水本春奈の回想

第44話


 

はらり、と一枚のフィルム写真が私の机のすぐ側に舞い落ちた。あれは退屈で憂鬱な学校生活が、また一年と始まりを迎えたばかりの春先のことだった。

 

 

新しいクラス編成後、一ヶ月が経とうとしていて、友達グループも出来上がって騒がしい昼休みだったのを覚えている。

 

 

私はポール・ギャリコの「猫語の教科書」という本を読んでいて、家猫が人間の家で快適に過ごすために、人間を巧みな技術と方法で翻弄する姿に感心しているところだった。

 

 

その一枚の写真には三毛猫が見晴らしの良さそうな草原の丘に生えた木の下で、何かを待っているように綺麗な姿勢で座っている写真だった。よく晴れた青空が背景に広がり、青と草原のコントラストが綺麗で、猫の表情はどこか神妙で美しかった。

 

 

その写真を拾った瞬間、私は見惚れていた。

 

 

「あははは!まさか久志の趣味が写真だなんてな」

騒がしいクラスに一際響いた、心底おかしいというように派手な笑い声。

 

 

「しかもなんだよこれ!家のコンセント?校舎の桜の木?写真家気取りかよ!」

今度は違う誰かが、同じようなテンションで笑っていた。

 

 

「はー…最悪!くっそー、まさか現像写真、カバンの中に入れっぱにするなんて。お前らにだけは絶対に見られたくなかったんだよ」

 

 

写真を手に持って顔をあげると、近くの席には、席に座る新木久志を囲う二人の男子生徒が見えた。確か、藤巻と内藤、だったような。新木以外の二人は手元の写真数枚の束を、面倒臭そうに、カードを切るようにしてパラパラと送っていた。

 

 

あの三人はクラスでは比較的目立たないが、よくつるんでいるのを見る。

 

 

写真と聞こえたが、じゃあ、この写真は新木が撮った写真なのかと思い、もう一度手元の写真を見る。

 

 

偶然、ポール・ギャリコの「猫語の教科書」を読んでいて、猫の強かさに感化されそうになっていたからでは無く、自然に目の前の写真を、私は気に入っていた。

 

 

しかし、落とし物である以上は本人に返さなければいけない。

「あ、あの…」

その日、初めて喉から出した声は、しかし彼らには届かなかった。

 

 

「こんなどこにでもあるフーケイとかよりさ、どうせなら女子とかモデルに誘って撮れよ」

 

 

「お!いいねそれ。先ずはモデルだって名目で誘って、あんな写真やこんな写真を撮り放題。自動的に女子と仲良くなれて、さらにそのままいい関係に発展し、イケてる高校デビューの幕開けだ」

 

 

「嫌だね、もうお前らとは写真の話は二度としない。あー、お前らだけには絶対にバレたくなかったー、黒歴史確定だー」

新木は永遠に呪詛を吐き続けるかのようにぶつぶつ言いながら頭を抱えて、好き勝手話し続ける藤巻と内藤の会話に耳を塞いでいた。もはや、私の声など届く余地はどこにも無く、私は猫の写真をそっとブレザーのポケットにしまった。

 

 

 

その日の放課後、帰宅途中に100円ショップで適当な写真立てを探して、それに新木が撮った写真を入れて机に飾った。

 

 

それからだ、私は彼が授業中につまらなそうに窓の外を眺めている横顔や、内藤と藤巻と談話中に、一人どこか退屈そうに、教室の一角をぼーっと眺めて一人だけ心ここにあらずというような表情を観察するようになったのは。

 

 

彼の見ているものや考えている事に興味が湧き、いつしかその好奇心は抑えられなくなっていった。

 

 

そして私は、思いきって彼に匿名で手紙を書いたのだ。まさか、返事が来るなんて思ってなくて、完全に自己満足でよかったし、あまつさえ、翌日には内藤と藤巻の生贄になっているのも覚悟していたのに。

