第31話
久志は、少し湿った早希の温もりとその嗚咽を聞きながら、細く震える早希の背中を優しく叩き続けた。
やがて早希は久志から離れると、涙を拭いてから微笑んだ。痣の浮かぶ笑顔。
こんな時もブレない強かさに久志は心が痛んだ。次の瞬間、早希の顔が何かを決意したように引き締まった。
そして、伸びている男の元に近寄る。白目を剥いた男の襟元に触れて脈を確認している。
早希は、心配そうに落ち着かない久志に目をやると「大丈夫、気絶しているみたい」と心を読んだように柔らかい声をかけてくれた。
そして二人で伸びた男の身体を持って、拘束具とベッドのある牢まで運んだ。
「何をする気だ?」と久志が訊ねると、彼女は男の着るバスローブからスマホを取り出す。
「ありがとう。痛むでしょう?ちょっと休んでて」
早希は、久志の問いには応えず、ベッドのある他の牢を指差した。
とりあえず言われた通りベッドに腰を下ろした久志を尻目に、早希は険しい顔のまま食料や水を、男を運んだ牢に並べていく。
次にコスプレ衣装が詰まったラックから抱えられるだけの衣装を、両腕いっぱいに掴んだ。
洗濯物を運ぶ力強い主婦のように抱え歩き、男が倒れている上で静止する。何をするのかと思えば、そのまま男の真上から景品を落とすクレーンゲームのように大量のコスプレ衣装を男に降らせた。
「え?…ちょ!?」久志は痛みに顔を顰めながら思わず身を乗り出すが、早希は急いで同じ作業をもう一度繰り返す。
既に男の身体が埋もれるほどに衣装が山積みにされていたが、男はまだ気絶していた。
そして、ショーツも見えそうなほど短いスカートを揺らしながら素早く牢を閉めると鍵をかけた。
「ふう…」早希は溢れそうな胸元を揺らし、満足そうに額の汗を拭う。
「ふう、ってお姉さん。何してたの?」
「ん、ちょっとした復讐、と…」次に、先ほど久志が鍵を取った赤いバスローブのポケットを漁りながら「あれ?」っと難しい顔をした。
「もしかしてこれ、探してる?」
男のポケットから見つけた小さな正方形の電子機器を早希に見せると、お目当ての品を発見したと言うように顔の前で手を叩き、安心したように息を吐いて笑った。
「これ、小型カメラなの」そう言って早希は小さな正方形のそれを手に取ると、親指と人差し指で挟んで握った。待つこと数十秒だろうか。カメラらしいそれは青い光を2回放ってまた静まった。
「青く光った?」「そう、今ので電源オフよ、そしてこうすると」早希は先程のカメラを親指と人差し指でまた握る。すると、小さな赤い光が2秒に1回点滅し始めた。
早希は光が灯っている面を下にテーブルに置くと、点灯は見えなくなり黒い小さなサイコロがテーブルに置かれているだけのようになる。セッティングしたカメラのテストを兼ねるように、早希はその前で手を振った。
「電源を入れる時は2秒、切るときは10秒以上の長押し。電源を入れた時は赤い光が10秒だけ点滅するからその隙にカメラをセットする。だから録画中かそうじゃ無いかは最初の数十秒以外は電源を入れた本人しか分からない。更に電源をオフる時はかなり長いボタン操作が必要だからこの機械の操作を知らない人がこのカメラを見つけても、うんともすんとも言わないただの真っ黒な四角い何かにしか見えないわ」
そこまで言うと早希は悪戯が成功した子供のように軽やかに笑った。
「それって、つまり…」
久志は、この牢獄に散らばる、おそらく男が早希に与えていたであろうあらゆる残忍な行為の残骸を思い出して背筋が凍る。しかし、その事実を証拠とする映像を撮っていたと言う事は、それは例えば、彼女が救われるための鍵になるのかもしれない。
「作戦は成功よ。さっきここで起きた事の音声は全て撮れてる」
カメラを使いこなす慣れた手つきは逞しいが、彼女がどれほど苦しい思いをして、この悍ましい状況と戦ってきたのかを思うと胸が詰まる。
そして、そのカメラが男のローブの中にあった事実に気づくと背筋に冷たいものが走った。
「もしかして、それ…見つかったのか」
