第32話

 

通された早希の部屋は、女子高生の部屋という甘いイメージからかけ離れてすぎていた。

 

 

女子らしいテイストの家具やインテリアが皆無で、だだっ広い空間には、刺繍の凝ったカーペットや寝心地の良さそうなベッドやソファーがあり、高級なアンティークなテーブルや椅子など、全体的に上質なホテルのスイートルームを思わせた。

 

 

「これは、高級ホテルかよ…」

 

 

心のままを口にすると早希は苦笑いを浮かべた。

 

 

「全部あの男お抱えのインテリアコーディネーターが揃えた家具と装飾よ。女心とか全然わかってないよね。本当に息が詰まる」

 

 

どんな快適に揃えられた家具があっても、決して自由ではない、あの男の支配下の軟禁状態とであれば、そこは地獄だ。一見、贅沢の極みを再現したような豪華な部屋に招待してもらおうと、決して心は躍らない。

 

 

久志は息を詰めながら、早希に促されたソファーに座った。

 

 

それから早希は応急箱を持ってきた。

 

 

久志は先ず、早希の怪我の手入れをしてやった。

 

 

久志は、際どい衣装にドギマギと鼓動を弾ませながら手を震わせ、消毒液を染み込ませた脱脂綿を早希の擦りむいた肘や膝にあてがう。

 

 

アルコールを染み込ませた冷たい脱脂綿の刺激が強かったのか、早希は目をギュッとつむり、肩を僅かに跳ねさせる。吐息混じりの甘い声を漏らすので、久志はいろんな意味で緊張した。

 

 

久志は服を脱ぎ、肋骨の負傷を直に確かめてみる。身体に浮かび上がるブラックホールのように痛々しい大きな青痣が出来ていて、そこを中心に痛みが身体のあちこちに散らばっていっているようだ。

 

 

その痣を、早希が少し触れるだけで飛び上がりそうな激痛が走った。

 

 

「これ、ヒビが入ってるんじゃ無い?」

 

 

「これくらいどうって事ない」言葉の通りだった。

 

 

早希の苦悩に比べれば、これくらいどうって事ない。痣を浮かべた顔で心配そうに覗き込む早希の優しさに胸が痛む。

 

 

「そうだ」と思いついた久志は、脱いだばかりのトレーナーを早希に着せる。彼女には大きすぎるが、これで目のやり場には困らなくなった。

 

 

「暖かい」と、彼女が息苦しいと嘆いたこの部屋に、彼女笑顔が咲いた。

 

 

それからスマホを取り出し、ネットで検索して見つけたテーピング技法を用いて、胸部の周りを見よう見真似でテーピング処置を施してくれる。

 

 

真剣な面持ちでテーピングをしてくれる早希を見つめながら、かなり危ない目にあったが、彼女の元に駆けつけられた事に今更ながら、心の底から安堵していた。

 

 

小さな頭に掌を乗せると、彼女の温もりを感じる。側にいれる事を、側に駆けつけるこができた事を幸福に思い、乱れた髪を透くと、早希は目を細めた。

 

 

「痛むでしょ。やめておきなって」

 

 

「無防備な早希を撫で撫で出来るチャンスに、痛がってられるか」

 

 

「あっそ…」

 

 

早希は納得とも無関心とも取れない曖昧な声言葉を吐き、そのまま脚を折りたたんでから首を差し出すので、久志は、自分が満足するまで頭を撫で続けた。

 

 

外では深々と雪が降り積もり続けているのだろう。暖色の薄暗いベッドライトだけが灯った広い部屋は、心地いい静けさで満ちている。

 

 

この部屋で一番大きな出窓越しに、白い雪が舞っているのが見えた。雪が降る夜は何故こうも静かなのだろうと、少し郷愁に耽った。

 

 

顔を赤め、俯いていた早希の大きな瞳がようやくこちらを見た。その目は何か言いたそうに訴えているように思えた。

 

 

「実はね、久志にずっと隠していた事があるの。驚かないで聞いてくれる?」

 

 

何を今更。東京では珍しい奇跡のホワイトクリスマスに目を触れる暇もなく、DV男からJKを救い出すなんて青天の霹靂を乗り越えたこの期に及んで、これ以上何に驚けばいいと言うのだろう。

 

 

「もちろん。どうした?」

 

 

「実は、私は本当の梶原早希では無いの。私の半分は水本春奈。…って言っても覚えてる?」

 

 

余裕を浮かべた微笑みが一瞬で凍りついた。

 

 

ん?なんだって?

 

 

「あ、ごめん。順を追って説明しなきゃだよね。話せば少し長くなるんだけどね…ん、どこから話そうかな」

 

 

予期せぬ操作に停止したままクルクルと回るアイコンを表示し続ける低スペックPCのように、久志の思考は、いまだに追い付けない。

 

 

水本春奈。

 

 

その名前は、記憶の奥の奥に埃を被ったまま、仕舞っていた名だ。

 

 

もう立ち寄ることもない、思い出すこともないと思っていた。平凡で面白みもない、夢や希望も描かなかったつまらない今までの人生の中で、それは最も輝いていた、けれど悲しい思い出だ。

 

 

その名前は、人生のどん底とも思える苦しみから、歯を食いしばり、やっとの事で立ち直り、ようやく歩き出すために記憶の隅に硬くしまったはずの名前だった。

 

 

今になって掘り起こし、永遠に封じ込めようと心に決めたその蓋に触れると、手にとるように彼女との記憶が、思い出が雪崩のように頭に蘇ってくる。

 

 

「…はる、な?はるな?」

 

 

「ん、2005年11月30日。私達はなんとなく付き合った。ふひひ、日付まで覚えてるとか、私キモいよね」

 

 

その独特な笑い方が一瞬だけ、彼女の表情と声で、脳に鮮明に再生される。

 

 

自分だけに見せた、その笑顔。

 

 

自分以外、学校の誰も知らない彼女の独特なその笑い方。

 

 

人目を忍んで、密かに会う二人きりのいつもの空間で、彼女はよくその笑い声を響かせた。

 

 

あの時の、何かいけない事をしているような、少し心が浮き足立つような高揚感が、手に取るように思いだされた。

 

 

「…春奈、なのか?」

 

 

「ん、そうだよ」

 

 

彼女は切なそうに目を細めて口元で笑みを作った。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る