第43話


「大丈夫になったら連絡をください。いつでも連絡を待ってます」

事件の直後に送ったメールへの返信は、事件当日はもちろんだが、次の日も、また次の日も無かった。春奈の心身ともに、一生残ってしまうような傷跡が心配で、胸が張り裂けそうなほどの焦燥に押しつぶされそうになりながら、彼女からの何かしらの連絡をひたすら待った。

 

 

「ずっと連絡できなくてごめんね、ちょっと色々ショックが大きくて立ち直れななかったの。久しぶり、でもないか。ねえ、今から電話できない?」

 

 

 

 

深夜、眠れない夜が続き、ようやく微睡かけた深夜、携帯に春奈からのメールが届き、久志は飛び起きた。

 

 

「もしもし…」

冷たい雨の降る、息も白く凍えるような寒い夜だった。携帯電話越しの春奈の、消え入りそうな声を聞いた瞬間、久志は震える涙声を我慢できなかった。

 

 

ようやく自分の中で下した決断に決心がついていたからだろうか。彼女は少し笑って、どうして泣いているの?と訊くが、こうしてまた連絡が来て嬉しいのだと、本当を2割、嘘を8割含んで言った。

 

 

春奈の話をずっと聞いていた。事件の後の、予後。今は落ち着いて、また学校に行けることを楽しみにしている事。何故なら、それは久志にまた会えるから。今度こそ仕切り直して二人で学校生活を充実させたいと、彼女の口から二人で描く夢を語ってくれた。少し怖いけれど、宮地なんかに屈するのはプライドが許さないと言って、相変わらず強かに笑って見せる余裕に安堵した。

 

 

そんな春奈の、話す時の嬉しそうな声を聞くほど、久志は涙が止まらなくなった。途中、嗚咽が激しくなり、まともに相槌すら打てなくなった。春奈は困惑したように久志の様子を心配していた。

 

 

握る拳に爪が食い込む。噛み締めた下唇から、僅に血の味が滲んだ。自分だけ子供のように泣きじゃくるこんな情けない状態で、上手く伝えられるかわからなかった。

 

 

そろそろ伝えなくちゃならない。と、久志は覚悟を決めた。なんとも身勝手で無責任な形で。

 

 

「春奈…ごめん、俺に春奈の事、忘れらる時間をください…」

 

 

鉛のように重くなった携帯電話。長い長い沈黙が流れた気がした。

 

 

 

「は…?今なんて言ったの?」

 

 

「もう、春奈とは一緒にいられないんだ。だから、ごめん、俺たち今日で別れよう」

春奈が、ようやく立ち直れたこんな時に言うべき言葉じゃないのは分かっていた。けれど、そんな最低を演じる必要性を久志は、痛切に胸の内に刻み込んでいた。

 

 

「何を、言っているの…」

先程まで、儚く綻んだ春奈の心が、たちまち凍りついていくのが携帯電話を握る手の内から伝わってくるようだった。

 

 

「理由は言えないんだ。ただ、俺はもう春奈と一緒にいることができない…」

彼女が傷つかない為に、もっと彼女が納得できる嘘の一つや二つ言えたらいいのに、それすら言えず、ただ泣きながら立ちすくむことしかできない。

 

 

彼女の苦しそうだった途切れ途切れの息遣いが、やがて湿り気を含んで、嗚咽混じりの泣き声に変わる。

 

 

「いやだ!いきなり何言ってんの!?意味わかんない!まさか、宮地達に何か吹き込まれた!?あの事件もアイツが絡んでるって知ってるんだから!ねえ!答えて!アイツに何を言われたの!?」

 

 

 

「春奈、俺は虐められてる君を見ているだけで、何もできなかった。本当は泣きたいくらい辛かったはずなのに、強がって笑う君を見て、そんな仮初の笑顔に、俺は安心していたんだ。春奈があんな事になって、俺、俺…」

 

 

その先の言葉を、もう一生修復できないほどのトラウマを抱える覚悟で、心を抉り、引きずり出す。

 

 

「怖かったんだ…。俺には無理だと思った、春奈を、守る自信がないよ…」

気の利いた嘘は言えないのに、彼女に嫌われるための嘘ならいくらでも言える矛盾。既に耐え難い悔しさと悲しみに押しつぶされそうだった。

 