男の恐ろしい執念と狂気を目の当たりにした久志は、そのカメラがバレた時の状況を想像し、身震いする。
「うん…でも、もう過ぎたことだし」
早希は、目を伏せて痣の残る口元を上げて見せる。その強さに、久志はいよいよ涙を堪えられなくなってきた。
「でも、これでようやく終わり。このカメラには他にも映像が入ってるの。この証拠を警察に届ければ、アイツは終わりよ。しかも、ご丁寧に自分で回しっぱなしのカメラもあったみたいだし」
早希は、男を閉じ込めた牢に視線を泳がす。
「アイツ、他にも映像持ってるんだけれど、その所在が私には分からないの。だから、私には武器がこれしかなかった」
どこか遠い目をして、早希は小指ほどのその四角い小型カメラを眺めていた。
久志は堪らずに早希を抱きしめた。けれど早希はすぐに久志の胸に手を押しつけて離れた。
「ちょっと、そんなに憐れまないでよ。そこは頭を撫でてくれるくらいでちょうどいいって」
久志は彼女の望み通り、と言うか自分の願望を一方的に押し付ける感じで早希の頭を撫でた。飼い主に甘える子猫のように目を細める早希の頬に手を当てると、青痣が熱を持っているのがわかった。
親指で痣をなぞると、早希の大きな瞳が久志を見据える。
「来てくれて、ありがとう」
その時、男を収監した牢で物音がし、二人は慌ててそちらを意識する。
「早希…」久志は早希にアイコンタクトを送ると、意図を汲んだ早希が小型カメラを渡してきた。
「…く、ああ…お前たち、よくも私をこんな所に閉じ込めてくれたな」
苦痛に湿った声が、安寧だった静寂を汚していく。一瞬、物怖じした早希だったが意を決したように眉が吊り上がる。
立ち上がり、男の牢へと歩むと、奇抜なコスプレ衣装の中で蠢く男を見下ろした。
「おお、可愛い娘よ。父親に向かってなんだこの仕打ちは。全部お前のために集めた衣装だぞ」
何もかもでたらめな父親を名乗る者の言動に、腹を立てた久志は立ち上がったが、早希の腕がそれを静止する。
「は?父親?私の父親は事故で両親を亡くした日からいなわ。あなたが可愛がるのは、あんたの異常性を吐き出す為に趣味の悪い服を着せられた人形の私だけでしょう?」
「お前…せっかく拾ってやった親の私に向かって、よくもそんな口が聞けるな!」
「あなたこそ、私を娘と呼ぶなら、何故あんな酷い事が出来るの!」
早希は震える声で、忌々しい写真が飾られた方を指差して叫んだ。
「死んだ方がましなくらいの苦しみを受け続ける、あなたの欲望の吐け口でしかない人形が娘ですって!?笑わせないで!自由も、女としての人生や希望も奪っておいて、二度と娘なんて呼ばないで!…心を無くした哀れな操り人形のこの子は、子供の頃にあなたが殺したも同然よ」
気のせいだろうか。肩を震わせて訴える早希の横顔が、一瞬、彼女じゃない違う誰かに見えた。この感覚はもう何度目だろう。
「俺を捕らえたからって調子に乗るなよ!おい、そこの男、この女はな、身寄りのない哀れな少女の頃に俺が引き取ったんだ。引き取った日からこいつは俺の性奴隷になった。処女を奪ったのはなんとこいつが12歳の時だ。どうだ、興奮するだろう?いい歳して女子高生にのめり込むお前なら共感してくれるよな?それからは俺の慰め道具としてこの部屋でくる日もくる日も犯し続けた。もはやお嫁に行けない身体にしてやった。ああ、そうさ、お前の言う通り、もう心なんて遠に壊れているだろうよ。だが、お前の態度はなんだ?まだ反抗心が残っているじゃないか?まだまだ調教が足りないか?だったら徹底的に立ち直れなくなるくらい…」
「いい加減黙れよ!!」久志は堪らず男の声を遮り吠えた。
早希は今にも屑折れそうになりながら、必死に男の声を受け止めて耐えていた。
「おお、これはこれは、さぞお怒りだな。おい、この女がそんなに好きならお前にいい事をさせてあげよう。この牢を出してくれるだけでいい。そうすればこの部屋で、この衣装を好きなだけ使って好きなように写真や動画を撮影できるぞ。アダルトサイトにでもあげればいい利益が出るんじゃないか。私はそういうネット媒体には興味はないが、この子の容姿はどうやら世間的にもウケるらしいじゃないか。まあ、ちょっと傷物だがそこは、内容次第でどうとでもなるだろう」
