第45話
約束の稲木神社に向かう途中、何度も逃げ出したくなった。
と言うのも、やはり王子からの告白現場とその後の半ば宮地の八つ当たりの現場で、私が王子の告白を断った理由を聞かれていた可能性を考えると、まだ彼に会ってもいないのに、取り繕う方法を考えるだけで頭が真っ白になったからだ。
「他に好きな人がいる…」あれは本当のことだったから。
まるでアイドルにガチ恋するように、一方的な認知で一人で勝手に燃えあがっただけの想いを、恋と読んでいいのなら、あの台詞に嘘は無い。
なんて気負って新木くんと話してみると、それはあっけないほどの杞憂だったと判明した。
咄嗟の嘘だったのでは?と彼の方から言われて、実は少しショックだったけれど、もしかしたら教室にいる私が普段から人を寄せ付けないオーラを放っていたせいで、誰か好きな人がいるように思われなかったからなのかもしれない。
でも同時にそれは、彼の中では、文通程度で恋をする事はありえないと言う証明だった。その後、私の嘘を彼は簡単に受け入れて、不器用になんでもない振りをする私と、彼は無邪気に笑いあっていた。
「君を撮りたい」
小さな液晶画面に綴られた、たったそれだけの文字は、私が何よりも憧れた彼からの言葉だった。
「急にどうしたの?まあ、いいけれど」
そんな、どうでもいいような、いい加減な返事をしたような気がするけれど、その文章を打っている時の私は、左手で口を押さえて、泣くのを必死で堪えながら震える指先をなんとか操作していた。
次の日も会う約束をして、私はこれ以上もないほど舞い上がった。
どうやら昔から私の人生には何かいいことが一つあれば、何か犠牲になる不運な要素が必要らしく、等価交換を強いられたその不幸は、私の目の前にすぐにやってきた。
私は、そんな肝心な事を忘れかけていたのかもしれない。そう、舞い上がってはいけない。小学生の頃、それまで充実した楽しい毎日を宮地と共に送っていた時でさへ、宮地が想いを寄せる男子に私が告白されて、舞い上がった拍子に、その足元を掬われて大怪我をした。
学校でも昨日の幸福な時間のように、新木くんと話て過ごしたかった。
でもそんな儚い望みは簡単に壊れてしまう。
翌朝。
学校に来てみると私の内履きの靴がぐしょぐしょに濡れていた。中には校内の自販機で売っている、いちごオレの液体が入っていた。
宮地の仕業だと直感した。
「学校ではいつも通りの新木くんと私でいましょう」
意地悪な神様がどこかで私の笑顔を見張っているかもしれない。そんなおまじないじみた教訓を馬鹿みたいだけれど、本当に少しだけ意識していた。
けれど、それよりももっと、私がいじめられている事で、せっかく私を見てくれる新木くんの純粋な眼差しを、腐心させて濁らせたくなかった。
その日の放課後も、またあの稲城神社で彼と逢瀬をする。まるで、貴賤を超えて禁断の愛を睦む昔の歌人達のように、何かいけない事をしているようでいて、関係を公にするより、誰もいない公園でこうして彼と一緒にいるだけで、胸がいつまでも高鳴っていた。
彼の構えるカメラに収まった私は笑顔が絶える事はなかったのだろう。
少なくとも、あの頃はそうだった。まだ、心の底から笑うことができていたから。
きっと、明日も今日の代償とも言うべき不運な事が起きるのだろうと思っていた。だからせめて、それに備える心構えはしておくつもりだった。
案の定とも言うべきか、翌日には昨日にも増して凄惨な状況が私の机の上に広がっていた。体育の授業の後、無惨な姿で見せ物になっていた私の制服に群がる野次馬の中に、酷く暗い顔をして、ただ何もできずに呆然と立ち尽くす彼がいた。
そんな姿を見た時、冷たい風がどこか満たされない心に吹き抜けたのを感じだ。
心の底で、私の中の醜い感情が顔を覗かせた瞬間だった。
「何、それ?何、その顔?…」
目の前に、宮地が取り巻きを引き連れて現れた。周囲の注目を気持ちよさそうに浴びながら、私のチョークまみれになった制服をボロ雑巾でも持つようにつまんで何かを言っていた。
けれど、そんな声は私の耳に届かなかった。私の意識は、酷く哀れんだ視線を私に向けて、ただ情けないまま眉を顰めるだけの久志の顔に向いていた。
「いや、お願いだからそんな顔をしないで」
虐められる私のせいで、彼を腐心させたくなかった私の自己犠牲的な慈愛はいつしか、彼への期待に変わっていた。
どうして。どうして。
少しでも、彼に助けて欲しい私が、女の私がそこにいた。
なんて、私は身勝手なのだろうと思った。酷く腹が立った。
自分勝手な自分にも、目の前で稚拙な悪戯を繰り広げ、下卑た笑いを耳障りなほどに捲し立てる図体のデカい馬鹿な子供達にも。
私は、キレた。自分にも、宮地にも。野次馬の中で縮こまるだけの情けない久志にも。
そして、人生で初めて取っ組み合いになるような喧嘩をした。
宮地と揉み合っている際、思わず見切れてしまった彼の引きつった顔。あの怯え切った久志の表情は、私を絶望させるには十分だった。
情けない彼の姿に、打ちのめされたはずの私だったけれど、何故あそこで彼を見捨てなかったのだろう。
もし、あそこで彼を見捨てていたら、私は今とはガラリと違う人生を歩んでいただろう。
でも、私の短い人生であんなに誰かを好きになれる瞬間は、その道を選んでいたら果たしてあったのだろうか。
