第46話
強いタバコの苦い匂いと、嗅覚が麻痺しそうなキツい香水を纏った、男の群れに攫われた私は、薄暗い体育倉庫に押し込まれた。
カビ臭く埃っぽい体操マットのざらついた感触と、私を覆う男達の吐き気を催しそうなほどの汚い言葉と酷い口臭。とにかく最悪な記憶の断片に、鈍い閃光となって蘇るのは、身体に走る痛みと、屈辱。それから眩いフラッシュ。
そこで起きた事は、私には死ぬことよりも恐ろしく、痛くて辛い、悲しい現実を突きつけた。汚れてしまった私が、久志にどう顔むけしていいのか、泣いて泣いて、悩んで、苦しんでも答えが出なくて、彼からのメールを見るのが怖かった。だから、死のうとすらも思った。
もし本当に神様がいると言うのなら、私が何をしたから、これほどの拷問と屈辱を押し付けたのか、来世でどんなバチを受けてもいいから、胸ぐらを掴んで問い詰めてやりたい。それくらい思い詰めた。
なんて、最初は自分の身に降りかかった悲劇を嘆くばかりだった。けれど、時間が経つと頭を覆う霞がわずかに晴れて視野が広くなっていった。
そう、誰の仕業かなんて一目瞭然。こんなわかりやすくて度を超えた虐めは、きっと宮地の仕業だ。
目には目を、歯には歯をと言うように、どんな形であれ、彼女に仕返しをするのは簡単だ。けれど、それじゃあ子供同士の喧嘩のように何も解決策は見出せず、泥沼化するのが目に見えている。
そんな稚拙な復讐が、なんの意味も成さない事を理解できるほど、私は落ち着きを取り戻せていた。
でも、悔しい。悔しくて辛くて、悲しくてたまらなかった。病院を退院し、自宅のベッドでまだ痣の残った肩を抱いて私は、その日の夜も泣いて眠れないのだろうと思った。
何かに当たり散らすのではなく、たった一人で不幸を受け入れる事は、これほどまでに辛いのだと痛切に感じた。今すぐ、誰かにこの傷に触れてほしかった。
汚れた私を彼はどう思ったのだろう、この先、どう思うだろう。そんな恐怖も不安も、意に介す隙もないほど、私の心は彼の声を、温もりを求めた。
「春奈…ごめん、俺に春奈のこと、忘れられる時間をください…」
嗚咽混じりで、声にならない声を振り絞って、今にも消えて無くなりそうな頼りなく情けない声で、久志は何かを必死に訴えている。意味がわからなかった。それから何かをぐちぐちと言っていたけれど、到底受け入れ堅くて、馬鹿げていて、断片的にしか覚えてない。
「理由は言えない…もう一緒にいることが…強がって笑う君をみて、そんな仮初の笑顔に…安心…」
「ねえ、最低、なんて私に言わせないで」
自分でも胸が冷えるほど、恐ろしく低い声が喉をついて出た。
あの後の行動を、私は悔やんでいない。
絞り切った雑巾のように、薄汚い水滴をネチネチと滴らせる情けない彼の戯言など聞くに耐えなかったし、あの時の私をむしろ、よく言ってやったと褒めてやりたい。
けれど、あの後の私は、一方的に通話を切った事を、身を裂かれるほど後悔して、それこそボロ雑巾が汚れ切った水滴をビチャビチャと垂らすように、気持ち悪くて痛いくらいに彼に縋ったのだけれど。
信じられなくて、どうしても受け止められなくて、何通もメールを送った。繋がらない電話。音沙汰のない携帯電話。
うずくまる暗いベッドの中で、押しつぶされそうな絶望の中でいつまでもいつまでも泣いていた。現実を受け止めるのが怖くて私は学校に行くことが出来なくなっていった。
私が信じた愛って何?そもそも、愛って何?二人で、なんでも乗り越えられるような気がした。あれは、なんだったの?
