第47話
早期発見が難しいとされる膵臓癌という病は、既に早期発見レベルを超え、不幸にも治療が難しい時期に突入していた。
膵臓癌は他の癌と比べ、周囲の正常組織への浸潤や、離れた臓器への転移が起こりやすく、極めて難治性が高く完治できる可能性はほとんど無いと言う。
その時すでに他の臓器にも僅かに転移が見られていた。私の頭は追いつかないまま、ただ目の前が白くハレーションする視界の隅で、母が泣きながらとにかく具体的な治療方法は何なのかと、白衣の男に縋りついて聞いていたのを覚えている。
それから私のわずか10%の生存確率に賭けた闘病生活が始まった。
膵臓癌に対する抗がん剤の効果はほぼ無いに等しいらしのだが、まずは抗がん剤治療で他の臓器への癌の転移を抑制することから始まった。
髪の毛が抜け、食欲も失せ固形物をすっかり摂らなくなったせいで、僅か2ヶ月で体重が10キロも減った。必要な栄養は点滴から摂取した。半年も経つ頃には全身の筋肉や程よく実った脂肪はすっかりやつれて骨と皮になった。
手術による傷も、身体に大きく刻まれてしまった。ガリガリの青白い身体に、その酷く大きな傷はまるで女である事を否定され、人間の不良品の刻印を刻まれたように私の目には映った。
窓の外に見える景色は、何度か移り変わり、大好きな桜が2回散って、例年に比べて長い雨期がようやく終わった夏の終わりの事だった。その頃には私は眠り続ける事しかできなくなっていた。
暗い景色から目が覚めて、見慣れた病院の天井が目の前に現れる事がほとんどだったけれど、家族が私を覗き込んでいてくれたり、たまにだけど、友達が視界に現れた時は、久しぶりにいい夢を見ているようで嬉しかった。
そしてあの日は、いつも通り病室で一人きり、空虚な一日を過ごすのだろうと当たり前のように思っていた。
いつもと変わらない真っ白な天井と消毒液の匂い。腕を縛りつける点滴が、規則的なリズムで音もなく落ちる静謐で寂寞な空間。無感情に、漠然と全身に漂う眠気に身を委ねて微睡んでいると、不意に白い天井が、見知らぬ男で覆われた。
男はこちらを覗き込んでから、こんな、もの寂しい空間に似つかわしくない微笑みを浮かべた。
白いシャツを着た胸元のボタンを開けたところに、銀のシンプルなリングを通したネックレスが光っていて、清潔感のある上品な人だと思った。夏らしい爽やかなシトラス系の香水の匂いが鼻を掠める。
「誰?」
弱々しい私の声を受けて、男は目を線にした。目尻に寄った皺から彼の優しさが滲むような微笑みだった。
そして名刺を差し出してきたので私はそれを受け取った。全く知らない人だった。なんとかフォトグラフィー株式会社の代表取締役。会社の社長さんがこんな私に何の用だとますます状況がわからなくなった。
「初めまして、広瀬と申します」
そう名乗った彼は、私に会いたかったんだと、高級そうなフルーツの盛り合わせの差し入れを出しながら、やや興奮気味に言った。
それからこちらが名乗る暇も与えずに一方的に喋り出した。
彼は今、東京で人気タレントや芸能人のグラビア写真や雑誌などに掲載される広告写真を専門に撮影する会社を経営しているそうだ。
私が定時制に転校する前の高校の一年先輩だったらしいが、私とは全く接点がなかった。しかし、彼は「実は、僕と君との出会いのきっかけは、ある後輩が導いてくれたんだ」と言ってテレビCMのようにさわやかに人差し指を立てた。
当時、広瀬は写真部の部長をしていて、部員だった一年後輩のある人物の影響を強く受けて、風景写真から一転して人物を撮影することで自分は今の成功を手に入れたのだと語った。
「ほら、文化祭前に長岡花火の大団円、フェニックスを撮影した写真が学校の正面玄関に飾られてただろ?あんな感じで僕は風景しか、それまで撮ってこなかったんだ」
