第30話
振り向くと、廊下の向こうのドアが開きゴルフクラブが覗く。
地下に逃げたら他に逃げ道はないかも知れない。だが、下では確かに早希の声がした。後の事を考えている暇など無い。
降りた先の重い鉄の扉を開くと、そこには異常な空間が広がっていた。
剥き出しのコンクリートが寒々しい闇を広げ、空間の壁に設けられたアンティークな照明がぼんやりとその暗がりを窮屈そうに押し広げている。
衝撃だったのは鉄格子の檻の部屋が、その空間に点在していたと言う事だ。そこは紛れもない監獄だった。
各牢獄には不釣り合いな程豪華なアンティーク調のベッドがあり、隅に置かれたテーブルには拷問道具のような器具が鈍い光を反射している。
アダルトショップにあるような、目を伏せたくなる大人の玩具も置いてある。
思考を押さえつけるような寒々しい静けさに圧迫されながら、久志は暗がりを進んだ。壁や天井に拘束具がぶら下がり、その下には鈍く光る粘液が未だに残っている牢屋があった。
側には、カメラの載った三脚が静かに佇んでいる。壁に掛かったコート掛けにはクリスマスを意識したような派手な赤いバスローブが掛かっていた。
一緒に過ごした僅かな時間、早希が見せた笑顔が霞んでいく。あの笑顔の裏で、早希はどんな酷い目にあっていたのだろうか。地下室を歩く、残響する自分の足音が、耳から徐々に遠ざかる。
ある牢屋で足を止めた。
派手な色調のコスプレ衣装がひしめいて掛かっているハンガーラックがあり、その部屋の壁一面にはスクラップブックの1ページのように、びっしりと写真が張り巡らされていた。その中の一枚を見て、久志の世界から完全に音が消えた。
呼吸の仕方を忘れたように息苦しくなり、胸が圧迫された。
爪が食い込むほど握りしめた拳には痛みを感じなかった。派手で際どいコスプレ衣装に身を包んだ、髪が乱れた早希が写っていた。
そのどれもが笑顔を浮かべてピースをしているが、死んだような目から涙を流して虚空を見つめていた。
衣装ははだけて恥部が顕になっている。そして仮面のような笑顔には白濁した液体がかかっていた。
他にも、到底言葉で表現できないような、酷い屈辱に塗れた早希の写真で壁一面が溢れていた。これは全て、あの男の仕業だというのだろうか。
肋骨の痛みは怒りで失せていた。噛み締めた奥歯に薄く血の味もする。
「ひさし、なの?…」
遠慮がちな、消え入りそうな声が響いた。
久志は我に帰り、声のした方向を探る。奥まった暗がりにもう一つの部屋があった。
そこは完全閉鎖の独房のような部屋らしく、重々しい扉に覗き窓がついていて、その奥に人の気配を感じる。
「早希、俺だ」
声を発した瞬間、早希の顔が扉の小窓から覗いた。
「久志いぃ」安心したのか、早希は顔を歪ませて声を涙で濡らす。早希の口元には、血に滲んだ青あざができている。
「奴にやられたのか?」早希がうなずく。
地下室に扉を開け放つ激しい音が響いた。弾みで早希は肩をすくめた。男に相当怯えているのが分かる反応だった。
「もう大丈夫、俺が絶対に守ってやるからな」
緊迫感を感じさせないように、できるだけ柔らかく言うと、早希は縋る子供のように涙目で頷いた。
「この家に他に人は?」声を顰めて訊ねると早希はふるふると首を横に振った。
わざとらしいほどゆっくりで不気味な足音が茫洋な空間に不気味に反響し、こちらに近づいてくるのがわかった。
「あいつ、奇抜な派手なバスローブを着てたでしょう?ここに私を閉じ込めた後、そのポケットにマスターキーを入れるのを見たの」
「いや、白いローブだったぞ。いや待てよ…あの部屋にあったのがもしかして…」
赤いバスローブが思い出したくもない拘束具のあった部屋に掛かっていたのを久志は思い出した。
よく見ると、早希は胸元と肩が開いた赤い服を着ている。床に光る粘液。壁の写真。早希の顔の痣。久志はつい先程まで早希の身に起きていた事を想い、胸が締め付けられた。
「久志?…」
薄らと鼻血がこびりつき、頬を乾いた涙に濡らしながら不安に駆られている早希の頬に久志は手を当てた。
「もう大丈夫だ」
久志は、傷つきボロボロになった早希の心に届くように、真っ直ぐに彼女の目を見て言った。
生暖かい温もりを、尊いと思う。誰よりも可愛いあの笑顔を、もう一度とり戻してあげたい。そのためならば、彼女がこの小さな身体で受けたどんな痛みにも耐えてやる覚悟だった。
「やれやれ、この地下を見られたのなら、ただで返す訳には行かなくなった」
男の言葉とは裏腹に、どこか嬉々とした狂気を感じた。不都合なら、なぜそんな楽しそうなのだろうか。
