新木久志の日常4

第29話


 

煉瓦作りの外壁に面したガレージの格子の奥には、何台もの高級車が鈍く光って停まっていた。

 

 

荘厳な家の佇まいを象徴するかの様に埋め込まれた黒い大理石のプレートには梶原と掘ってある。

 

 

久志は緊張しながらその直ぐ側のインターホンを押していた。返事はない。

 

 

焦る気持ちを抑えながら、周囲を見渡すと来訪者を監視するカメラを頭上に見つけた。きっと睨んでいる様に見えただろう。

 

 

気が急いていた。心臓の音が、雪景色の静寂の中で一際煩く耳に響いている。

 

 

 家庭にはそれぞれの事情があるだろうが、昨夜誰かに追われていたのは本当で、その犯人は他でもない、あの男が言っていたこの家の主人ではないのか。早希とはどんな関係なのだろうか。

 

 

先ほどの男が言っていたように、遠い親戚の娘を引き取った、と言うのが気になる。

 

 

宿で偶然見た、早希の白い肢体に浮かぶ痛々しい青痣が思い出される。もし噂が本当で、早希がその主人の娘なら虐待されているのかもしれない。

 

 

 喉が渇き、憶測が生々しい臨場感となって背中に迫る。気づけば久志は音沙汰がないインターホンを無遠慮に連打していた。

 

 

「どちら様ですか?」

 

 

 インターホンからくぐもった男の音声がする。

 

 

「あ、あの、僕は梶原早希さんの友達の者ですが。早希さんは?」

 

 

「…居ない。それ以上インターホンを押したら近所迷惑で警察をよ…!」

 

 

 不自然に通話が切れた。

 

 

 いや、そんな事より。にべもない、冷淡な男の声の裏側、久志は確かに聞こえた。

 

 

恐らくどこか距離のあるところから叫んだ声だ。自分の名前を呼ぶ早希の声を。

 

 

不自然にインターホンの通信が切れたのは彼女が叫んだからじゃないのか。

 

 

 久志は格子の扉のドアノブは捻ったが固く閉ざされていた。向こうに見える観音開きの扉を睨む。

 

 

「早希!早希!おい、いるのか!?ここを開けろ!」

 

 

 休日の夜と言う事もあって、近所のいたる家では暖かそうな灯りが灯っているが構わない。

 

 

久志は硬く閉ざされた門扉を叩き、近所迷惑も厭わず叫び散らした。

 

 

やがて観念したように観音開きの扉が開き、中から白いバスローブを纏った眼鏡の男が現れた。

 

 

刈り上げたサイドの片側に艶のあるパーマを流している。白い肌を胸元まではだけさせて、その胸元には金色のネックレスが光っていた。

 

 

 男は久志を見ると、にっこりと人の良さそうな笑顔を作って寄ってきた。

 

 

「そんなに騒ぎ立てないでくれるか?近所に迷惑だろう?」

 

 

 ふわりと甘い匂いが鼻を掠める。男の周囲には強いコロンの匂いが充満していた。

 

 

「早希はどこだ、無事なのか!?」

 

 

「おいおい、人聞きが悪い言い方をしないでくれよ。娘はここにいない。どこか友達の家にでも遊びに行っているんだろう。どうしたんだ、そんなに慌てて」

 

 

「電話もラインも繋がらないんです。今夜、彼女と会う約束をしてたんですけど、こんな雪だし心配で」

 

 

「…ふーん。なあ君、娘は美人だし正直モテるだろうよ。友達だって沢山いるし、君はあれだ、こう言っちゃ悪いが弄ばれたんじゃないか?どう見ても…なんて言うか…歳の差が有る様に見えるし。娘とどういう関係なんだ?」

 

 

 久志は返す言葉に困った。そんな場合では無いと言うのに。

 

 

「まあいいさ。帰ってきたらきちんと叱っておくよ。人間関係には節度を持てってな。ああ、そうだ一応あんたの名前を聞いておいていいかい?できれば、年齢も」

 

 

 早朝の誰もいない列車の最後尾に、毎日憂鬱そうに座っていた頃の早希を思い出した。

 

 

あの制服の内側にも青痣があったのだろう。

 

 

今まで誰にも言えない傷を隠しながら学校に通っていた早希の痛みを想うと、あの橋の欄干を、命の綱渡りのように歩いていた自殺未遂にも似たあの凶行も頷ける。

 

 

それもこれも、全て目の前で軽薄に笑うこの男のせいだというのだろうか。

 

 

「彼女の左脇腹や背中。特に胴体を中心に腕や膝にも痣がありました。何か知りませんか?」

久志は声を低くして男を睨んだ。

 

 

「…あんた、何者だ?私服、警官か?」

 

 

「梶原早希さんの友達です」

 

 

「…まったく」

 大きなため息を吐き、男は歩みながら胸元に手を入れた。咄嗟に身構えたが男は内側の門扉に身を寄せると札束を取り出し、ソレを目の前に差し出した。

 

 

「早希の何を知っているか分からないが、あいつはお前には救えない。悪いが、この金であいつの事はきれいさっぱり忘れてくれないか?いい大人なら合理的な判断が出来るだろう?もちろん、このままこの金を持って大人しく引き下がってくれるなら通報だってしないでおいてやる。あと何度も言うが、早希はここには居ない。」