久志は鉄格子から腕を突っ込み、男の胸ぐらを掴んだ。肋骨の痛みも忘れて渾身の力を拳に込めて男の顔を殴った。早希の僅かな悲鳴が聞こえる。
「っち…お前達、人の家に侵入してここまで勝手なことをしていい気になるなよ!」
男はよろめき、血の混じった粘液を唾棄して久志を睨みつけた。久志も肩を上下させながら男を見下ろし、睨み返す。
「黙れって言ったのが聞こえなかったのか?」久志は低い声で唸る。この男だけは何がなんでも許せない。
「久志、もういいよ」
耳元で悲しそうな早希の声が、興奮した身体を抱いてくれた。
早希の暖かい手が腕に触れる。
早希は、録画中にした、先ほどの小型カメラを男の前に差し出した。
「役一ヶ月前から、私はあなたが私にした行為の全てをこのカメラに抑えて記録してきました。明日、これを持って警察に行くわ」
氷のように冷め切った声で言い放った早希の言葉に、男は目を見開き、だんだんと悲壮感に顔を歪めていった。
「なあ、早希どうしてだよ。どうして急に変わったんだ?その男が原因か?俺たち、愛し合っていたんじゃないのか?俺の愛にお前はいつだって応えてくれていただろう?」
今度は泣き落としに出た男の声が下卑た涙に濡れる。たちすくむ早希に向ける目は懇願するようでいて、夢を見終わった後の寝ぼけ眼のように哀れだ。
「あなたから梶原早希を救いたかった。私はこの日のためだけに、あなたの残酷な仕打ちに耐えてきたのよ」
「…お前は、誰だ?」
男が消え入りそうな声で口にした言葉に、久志はハッとした。男が感じているであろう違和感に、久志も心当たりがあるからだ。
「…何を言っているの?人間だった私はあなたに幼い頃に心を殺され、あなたにとって都合のいい身体だけ残った、空っぽのマリオネットになった梶原早希。でも明日からの私は違う。あなたの傀儡から私は解放されてみせるの。あなたにもう二度と娘とは呼ばせず、私もあなたを父などと二度と呼ばなくていい新しい人生を築いてみせる。私は明日から人並みの幸せを享受できるどこにでもいる普通の女子高生。あなたは、ただの犯罪者よ」
早希は一度も男の目から瞳を逸らさず一気に言い切った。そして鼻を鳴らし、男から視線を外した。男は縋るように鉄格子を握り、やがて頭をもたれさせた。
「ここで数日を過ごしてもらうわ。幸いにもここにはベッドがある。それに食料だっていくらでも持ってきてあげれる」
早希は男に背中を向けた。ここを立ち去るのだろう。目が合った早希の表情はどこかすっきりとしたような清々しさを感じる。
「さて、こんな話をした後に誘うのはなんだか憚れるわね。もしよかったら私の部屋に来ない?久志が良ければだけど」
痣が浮いた顔で、儚く笑う早希は、けれど爽やかだった。
既に立っているのもやっとのはずなのに、なんて逞しいんだろうと、久志は胸が熱くなった。
断るわけがない、早希がこれまで受けた辱めを知って、嫌と言うなど言語道断だ。しかしそれを言葉で伝えるのはなんとでもできたが、それは彼女を憐れむような気がしてなんだか違うような気がした。
「おっさんが女子高生の部屋に誘われて、断るわけないだろう」
だからこそ、いつもの調子で答えてやる。
早希は、くすりと笑ってくれた。それは心からの笑顔だった。
力なくうなだれる男を後にして地下牢を去ろうとした瞬間、男は突然叫びながら暴れ回った。聞くに耐えない、汚い言葉を叫びながら騒ぎ立てている。
「好きなだけ暴れて叫び散らしたらいいわ。ここはどんなに騒いだって外には物音ひとつ漏れない。でしょ?」
刃物のような声と、この上なく冷徹な微笑を浮かべ、早希は男に言い放った。
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