広瀬は目を花火のように輝かせて語るが、私は正直力説されても困った。花火の写真が飾ってあったのは何となく覚えているが、学校の廊下に飾ってある名画のレプリカと同様、特に興味があったわけではなく、ただ学校の生徒の一人が撮った写真が何かの賞を獲ったという校内ニュースが取り沙汰されて盛り上がっているな、程度にしか認識していなかった。
そういえば。写真といば、彼の写真だけは好きだったな。と、そこで本当に久しぶりに当時、恋をした日々の事を思い出した。
偶然、私の前にひらりと舞い落ちた一枚の写真。クラスの端っこで地味な友達グループの中でも地味な彼の、どこかつまらなそうなアンニュイな瞳。寂れた公園で子供のようにはしゃいだ思い出。私が宮地と喧嘩した時の、頼りなく怯えた表情。不意にキスをしてやった時の、驚嘆する彼の間抜けな表情。馬鹿みたいな大声で叫んでいた、嬉しい告白。私の手を引く頼もしかった感触。浜辺でした小さな約束と、甘いキス。私が信じた愛を裏切った、最低で最悪な別れを押し付けた、彼。
思い出した瞬間、私の体調などお構いなしに、のべつ幕なしに話し続ける広瀬の声が聞こえなくなった。
「あの時の僕は既にポートレート写真が撮りたくて堪らなかったんだ。でも当時の僕はスポンサーもついてたから結局文化祭の写真展のテーマ変更は出来なかった。君もあの時、長岡の市長や、新潟出身の国会議員が急に来賓することになって学校中の教員たちがパニクってたの見てたでしょ?」
目の前の、どこかの社長の言葉は、耳を掠めて空いた窓の秋の空に流れていく。
そういえば、彼が文化祭に向けて現像したと言っていた写真はどんな風に出来上がったのだろう。今でも彼は、あの時の私の写真を持っているのだろうか。あの頃の私は、紛れもなく幸せだった。彼の事が好きだった。
でも、あんな形で引き裂かれた私達の間に残る写真に、なんの意味があるというのだろうか。
「文化祭当日だってのに、出展会場を変更することになって、ギャラリーは完成していたのに急遽、中教室から体育館のステージになった。急にバンド開催を校庭に変更させられた、バンド部からは大クレームだったなあ。でも、おかげで他の写真部の写真は、日の目を浴びまくったし、大成功だったんだけれど。はあ、今でも思い出すと悔しいよ、彼があの写真をあそこで披露しなかった事が…」
当時の思い出に耽り、現実が朧げになっていた焦点が、広瀬にだんだんと合ってくる。その声も耳に留まるようになってきた。
「彼、実はその文化祭では出展自体をキャンセルしてしまったんだ。その彼が本来あの場所で飾るはずだった写真。あれを見た時の衝撃は今でも忘れない。あれは僕にとって運命の出会いだった。彼が文化祭前の中教室で一人、その写真を飾っている所で出会ったんだけれどね、それが本当に良くてさ。僕はカルチャーショックを受けたんだ」
「あの…その彼の名前って?」
「うん、新木久志君だよ。彼には会うたびにお礼を伝えてるんだ。それこそしつこいくらいにね。それから君にも伝えに来た。遅れてすまない。僕をこの場所に導いてくれたのは、君と久志くんなんだ」
口にすることも、思い出すことも憚れるその名前。けれど、久しぶりに聞くその名前は、ただベッドの上で死を待っていた伽藍堂な心の中に、一陣の風を吹かせた。
彼との思い出が頭の中で蘇る。長い眠りから覚めたその記憶は、思いのほか、心にそっと寄り添い背中を摩ってくれるかのように優しい。
「彼はとっくの昔に別れた元彼ですよ。すでに関係がありません。そんな相手に意味のわからないお礼を言いに来るなんてどれだけデリカシーがないんですか」
豪華な来賓に備えた付け焼き刃の大ギャラリー。もしも、そこで私と彼で選んだ私の写真が飾られていたら、人生はどんな風になっていたのだろう。想像するだけで、切なくて胸が苦しくなった。
湧き上がった感情に少しでも気を許すと涙がこぼれそうになった。私は強がって言ってみたものの声が震えていた。
「はは、そうだよね。君には少し見てほしい写真があるんだ」
「いいえ、結構です」私は冷たく言い放った。