 

 

 約1センチの万札の束が100万だと言うが、その差し出された束はそれ以上にあるような気がした。

 

 

久志は呆然とした表情で札束に手を伸ばした。札束に伸びる久志の手を見て、男はニヤリと笑った。

 

 

しかし次の瞬間、久志は扉に体当たりをしていた。久志は差し出された札束に引き寄せられるふりをしただけで、男が近づいた事で内側から電子錠が解除される音がした事に意識を向けていたのだ。

 

 

 雪の上に投げ出された男は尻餅をつき、男のローブがはだけ、濃いすね毛が茂った脚が覗く。

 

 

 その隙に久志は男が出てきたばかりの観音開きの扉から玄関に侵入した。

 

 

「早希!」

久志は、腹に渾身の力を入れて喉を震わせた。

 

 

「おい、待て!」

 家の中に入って直ぐに薄暗い廊下が広がっていた。彼女の居場所がまるで分からない。

 

 

緊張しているのか、早鐘を打つ心臓が頭をガンガン揺らしていた。中に他に人が居ないとも限らない。今更になり、思い切りすぎた行動をした事に怖気付きそうになった。

 

 

「早希、どこだ!?」

 叫び、当てずっぽうで家に踏み入ると後ろから男の声が矢のように飛んでくる。

 

 

「お前、いい加減にしろ」

 

 

「な、投げ飛ばしてすまない!俺はただ早希に逢いたいだけなんだ」

 

 

 憤然する男の声に、萎縮しながら反論する。今更、起こしてしまった大胆な行動のプレッシャーに押し潰されそうだった。

 

 

「不法侵入してまで親から人の娘を引き剥がしたいってか?ならこっちも相当の対策を取らせてもらうからな」

 

 

 男は玄関に置いてあったゴルフバックの中からゴルフクラブを引き抜いた。有無を言わせない戦闘態勢に久志は家の奥へと逃げるように駆けた。

 

 

適当な部屋に入ると、高級そうなシャンデリアがぶら下がる広いリビングに出た。

 

 

 迫り来る男から逃げ惑っていると大きなテーブルを挟んで男と相対する。

 

 

「早希!どこだ!いるなら返事してくれ!さっきインターホン越しに助けを呼んでたよな!?」

 

 

 久志は男を睨みながら叫んだ。男はマウンドに立つバッターの様にいつでもクラブをスウィング出来る様に身構えている。

 

 

「あの子は誰の助けも必要としていない。いい歳した男が勝手に娘に干渉しやがって、ヒーローになったつもりか?勘違いするな、悪党はお前だ。よってこれは、家族を守るための正当防衛、だ!」

 

 

 男はゴルフクラブを振りかぶった。久志は後退して避けたが、ショットクラブはテーブルの上のグラスやら酒の入ったボトル便を薙ぎ払い、けたたましい音が響く。

 

 

「ちょ!ちょっと!待ってくれ!それはさすがに危ないってぇえ!?」

 

 

 ゴルフクラブが往復してくる。久志はテーブルを抜け、どこに向かっているかも分からずに広いリビングを見渡し、目に入った扉に駆け寄る。ドアノブをひねりながら体当たりをするがドアが開かない。他の扉に駆け寄ろうとするが、その一瞬の隙に男が追いつき、久志の腹部目掛け、男はクラブを振った。

 

 

肋骨辺りに衝撃が弾け、その激しい波は喉を駆け抜けると唾液と共に口から吐き出された。

 

 

息が出来ない。

 

 

 背中を折りながら状況を把握しようと男に顔を向けると、一撃を食らわせた事に僅かに口端を吊り上げるのが見えた。

 

 

「は!扉は押してダメなら引いてみろって知らないのか?」

 

 

 言った直後、男はとどめの一撃を与えようと真上にクラブを振り上げた。

 

 

その瞬間、耳をつん裂く様な破裂音と同時に目の前が明滅する。

 

 

振りかぶったゴルフクラブがシャンデリアを直撃していた。

 

 

「ぐあ、くっそう…」

ガラスの破片が男に降り注ぎ、堪らず蹲りながら唸っている。足の裏にガラスの破片が刺さったのか、男は跳ねるように片足を持ち上げた。

 

 

 その隙を見計らい、久志は先程入りそびれた扉に戻り、今度はドアノブを引いた。

 

 

再び広く薄暗い廊下に出た。胸に鈍い痛みを抱えながら走り、息を大きく吸うと肋骨が悲鳴を上げ、その痛みに蹲りそうになる。

 

 

骨にヒビが生えているかも知れないと思ったが、そんな心配は二の次だ。

 

 

「早希!どこだ」それでも叫ぶ。

確かに聞いたインターホン越しに叫ぶ声を。今はただその助けを呼ぶ声に、粉骨砕身の想いで応えてやる。

 

 

「久志!」

 

 

か細く、くぐもった声が暗がりから聞こえた。そこは階段室だった。冷気を吸い込むような暗がりが地下に伸びていて、久志は唾を飲み込んだ。

 

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