第48話
面白いことに、怒りとは人間の潜在能力を引き出してくれるのかもしれない。
あるいは、怒りで狂ったある神経が麻痺し、自由を欲する強い意思が、その行動力を叶えてくれる麻薬になるのかもしれない。
いずれにせよ、後者なら副作用のようなものが少し怖い気もした。でも、もし仮にそうだとしたら、今こそこの残り少ない命を燃やし尽くすチャンスなのかもしれない。
病室での騒動のすぐ後、私は「一生のお願い!」と、本気で一生を懸けた一度きりのわがままを母親にして、医師の許可を経て久しぶりに外出をした。
なんと広瀬が手配したプライベートヘリで東京に送迎してもらえることになり、行き先は今や広告界の一翼を担うカメラマンになった広瀬が経営し、数多くの芸能人を撮影してきた都内の撮影スタジオだった。
衣装とメイクのプロに本格的な技術を施してもらい、鏡に映った仕上がった自分に感動した。サラサラの髪、肌艶のいい丸みのある頬。ぱっちりとした目。健康だった頃の私がそこにいた。
スタジオに入り、私の姿を見た広瀬は嘆息を漏らし、顎に手を当てながら私を頭から爪先まで見ていた。
「やっぱり君は綺麗だな。多分、僕は久志くんを越えられないけれど…」
そう言った広瀬に、私のスイッチが入った。人差し指を広瀬が構えるカメラに突きつけた。
「あんな奴より、絶対にいい写真を撮ってね、いい!?」
フラッシュがたかれる。私は力強く笑った。新木久志と過ごした幸せな時間を思い出して、泣きそうになって、最低で最悪な別れをして悔しくて辛い記憶を思い出して、また力強く笑って。どんな顔をしていいのかよくわからないまま、撮影をつづけた。
その内、広瀬が撮影を中断して私に話しかけた。
「ねえ、春奈ちゃん。病室で、久志くんの写真を見せたでしょ?彼の顔が写っていなかったの、気づいた?」
「うん。あの、なんとも言えない惨めな後ろ姿の奴ね」
「あの時、久志くんどんな顔してたと思う?」
広瀬は、悪戯を思いついた子供のように愉快そうに笑っていた。
「うーん、暗い顔して呆然としてたとか」
広瀬は、あの頃を思い出すように目を瞑り、首を左右に振った。
「ボロッボロのぐっちゃぐちゃな顔になって、泣いてたの。顔は映さないでくれって懇願された」
「…っぷ!あはははははは」
私は、心の底からおかしくて腹を抱えて笑った。笑った瞬間、フラッシュが何度かたかれた。
「久志くんの泣き顔の写真があったら真っ先に春奈ちゃんにプレゼントしてたんだけれどなぁ。盗撮でもしておけば良かったよ」
私は目尻に浮いた涙を拭く。このままどこまでも飛んでいけそうなほど、胸が軽くなる。心の底で凍結していた重い枷になっていた何かが溶けて、暖かい何かがじんわりと胸の中で広がっていく。私はまた目尻の涙を拭う。
「…ふひひ。本当、バカ」
いつか、彼の目に触れるかもしれない。いつか、写真の向こう側にいるかもしれない彼に向けて、私は笑った。フラッシュが、またたかれる。
途中、気持ち悪くなって吐いたりしたけれど、撮影を続けた。無理もない。数年ぶりに胃に固形物を流し込んだのだから、胃がびっくりして当然だった。
そして、撮影が終わり病院に帰ると、今までに感じたことのない疲労が全身を襲い、すぐに眠りに落ちた。
翌日は、昨日の反動か、全身が筋肉痛になり、さらに抗がん剤の副作用も身体に酷く現れた。その余の辛さに、昨日は相当無理をしてしまったのだとわかったが後悔は無かった。
身体中の痛みと常に胸を圧迫する吐き気に喘ぎながら、昨日の久しぶりの自由な開放感と楽しさを思い出しては、痛みに耐え続けた。
まるで、あの日が奇跡だったかのように、あれ以降、あの日のような元気が出ることはなかった。
病室の見慣れた天井。再び訪れる静寂。やがて、その静寂も、心電図を測るベッドサイドモニターの定期的な電子音が破り、呼吸器をつけた私の深い呼吸音が満たすようになった。見慣れた天井も、時々霞むようになった。
私の体調が優れたある日。母は外に出たいと言ったわがままを聞き入れてくれた。母が引く車椅子に乗って私は、久しぶりの陽光を浴びていた。
秋が過ぎ去った初冬。よく晴れた青い空に黄色い銀杏の紅葉がよく映えて外の世界は眩しいほど色鮮やかだった。遠くから子供達のはしゃぐ声がこだまする。病院の敷地沿いの歩道を、高校生らしい制服の男女が楽しそうに会話を弾ませながら歩いていた。私はそれを遠い目をして見送る。
病院の中庭に出て、暖かそうな陽だまりができた木製のベンチに座りたいと言って、私はそこへ腰をおろさせてもらった。
「少し、一人にさせて」
私が言うと、母は具合が悪くなったらすぐに言ってと私に携帯電話を渡してきた。
