昧なバランス感覚で強風の吹き荒ぶ空中を、平均台を渡る体育の授業みたいに悠然とこなしている。まるで一歩でも踏み外せば死に直面するデスゲームだ。
あの猫の神様?の声が脳内でこだまする。
本当かどうかなんて、わからない。しかし、私の計画はその冗談のようなおまじないと、彼女にかかっている。彼女がバランスを崩したその時、彼女は地面に降り立った。私は駆け出した。
「ミャーオ」
彼女がこちらを振り向いた。そして彼女は笑ってくれた。今日初めて見る彼女の笑顔はとても可愛かった。
そして、その後は、あの猫の神様?の言う通りになった。
私は、目の前の彼女と会話をすることができた。しかし、橋の上ではやはり突風が吹き荒れて彼女の制服のスカートもめくり上がったり、何やらこちらの様子を伺う、煩わしい見もの客も現れたりと悪目立ちしていたので、河川敷の下まで運んで欲しいと彼女に提案した。
河の水面が近い草原で、私はあの冗談のような馬鹿げた儀式を彼女に指示し、取り行ってみることにした。猫と人間と心の念波のような声で会話ができる状態のまま、小さな猫の鼻を突き出し、それを彼女に人差し指で突いてもらったのだ。
すると、本当に私は女子高生の身体に魂が移ることに成功した。
久しぶりの人間の身体の感触に感激した。気持ちが舞い上がり彼女のキャラにはそぐわないはしゃぎ方をしてしまった。目の前の猫が私をじっと見つめている。その静かな眼差しに私は気まずさを覚えた。
神様?の言う通りなら、彼女の魂はこの子の中にいるはずだ。既に念波のような会話ができなくなっていた。
私は彼女の手がかりになるものは無いかと胸ポケットを探った。すると生徒手帳が出て来て、私は梶原早希という名前が発覚した。名前の他には住所も記載してある。
「あなたは、梶原早希?」
私が聞くと、猫はコクっと首肯する。すごい。ここまで来ると、あの神様?の言っていたことの信憑性がようやく出てきたと言える。
私はしゃがみ込み、猫の、梶原早希の黒い月のような丸い瞳を覗いて言った。
「ごめん。いい忘れたけれど、この身体が入れ替われるのってどうやら二週間くらいだけらしいの。理由はよくわからないし、曖昧な期間なんだけれど」
私は苦笑いを浮かべて彼女に説明すると、彼女は言葉が分かっているのか分かっていないのか、感情の読めない瞳をこちらに向け続けていた。
「とにかく、その後、あなたは再びこの身体に戻るわ。その、あなたが自殺をしようとしていた理由は分からないけれど…」
猫はブンブンと首を横に振った。嫌なのだろう。「猫になりたい」冗談のような彼女のその台詞は、いつか私も呟いた事がある。私のそれは、何もかも上手くいかない世界に皮肉を込めた程度だったけれど、彼女のそれは、私より遥に切実だったように思う。無理もない、自殺をするほど思い詰めていた理由がこの子にはあるのだ。
「だからお願い。どんなふうに私達の身体が入れ替わって戻るのかは私もわからないけれど、今から13日後、この時間にこの場所に集合しましょ?その時に、猫の私でもよければ、それほど思い詰めていた理由を私に教えて。ね?」
猫は私を睨みつけるような目つきをし、一歩後ずさった。手を伸ばすと猫はシャーと威嚇し、高速猫パンチを繰り出す。思わず腕を引いた拍子に、彼女は夜の闇に紛れて消えていった。
宵闇に静寂が落ちる中、ポケットに入っていたスマホを見ると18時55分だった。どうやら顔認証でロックが外れるらしい。
彼女は私の話をちゃんと信じてくれるだろうか。あの神様?は、人間でいられるのは2週間くらいだが、13日は確実に人間でいられると言っていた。気まぐれだ、などとひどく曖昧に言い退けていた事も含めると今日を含めて日数を数えた方が良さそうだ。すると、今日が月曜なので来週の土曜日には、計画を達成していなければならない。
彼女の事はもちろん心配だった。けれど、彼女が自殺をしたかった理由は、私が彼女の人生を今から、たった二週間ほどだけれど、過ごせば自ずと見えてくるのだろうと思った。
二週間後、どんな風に私と梶原早希の魂が入れ替わるのか分からない。けれど、すれ違ったら、きっと私が彼女を見つけ出して、猫の手を借りさせてでも、自殺しようと思った暗い理由に寄り添ってあげようと思った。
そして、梶原早希に期間限定で生まれ変わった私は歩き出した。私の人生で唯一残った後悔。
弱虫で意気地なしで卑怯で、でも一番愛しいアイツに。
アイツが私と別れる最後に欲しがっていた、ある一言を告げに行くために。
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