 

本当は、響とか言う男に吹き込まれた脅しなど関係なく、宮地や彼らの狂気に立ち向かう気力もあった。

 

 

今すぐ、響きを見つけ出し、教室でのんびり授業をしている所にでも殴り込みに行き、胸ぐらを掴んで春奈の屈辱的な写真の在処をどんな手を使っても暴いてやってもよかった。

 

 

けれど、それもこれも自分よがりな気がした。今まで頼りなかった自分が、急にそんな変われる物なのか、彼女には信じてもらえるわけがない。一歩でも間違えれば、彼女の写真が全校生徒に拡散し、彼女が教室で受けた虐め以上の惨状を自分の判断の過ちにより引き起こしかねない。

 

 

 

「君は私のヒーローにならなくていい」

結局、彼女の言葉に甘える情けない自分がいる。全く、笑えるほどその通りだった。

 

 

 

完璧で速やかに、彼女を助けられなければ響きの脅しは最悪な結果を招いてしまう。ならば、ヒーローじゃない自分はせめて、大人しく引き下がる潔さを見せることが、彼女にしてやれる精一杯なのではないか。

 

 

 

春奈に事情を説明し、君のことはちゃんと守るから、屈辱的な写真を取り戻すまで待っていて欲しいなど、そんな薄っぺらい期待をさせて、怖がらせるわけにはいかない。

 

 

 

「ねえ。最低、なんて私に言わせないで」

静かな、低い声で春奈は言った。

 

 

 

「ううん、俺なんて、最低最悪だ。言ってよ、最低、最悪って…」

 

 

「ばっかじゃないの!少し頭冷やして!電話なんてするんじゃなかった!」

涙声を震わせながら、胸を揺らすほどの怒声を最後に、電話は切れた。

 

 

 

通話相手を失った電波は、間延びする電子音を響かせ続ける。携帯電話を壊れるほど握りしめて、歯を食いしばった。

 

 

 

こんな情けない自分を、君はヒーローになれない、と言ってくれ、温かく見守り続けてくれた。こんな自分を、好きだと言ってくれた春奈の想いと笑顔が、とめどない涙に乗って溢れ続けていく。

 

 

 

「うわああああぁああああ!!」

久志は布団を被り、窒息しそうなほど息苦しくなっても、ただひたすら泣き叫び続けた。

 

 

 

泣き疲れて眠くなった頃に、目覚まし時計が鳴り、結局夜を明かして泣き続けた長いようで短かった夜は更けてしまった。

 

 

 

死人のような蒼白な顔に、落ち窪んだ目とドス黒い隈を作り、血肉を探し彷徨うゾンビのように背を丸めて重い身体を引きずって、久志は学校に向かった。

 

 

 

途中、春奈からメールが来ていた事に気づいて、メールボックスを開いてすぐに後悔した。

 

 

 

「さっきは言いすぎた。ごめんね。また電話できる?」

 

 

「ねえ、怒ってる?…辛いのは私だけじゃないんだよね。きっと久志も私と同じくらい傷ついて怖かったかもしれないのに。私ってマジでバカ。本当に、本当にごめんなさい」

 

 

「…ねえ、嘘だよね?別れたいだなんて、嘘だよね?ねえ、せめてもう一回電話できないかな?」

 

 

 

文字が、春奈の声が脳内で再生されるように、そのメールの数々は臨場感を持って幻聴のように耳に響いた。

 

 

喉の奥がツンと痛くなる。視界が滲み、歪んでいく。

 

 

 

不意に足元の力が抜けて、近くにあった電柱に手をついて、立っていることすらままならなかった。

 

 

彼女の声に応えるわけにはいかなかった。最低で最悪な男を演じるために。久志は、それでもふらつく足を踏み出して、学校に向かった。

 

 

 朝の教室では、皆が口々にくだらない会話を繰り広げていた。何事もなかったかのように、それぞれの日常を送っている。ただ、空っぽの春奈の席を残して。

 

 

「無視とか意味わかんない。明日学校に行くからその時直接話を聞かせて」

春奈のメールは増え続ける。

 

 

「ねえ、返事をしてよ。私がこんな目にあったから、私が汚れてしまったから?嫌いになった?そんなの、ひどいよ…」

 