しばらく、何も考えずに、どこまでも高い青空をぼんやり見つめていた。すると、私のすぐ足元に柔らかい何かが触れた。目をやるとそこには一匹の猫がいた。毛並みが良く、流線形のしなやかな身体のラインが綺麗な三毛猫だった。
どこかで見覚えがあるような気がしたけれど、多分気のせいだろう。
「みやーーおー」
と人懐っこい鳴き声を上げながら、身体を擦り寄せてくる。ゴロゴロと喉を鳴らす音も聞こえる。どうやらこの子は私に甘えているのだとわかった。
私が手を伸ばして喉元を触ると気持ち良さそうに目を細めた。
しばらく猫を愛でていると、猫も飽きたのか私から距離をとってちょこんと目の前に座る。そしてそのまま前足で顔を掻きはじめる。
そのひどく気まぐれで、自由で、愛らしい猫の姿を、もう間も無く死にゆく私は、心のそこから羨ましいと思った。私の深刻な眼差しに何かを感じたのか、猫は私を憐れんでいるようにじっと見つめ返して来た。
大きな瞳の双眸は、エメラルドのように深緑の輝きを帯びていて、吸い込まれるようだった。
「私も猫になりたいな」
私のくだらない気まぐれな夢に、猫はつまらなそうにプイッと踵を返してしまった。そして尻尾をピンと立てて小さなお尻を振りながらどこかへ行ってしまった。
その日の夜、病状が急変した。
苦しみをくぐり抜けた先には、白い穏やかな無痛の世界が広がっていた。家族や懐かしい友達が泣きながら、私の背中に向かって、名前を何度も呼びかけてくれて嬉しかった。
けれど、私はもうすぐいかなければならない。だから私は、悲しみに泣く皆を安心させたくて、最後に力を振り絞り、口元に笑みを残した。すぐに全ての音も視界も消えて、何も感じなくなった。そして、私は短い人生の幕を閉じた。
はずだった。
気づいた私の視界は黒と茶色と白の配色のモフモフで覆われていた。手を確かめると可愛いピンク色の肉球がついている。
起き上がると、視線がやけに低かった。視界の端に映った蛇のような動きを繰り返すそれに思わず飛びかかりたい衝動を覚えた。
追いかけても追いかけても同じ毛色の蛇はすんでの所で逃げ遂せていき、気づくと私はぐるぐると同じ場所で回っていた。私は少し歩いてみる事にした。よく晴れた河川敷を歩く感覚はやけにリアルだった。冬の冷たい空気。身体にあたる陽光の気持ちよさ。草の緑の匂いがすぐ近くで鼻を抜け、身体を撫でる風は優しい。
そのうち、感情の起伏でお尻がピクピクと疼く事に気づき後方を確認した。すると、モフモフの蛇が再び現れた。いや、よく見るとお尻から生えている。
私は、その得体の知れないモフモフの蛇に寄生されてしまったのかと驚き、飛び上がるとモフモフの尻尾は毛並みを逆立ててまるでこちらを威嚇するかのようにその太さを増した。
私は身の危険を感じてモフモフの蛇に先制攻撃を仕掛けた。すると爪を剥いたパンチが高速で視界を通り過ぎた。
手を観察すると茶色と白と黒の毛並みの可愛らしい手が二つ。裏返すと先程見たピンクの肉球が現れた。
モフモフの蛇の方を見るとそれも手と同じ色の毛並みをしていた。すると蛇はピクピクと痙攣するように動き、お尻にその振動が伝わった。もしかして、と思いブンブンとお尻を揺らしてみる。驚くほど意志と忠実に連動するお尻に寄生したモフモフの蛇。それが、ようやく自らに生えた尻尾なのだと気づいた。
私は夢を見た後に眠りから覚めると、疲労している事があり、そんな時は夢と現実の感覚が曖昧になっていることがあった。
これは夢?
いやいやいや。私、死んだはずだし。夢を見ることも、その後に起きることもないのに。
私は走った。同時に思い出していた。私はついさっき、確かに友達や家族に看取られながら、長い闘病生活をようやく終われたのだから。
まさかと思い、河川を覗き込む。そこに写ったのはなんとも可愛らしい、三毛猫の姿だった。
驚きながら河川敷を抜けると、そこは人の数と交通量が地元とは桁違いだった。
高いビルが空を覆うように何本も立ち並び、密集した人や車が息苦しそうに忙しなく行き交いながら、テレビで見覚えのある街並を形成していた。あれが通称金のうんこタワーこと…名前は忘れたけれど、そのすぐ近くに見えるのはスカイツリー。やがてしばらく歩き回るうちにこの都市のシンボルの東京タワーが現れる。
いつか、広瀬にプライベートヘリで連れてきてもらった東京、そのものだった。
私は、東京のど真ん中で猫に転生してしまったらしい。人間の話す言葉が分かり、文字も読めた。カレンダーを見ると私の死から1ヶ月が経っていた師走の頃だった。
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