「いいや。見てもらわなくては困る。僕の恩人には、僕の最高傑作を見て欲しいんだ。彼がその時の展示会に出展するはずだった写真がこれなんだ」
そう言って男が鞄の中から取り出したのは数枚の写真だった。夕日に焼けた教室の中で、額縁に入った私の写真が並べられていた。そこに移っている写真の全てが、まるで昨日のことのように、色鮮やかに、目の前に蘇った。
あの頃の、暗くて愛想がなくて無趣味でつまらない私を、カメラを構えて楽しそうに写真に収める彼の姿が、頭の中でありありと再生される。
その写真に映る私は本当に楽しそうに笑っていた。悔しいほど、当時の私は彼に夢中だったのだ。
「こんなに笑って…馬鹿だなあ私」
「いい写真だろう。僕はこの写真を見て自分の中で音がしたんだ。シャッター音なんかより何倍も刺激的で、最高に気持ちのいい音がね。それから僕はポートレート写真の潜在力と奥深さに魅了され続けている。恩人として僕が仰ぎ見る師匠として定める彼は、自分の才能をあまり自覚をしてくれないんだけれど。彼には、いくら感謝しても感謝しきれない。いつしか僕の思いは留まることなく、この写真のモデルにまで辿り着いてしまう有様だ」
そう言ってから広瀬はベッドを取り巻く医療器具と私を見てから、居直るように姿勢を正し、気まずそうに微笑んだ。
「大変なだったね。僕から、ほんのささやかだが、お見舞い申し上げる」
そう言って広瀬は「御見舞い」と書かれた豪華な金のリボンで巻かれた白い封筒を差し出した。「ご丁寧にどうも…」
私は金一封どころか、金何十封にも成るその厚さに驚きながらも、丁寧に押しいただいた。
それから、私は広瀬が持ってきた何枚かの写真を見ていった。
「この写真は…」一枚の写真を手に撮る。写真の中央にあるその小さな背中を見た瞬間、視界が滲んだ。白いシーツに生暖かい雫が数滴落ちた。
「本当は皆んなに見て欲しかったんだろうね。そして君との関係をひけらかして思いっきり惚気てやるつもりだったんだろう。君たちの間に何があったかは知らないけれど、訳あってそれができなかった。そんな哀愁や寂しさが、その小さくなった背中から伝わってくる、いい写真だろ?それは僕のお気に入りだ」
最後は、あんな酷い言葉で、情けない姿で、私達の関係を宙ぶらりんにさせたくせに。どうしてこんな悲しそうな背中を見せられるのだろう。彼は、私と彼の笑顔が咲き乱れる写真達の真ん中で、膝を抱えてどこか遠くを見るように首を仰いでいる。この時の彼はどんな、顔をしていたのだろうか。私と同じ、泣いていてくれたら嬉しいな。
「実は、彼と一緒に働きたくて、ずっと誘い続けてるんだ。絶対に今の仕事よりいい給料を出すって言っても僕のスタジオに来てくれない。全く、頑固なやつだよ。もうカメラはやりたくないって、話も聞いてくれないんだ」
もしその言葉が本当なら、彼が撮った写真は私が最後なのだろうか。そんなわずかな期待のようなものが一瞬だけ浮かんだけれど、すぐに捩じ伏せた。彼の言葉に一貫性なんてない。どうせ今頃、苦い過去を覆うように、彼の手には他の写真が増えているに違いない。
彼との思い出を回想すると切りがなく、彼の姿や声が具体的に蘇ってくる。それは段々と哀愁というより、熱を帯びた怒りの感情へと変化し、沸々と胸の奥で煮えたぎっていくのを感じた。そしてそれは、いつしか、あの時と同じ温度に煮詰まり、胸の奥から熱烈なマグマのように噴き上がってきた。
不意に、空腹を感じた。広瀬が持ってきたフルーツの中で丸々とした桃が甘い香りを放っているのが気になった。
「彼は今、ちょうど僕と同じ東京にいるんだけど、どこにでもいる普通のサラリーマンをやっているんだ。もったいないと思わないか?せっかく才能があるのに。まあそれほど、君との恋が辛かったのだろうな。彼にはいつでも気が変わったら一緒に仕事をしようって連絡先を渡してあるんだけれど、全く音沙汰なし。さながら僕はこの通り、振られた男からの気まぐれな夜の誘いすら待ち侘びる哀れな女って感じだ」