でも確かに、今言える事はあの選択をした事の後悔だ。
体育後の騒動があった日も、例によって久志と逢瀬の約束をした。
そこで私は心に決めたことが一つあった。私のファーストキスで久志のファーストキスを奪ってやる。
虐められる私を、怯えながら見ていることしかできない情けなくて憎らしいあの顔の、右頬をつねってからキスをする。
彼は、どんな顔をするだろうか。何を言うだろうか。その後、私は彼に何を言って欲しいのだろうか。
でも、私は彼の言葉を待つのが怖くて、きっと先に言ってしまうだろう。「久志はそのままでいい。私のヒーローにならなくていいから私と一緒にいてください」って。
放課後、私は沢山泣いてから、約束の時間を遅刻して彼の元に向かった。
彼はきっと落ち込んでいた。日の入りの早い晩秋に、夜の帳が落ち始めた夕刻、彼はわかりやすいくらい肩を落として、境内の縁側にポツネンと座って、足をぶらぶらと振っていた。
既に約束の時間はとうに過ぎている。私なんて置いて帰っていてくれたらいいのにと思った。
私から声を掛ければ、怯えた子供のように肩を振るわせて、すがるような視線を向けてくる。頼りなく可憐で、まるで泣き止まないベソをかいた子供のように感じた。
「情けない」と、自ら口ずさむ彼の、私を仰ぎ見る顔はまるで消え入るように悄然として、暗く、そして何より無防備だった。
隙あり。
私はちょっとした復讐を彼に果たしてやった。
「学校ではいつも通りの新木くんと私でいましょう」
そんな、提案を私がした時、本当は彼が安心していた事。私は気づいていた。
人気のないこの神社を彼が選ぶ理由は、この逢瀬を誰かに見られたくないからなんでしょ?
私が喧嘩してる時の君、めっちゃダサかったよ。
乾いた唇の少し硬い感触。長く待っている間に飲んだのか、ほんのりと香るコーヒーの匂い。彼の唇は少し冷たかった。
もう、全部、疲れた。ああ、右頬つねってやるの、忘れた。でもまあ、いいや。
唇を離すと、彼の目が大きく見開かれて、驚いたように目を皿にして私を見ていた。そして、その目尻には拭いきれていなかったのか、今まさに滲んだばかりなのか、僅かな涙が浮いていた。
呼吸と言葉を吐く順番を間違えたように、意味不明な呻き声をあげる彼の動転っぷりに私は思わず吹き出した。
笑いが込み上げると、気が晴れた爽快感に加えて、彼にどう思われようが、なんだかどうでもいいような気がして、変な自信が溢れてきたのだけれど、目尻からは熱い涙も溢れてきた。
こんなに傷ついてまで、まだ彼を好きなのが辛い。
虐められて、反抗して、女らしくない喧嘩までして、こんな痛い自分だけれど、嫌いにならないで、もう少しだけ私と一緒にいて欲しい。そんな、一縷の望みに縋り付く思いで私は言葉を振り絞った。
「久志くんは、私のヒーローじゃなくていい。ずっとこうして一緒にいてくれればそれで…」
涙まじりの震える声で、醜く食い下がる私に彼は引くだろうか。
「好きだ!」
何もかもを投げ打って、悲しいくらい弱気になった私の悲しみも絶望も焦燥も、彼のその馬鹿みたいに張り詰めた大声が一気に吹き飛ばしてくれた。
シチュエーションとか雰囲気とか考えればそれは、酷く場違いで不器用な、大声だった。けれど、私の心にその真っ直ぐすぎる大声は何よりも響いた。
好き。その一言は私に、愛というものの存在を意識させてくれた。
彼が私を好きと言ってくれる、その想いの強さがどれほどで愛と呼べるほどになるのかはわからない。
少なくとも、彼が私を見捨てないでくれた。惨めなほど彼を好きで、こんなにボロボロの私に、好きだと叫んでくれる。
その時に感じた彼の想いの強さを愛と呼んでいいのなら、私は彼を信じたいと思った。
そして初デートの日は、彼と本当の意味で心が繋がった気がした。秘密も後ろめたさも、不安も何もかも消え去って、彼が私の手を引いてくれる少し頼りない力に私は、純粋にこの身を委ねる事ができた。
幸せな一日の終わりを惜しむように、綺麗な夕日がゆっくりと海に沈んでいく幻想的な浜辺でした些細な約束。
その後のキス。
何もかもが完璧で、私は心の底から幸せを感じていた。
手を握り合い、唇を重ねた時に感じた、今度は暖かくて柔らかい彼の唇の感触に、私は愛が育まれていると思った。
明日からまた学校が始まる。宮地の虐めはエスカレートするだろうか。久志の困惑する顔はもう見たくない。
けれどそんな憂も、確かに胸に感じる彼の想いの強さや優しさで満たされた。二人で乗り越えられるような気がした。
陳腐な言葉を使えば、愛の力とでもいうのだろうか。けれど、私は確かにそんな愛を信じていた。
私の不満にようやく気づいたように、彼からも嬉しい提案があった。
今度は、私が以前にしたものとは正反対な、私と彼の仲を文化祭で公開するという、バカップル全開で羞恥極まりない企画だった。
恋人同士の私たちにとって因循な学校生活を、大きく刷新したい彼の潔い計画に、もちろん私は嬉々として承諾した。
その時の私は、彼との愛を、そんな風に、本当に馬鹿みたいに信じていた。
そして、事件があった後、私は彼から衝撃的な一言を告げられる。
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