 

 

嬉しかった。私は、その頃から、いつか私の姿が、彼の目に写ることはあるのだろうかと、密かに期待していた。

 

 

彼は、不思議な人だった。アキというペンネームと女という以外情報が無いにも関わらず、手紙のやり取りを続けながら、彼は自分の「好き」を共有してくれた。

 

 

彼が聞く音楽はどれも、ギターの音がガチャガチャしていてパンクロックというジャンルを好んでいる事が意外だった。

 

 

なんというか、普段学校では地味で目立たないグループのさらに地味な置物のようなスタンスの大人しい彼が、皆が同じレールの上を行く品行方正で真面目な人間とか、社会の常識や普通といった当たり前を、全否定し、本能のままに叫び散らかす、みたいな騒がしい音楽を好んでいる事が似合わなかった。

 

 

だが同時に、それは彼の本質なのだと気づいた時、彼の心を、彼が勧めてくれる音楽を聴くことで知れる事ができる喜びは、この上ない楽しみになっていった。

 

 

彼は、写真を送ってくれる事もあった。その写真の全てを、私は彼の専用アルバムを作って保存してある。野原の木陰で、風を待っているような猫の写真がダブった時は笑った。

 

 

これが一番好きなのだと手紙に書くと、彼は大いに喜んでくれた。実はダブっている、というのは、あえて言わなかった。彼との出会い。というには淡白だが、彼を意識するきっかけは私だけが知っている秘密として、いつか彼ともっと親密になったら話そうと心にしまっておく事にした。

 

 

気づけば、文化祭の時期になっていた。

 

 

彼の所属する写真部は、数年前までの弱小だった頃とは打って変わって、今ではさまざまな写真コンテストを若干17歳で総なめにしている広瀬先輩という写真部の屋台骨のおかげで、今年は特別な教室で個人ギャラリーを開催するのだと言う。

 

 

手紙には、私が好きだと言ってきたスナップ写真を飾ろうと思うのだけれど、正直他の部員の写真に比べれば、どれも地味で自信が無いのだと彼は語っていた。

 

 

当然、私は彼の写真展を楽しみにしていると言った。そして、その文化祭の日こそ、私が彼に初めて私が私だと彼に正体を明かそうと心に決めていた日だった。

 

 

彼が、自信がないと言って飾り付けたギャラリーに私が現れて、彼の写真のとある写真を指差して言うのだ。

 

 

「この、木陰で佇む猫の写真とっても素敵です。部屋の机に上に飾りたいくらい」

なーんて。そうしたら、彼はどんな反応をするのか、不安と期待で、想像するだけで胸が高鳴ってしょうがなかった。

 

 

けれどそんな計画は、彼の手紙で、いとも簡単に崩れ去ってしまった。

 

 

あんなに胸がときめいたのは初めてだった。早鐘を打つ鼓動。周りに誰もいないのに、頬が熱くなり、胸の奥底がぎゅっと掴まれるような淡い苦しみの中に、熱い何かが芽生えているような気がした。

 

 

震える指先で手紙を持って、胸に手を当てた。その時、私の中で、新木久志の、横顔が浮かぶ。あの視線を、ようやく私に向けてくれる日がすぐそこに来た。

 

 

王子とか言う何やら学年を超えて、学校中で人気らしい男子に呼び出されて、変な罰ゲームで告白されるという最悪な状況もあった。その上、さらに最悪なことに、小学校の頃からいろんな意味で腐れ縁の宮地に再び絡まれるという困難も。

 

 

だがそれも偶然、新木久志に目撃されると言う醜態に見舞われたが、この際ならちょうどいいと私は思った。

 

 

彼に会った時「恥ずかしい現場を覗いた」と言う弱みを握れば、私はすでに膨れ上がっていた彼への好意を誤魔化しながら、彼の前で強がれる気がしたのだ。

 

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