「囚われたお姫様とは再開できたか?だが、残念だったな。いいか、この地下は完全な防音。ここで例えどんな酷い事をして、どんな叫び声をお前らが挙げようが外には届かないだろう」
牢獄を一つ挟んだ向こう側に、男がゴルフクラブを引きずるように持っているのが見えた。
早希の未来を、笑顔を奪い、人生を踏み躙って弄んでいながら、下卑た笑いで肩を揺らす男に、久志は怒りで我を忘れてしまいそうだった。
久志は、男に相対する。
男は久志が現れるのを待ち望んでいたように、落ち着いているように見えた。男の片方に流れていた上品な髪はすっかり乱れ、知的な眼鏡の奥の目は血走っていて、狂気に取り憑かれているようだった。
「まあ、だが早希の目の前で私に土下座でもして情けない姿を晒すのならば見逃してやってもいい。そんな女、連れ出した所でいい事無いぞ。お前も見ただろう?その女がどれほど私の手で汚されて辱められ、私の従順なモノであるかを」
頭の中で何かが弾ける音がした。
久志は、担いでいたバックパックを盾にするように持ち換えると男に突っ込んだ。男は咄嗟に避けられず、それを受け止めながら、後ろの壁に激突した。
早希の叫び声が聞こえる。目の前に迫った男の顔を渾身の怒りを込めて殴った。
勢いで男の眼鏡が吹き飛び、そのまま側の壁に頭をぶつけて床に屑折れる。すかさず久志は男に馬乗りになり、バックパックを引き寄せるとそれを男の顔に振り下ろした。何度も何度も。
しかし次の瞬間、興奮で忘れていた肋骨の痛みが爆ぜた。
堪らず、蹲った。さらに脇腹に何か硬いものが激突した衝撃と共に、今度は床に転げ落ちた。
次から次へと全身を襲う激痛にブラックアウト寸前になった。
膝を立てて起きあがろうとする男の手に、ゴルフクラブが握られている。バックパックを振り下ろす隙に、負傷している脇腹をあの柄の部分で抉られたのだと分かった。
なんとしてでも起きあがろうともがく久志だったが、男はフラつきながらも先に起き上がり、嵩に回ると久志を冷たく、見下ろした。
久志の顔面を目掛けてゴルフクラブを薙ぎ払う。思わず顔面を覆った腕を鋭い風が切る。
そしてそのショットは何もないコンクリートの壁を派手な音を立てて抉っただけだった。
空ぶり。
意外な手応えに、男は歯を食いしばる。久志は男と視線が合わない事にピンと来た。
男を殴り飛ばした時に吹っ飛んだ眼鏡が床に転がっていた。男は眼鏡がなければ極端な視力不全なのだろう。
「おいおっさん。眼鏡、足元に落ちてるぞ」
男は一瞬だけ足を引いて足元を見る。その隙に全てをかけた。
今後の人生で、こんな痛みを感じる経験はどうか最初で最後であって欲しい。なんだかヤバそうな骨の軋む音を聞きながら、生命が感じる痛みの極限に触れながら、飛んでしまいそうになる意識にしがみついて久志は渾身の力で男にぶつかった。
低く体当たりしたせいで男はバランスを崩した。
男はそのまま空をもがきながら真後ろに倒れ、後ろの壁に頭を激突させた。
ゴルフクラブが床に落ちる乾いた音が響き、薄暗い空間に静けさが戻った。
久志は肩で息をしながらも卒倒した男を警戒する。しかし、身体に力が入らず膝を床に落とすと、そのまま崩れて倒れてしまった。
「久志…大丈夫?」
心配そうな早希の声が聞こえる。その声に応えようと久志は仰向けになって、首を声の方へ向けた。彼女の痛みに比べれば、自分はこの程度で何を大袈裟に痛がっているのだろうと、不意に可笑しくなった。
不安と恐怖に押しつぶされそうになりながらも、こちらの心配をする早希の為に、久志は立ち上がった。
関節を動かすたびに肋骨が悲鳴を上げルガ、歯を食いしばった。
赤いローブが掛かっていた牢に行き、ポケットを漁ると早希の言う通り、一本の鍵が見つかった。ついでに、正方形の妙な小型電子機器があり、よく見るとレンズが付いている。
男の物だろうと思うと気分が悪くなった。早希が囚われた牢を開けると、際どいコスプレ衣装の早希が現れた。
しかし、再会を喜ぶ事に夢中で、そんな事は今更気にならない。感極まった早希がこちらの怪我にも構わずに胸に飛び込んでくる。
全身に突き抜ける痛みに驚き悲鳴をあげると「あ!ごめん、痛かったよね…」と、しおらしく眉を下げた。
久志は微笑み、早希の細い肩を引き寄せ、できるだけ強く抱いた。
早希は、咽び泣きながら鼻を鳴らす。そして「怖かった、怖かったよぉお…」と、子供のように声を上げて泣いた。頭を撫で、震える背中を摩る。
心の中で「もう絶対に離さない」とくさい台詞を叫びながら、強く抱きしめ、しばし無言のまま早希が泣き止むのを待った。
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