 

「ねえ、お願い。何か返事して。本当は私、明日学校に行ったら、久志に嫌われているんじゃないかってすごく怖いよ…」

 

 

悲しいほど一方通行のメールが、虚しく増えてゆく。夜には春奈から電話が来たがそれも無視した。

 

 

携帯が震えるたびに、久志の胸は引き裂かれた。その夜も、いつまでも慟哭し、暗い部屋で枕を濡らし続けた。ただひたすらに、泣き疲れて眠れるのを待ち続けた。

 

 

 治らない吐き気のように、何度もフラッシュバックするのはあの響の一言だった。あの小さな液晶画面に映し出された映像を思い出すたびに、息が苦しくなり、頭が割れるほどの頭痛を起こし、吐いたりもした。

 

 

春奈から連絡が届く度、何度も携帯に手を伸ばしかけ、久志は血が出るほど唇を噛み締めて耐えていた。

 

 

 一言でも連絡を取れば、きっと自分は春奈が恋しくなるだろう。けれどその僅かな言葉のやりとりが、今度こそ命取りとなり、さらなる痛みや苦しみに苛まれるのだとしたら、彼女に嫌われた方が、彼女を守れるはずだった。

 

 

そうして、自分だけがいつもと変わらない日常を送り続けた。

 

 

春奈はあれから不登校になり、ある時を境に、夕立が突然止むように、ピタリとメールも電話も寄来なくなった。

 

 

記憶の中で笑う春奈の笑顔や彼女とのやり取り、思い出全てが幻や夢だったかのように、彼女との終わりを実感したその瞬間、久志は怒涛のように襲ってくる後悔と寂しさと悲しさに打ちひしがれた。

 

 

この結果を、自分で選んだはずだったのに。自ら、彼女を手放したと言うのに。結局はまだ春奈が好きで好きでたまらなかった。

 

 

そして、春奈は一度もクラスに顔を出さずに転校していった。

 

 

「ねえ、お願い。もう一回ちゃんと話し合おうよ。私達、これで終わりだなんて信じたくないよ」

 

 

 それは春奈が久志に残した最後のメッセージだった。

 

 

彼女は最後の最後まで久志を信じ続けてくれていた。そんな春奈のメッセージを無視することは、まるで手を伸ばせば救える儚い命を見殺しにするように残酷な行為に思えた。

 

 

消えゆく灯に、声に、目と耳を塞ぎ続けた。その苦しみは想像を絶していた。

 

 

こうして、自然消滅という無味乾燥で呆気ない形で、二人の関係は終わりを遂げた。

 

 

彼女と一緒に送るのだと、夢を描いた青春。そんな高校生活を、たった一人で卒業した日、久志は彼女との幸せすぎる思い出を心の奥深くに封印し、二度と思い出さないと心に決めた。甘い甘い、人生で一番の記憶に蓋をした。

 

 

 

自分のような最低で最悪な男は、今後、誰かと一緒に幸せになろうなどと、望んではいけない。別れを春奈に告げた日、彼女の泣き叫ぶ怒声が再び蘇ってきそうだった。

当然だ。

何故なら、春奈のことが、まだ好きなのだから。

 

 

 

卒業式の日、馬鹿みたいに穏やかな春風に吹かれて、綺麗な桜が花びらを散らしていた。

 

 

馬鹿みたいにはしゃぐクラスメイトは、モノクロの桜の下で、どぶ色の涙を浮かべて笑い合っているように見えた。

 

 

 

 それからと言うもの、久志はカメラを触らなくなった。夢も希望も抱かないまま漠然と大人になっていった。

 

 

久志にとって、春奈との短い時間が、人生で最高の瞬間だった。

同時に、人生でこれ以上の奈落は無いと思えるほど、苦しい想いも味わった。

 

 

やがて、春奈との思い出を、胸の内に固く閉ざし続けた結果は、呪いのように、潤いのない芒洋とした日々を重ねるだけのつまらない日々を久志に歩ませた。

 

 

カメラは埃を被り続ける。

 

 

いつしか、春奈との思い出も忘れかけるほどの、しがない34歳独身サラーリーマンの趣味になるまでは。


 

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