そう思って育んだはずの愛は、私を苦しめるための毒の花だった。
日々育ってゆく楽しみに胸を躍らせ、幸せな未来を夢見ながら水をあげていた健気な私が馬鹿みたい。綺麗な花からいつも香っていた、甘い香りは実は猛毒で、私の心を蝕んでいたと言うのに。
私は、いつしか彼に、久志に私を陵辱した奴ら以上に怒りを覚えた。
久志を忘れたくて、なんとか距離を置きたかった私は、事件の後、当然、一度もあの学校には行っていない。
怒りと悔しさと寂しさにそぼ濡れ、獰猛で狂気じみた黒い感情も、ようやく心の奥深くで大人しさを見せ始めた頃、私は定時制の高校に転校した。
定時制高校での私は、一言で言えば、人が変わった。文字通り人格が変わったように、明るくて元気で愛想のいい人気者の、今まで私が横目で見ていたような女の子になった。
転入である以上、既に出来上がっている友達同士のグループが存在し、交友関係を構築するには難しいと思われた状況の中で、チョコレートとコーヒーのようにクラスに馴染むことができた。
私は自分でも驚くほど積極的に話しかけ、仲間の輪に入っていくことができた。何か自分の中で変化があったのかもしれない。けれど、私は自分の気持ちの変化の原因を考えないように意識する方が、より明るく振る舞うことができた。
そして、誰もが普通に送るような、平凡でありきたりで楽しい高校生活を送ることができた。きっと彼との別れが私の中の何かを狂わせ、それが言い方に作用しているのは、なんとなくわかっていた。
他の思い出を増やすことで、彼との思い出をもっと楽しい思い出で埋め尽くそうとしていたのかもしれない。あるいは、彼を失ったことで心にポッカリと開いてしまった空洞を、寄せ集めでもいい、少しでも楽しい思い出で埋めて安心したかったのかもしれない。
高校卒業後、私は地元の大学に入学した。彼は上京したと風の噂で聞いた。大学生活で心残りがあるとすれば、何度か告白された相手と恋ができなかったことだ。
他の男性を好きになれない。その理由を探ろうとすれば、心の奥深くで眠っている猛獣を突いてしまうような恐怖で動けなかった。それを起こしてしまえば、立ち所に心の中をぐちゃぐちゃにして暴れ回ってしまうだろう。
だから私は、恋をするには開放しなければならない心の入り口を、いつまでも固い牢屋に閉ざし続けていた。
手を握り合い、その力強さに頼もしさを覚え、ふとした瞬間に見つめあってなんとなく顔を寄せてキスをする。あの言葉にできない心が満たされる甘い感覚は、いつまでも胸の奥深くで熱を持ち続けていたように思う。名前すら口に出来ない彼の思い出と一緒に。
そう考えただけでどうしたって彼の顔が浮かんでしまう。だから。それは、もう誰にも求められなかった。
大学を卒業した私は、家から近いと言う理由だけで選んだ小さな商社に入社した。実家から会社に通い、仕事にやり甲斐は感じなかったが、いい仕事仲間に恵まれた楽しい職場で、週末には仕事仲間と言うよりも友達と呼べるような同僚と遊び、連休には旅行に行ったりして楽しい毎日を送っていた。
そのうち、同僚も彼氏ができて結婚して子供ができたりして、浮気をしたり、されたり、離婚してシングルマザーになったりと様々な大人らしい恋愛事情を抱える仲間が増えた。しかし、そんな慌ただしい男女間の話を、私はフィクション映画を見るような気持ちで聞き流していた。つまり恋ができない事以外は、全てが順調だった。
そんなある日、会社の健康診断で要精密検査を推奨する通告を受けた。始めは身体に不調や違和感は無いのだから、どうせ行ったって何事も無いのに時間もお金も掛かって面倒なだけだと思っていた。
とりあえず健康診断の結果を持って掛かりつけ医者に軽い気持ちで相談に行った。けれど、いつもは世間話の方が多いくらいの緊張感の欠片も見せない気さくな掛かり付け医が、珍しく深刻そうに眉を寄せ、大学病院への紹介状を渡した時には一抹の不安を覚えた。
紹介された病院に通い、検査の内容が大仰になっていくほど、その不安はますます大きくなった。
腹部超音波検査の後、白衣を着た医師頭を捻っていた。そしてMRI検査の後、白衣を着た人が増え、彼らは集まりながら何やら深刻そうな顔をして私の結果が載っているであろう書類を囲んで声を潜めあっていた。
母親と共に別室で待たされ、診断結果を待っている間、不安に押しつぶされそうな私の手を母は暖かい手で優しく握ってくれた。その時の母は、私と同じくらい不安そうに眉をはの字に曲げていた。献身的な母の強がった微笑みは逆に私を不安にさせてた。
結果、膵臓に癌が見つかった。
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