広瀬はやれやれ、とどこか嬉しそうに肩をすくめる。
「あの、その桃と果物ナイフを摂ってくれますか」
「え?桃?」
脈絡のない言葉に広瀬は戸惑った。
さっきからデリカシーのかけらもなく彼の話ばかりをする広瀬の声が耳障りに思えた。胸の中から湧き上がる怒りは溢れ続け、ひどく落ち着かない。
私は深呼吸を一つすると、点滴を支えにして立ち上がった。そして広瀬から桃を受け取ると果物ナイフで薄皮を裂いてから切り身を一つ作り、口に放った。
程よい歯応えと、口の中に広がる爽やかな甘味の織りなす懐かしく感じる味覚は、程いい刺激となって脳を突き抜ける。
超美味しい。
切り身を二つ三つ。あっという間に桃を一つ食べ終わった。空腹の胃に固形物が落ち、空腹が満たされるという快感はやっぱりいいな。何より、湧き上がった怒りが少し鎮まる感覚が気持ちいい。
「あの、そんなに急に食べて大丈夫なの?」
品のいい顔を歪めて、どこか社長である広瀬が中腰で慌てる姿が少し愉快だった。ふわりと彼のシトラスの香水が香る。
今度はフルーツの盛り合わせの中から夏みかんをくれと、広瀬に命令する。
「ちょ…、これ以上は医師に確認した方が…」
「お腹が空いたのよ、食べたいときに食べる、普通のことでしょ。あなたと同じ」
「はあ…」
広瀬は、ベッドの側に備えられた、容態が急変したときの緊急ボタンにさりげなく手を伸ばしていた。
「押さないで!」
私は、自分でも驚くほど大きくて低い声で言った。
「はい」
広瀬は肩をびくつかせて慌てて居直っていた。
「それよりさ、あなた写真家なんでしょ?もしよかったら私の遺影の写真撮ってくれない?」
「なっ…遺影って、そんな不謹慎なこと言うなよ」
広瀬は身につまされるように眉を顰めていた。
「は、写真家が聞いて呆れる。こんな状況の私がこの先、何を夢見れるって言うの?」
私は、ガリガリにやせ細った身体を広瀬に見せつけるように点滴がぶら下がった腕を広げて見せて、言葉をつづけた。
「私は最後に燃え尽きる命の、かろうじて輝いているこの一瞬を残したいって言ってるのよ。こんな貴重な一瞬を儚く燃え尽きようとしている、最高の被写体を撮らせてあげるって言ってんのよ。そんな下らない理由で躊躇うってあんた、それでもプロの写真家なの?」
私と彼の写真は、奇しくもこの広瀬とかいうどこか胡散臭い写真家をここに導いたらしい。それが、私達の写真が残した意味なら、私は私なりに、あの酷い別れをした最低最悪な恋に決着をつけるのは、今しかないと思った。
私が言い終わった後、広瀬は豆鉄砲でも食った鳩のように放心していた。しかし目を点にし、だらしなく口を開けていたその瞳に、だんだんと色が灯る。
やがて燦然と輝く瞳の目尻に涙まで滲ませ、広瀬は膝に置いた自らの拳を固く握った。
「通常なら事務所を通してもらった後に、更に僕を指名とあれば二年と数ヶ月先まで埋まった予約の後になるし、撮影料も持ち込んだ見舞金並みなんだが、いいだろう。その撮影すぐに受けてやる」
「よっし」
私は、彼が放心している間に手にしたリンゴを齧った。
「ちょっと春奈!」
ちょうどお見舞いに顔を出した母が血相を変えて駆け寄ってきた。無理もない。
私は、余命があと3年だと告げられた末期癌患者で、ほとんど寝たきりか、体調がいい時はベッドで起き上がって窓の外を見つめるだけだった。
そんな私が今は、立ち上がって固形物を食べていたのだから。
「あ、お母さん。なんか私病気治ったかもよ?」
そう言って笑ってピースをした私を見て母は卒倒してしまった。
まさか、末期癌患者の私ではなく、見舞いにきた母のために緊急ボタンが押されたとは思っていなかった医師達は、酷く慌てながら駆け込んで来た。その後、陰鬱だった病室は、久しぶりに笑に満たされた。
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