梶原早希の日常3

第28話


外では予報通り雪が降ったらしい。新雪に刺さった一枚のメモは街のクリスマスカラーのネオンに照らされて、残酷な内容を示記していた。

 

 

コンクリートに囲まれた薄暗い地下室は冷たく静まり返り、私の咽び泣く声だけがしばらく響いた。

 

 

久志はもうあの場所にいない。

 

 

彼の事だから、どうせ所詮は子供の私の気まぐれだったのだろうと、子供に揶揄われた大人のように、鷹揚に諦めたのかもしれない。

 

 

この短い付き合いで、どれほど私と久志の間で信頼関係が築けたのかは分からない。

 

 

しかし、それまでの僅かな思い出も関係なく、容赦なく壁を隔てて終わりにしてしまうような、どこか自虐的な筆はとても彼らしいと思った。

 

 

 さようなら。さようなら。さようなら…。

 

 

もの寂しげな筆で書かれたその言葉が、あの頃から声変わりをしていない彼の声で頭の中をループする。

 

 

ふざけるな。お前はまたそうやって…

 

 

「この男のSNSにお前の写真が載っていて驚いたよ。金曜日のあの日、実はお前にこの事について問いだしてお仕置きするつもりだったが、あの日はまんまと逃げられた」

 

 

すぐ側で雑音が鳴っていた。

 

 

酷く耳障りなそれを大声でもあげて黙らせたかった。爆発しそうな心臓の高鳴りが頭に響いて視界がグラグラする。

 

 

胸に再燃した赤黒い感情の正体は、甘い恋人ごっこで忘れかけていた、私にとって一番大事な清々しい怒りだった。

 

 

「この男と駆け落ちでもしようと待ち合わせをしていたんだろう?お前が俺の金で買った服はその為の準備か?…はっはっは、だがそれも叶わなかった。書置きなんてして、この男は惨めなもんだな」

 

 

髪を掴まれた。愉快そうに歪む男の顔が直ぐ近くにあった。

 

「この男とヤッたのか?ん?無理だろうな。こんな痣だらけの醜い身体など誰が抱きたがる?」

 

 

今度は笑いながら男の手が私の頭を撫でる。

 

 

その無遠慮な私への接触が、この男の前では、諦めることしかできなかった、遠に消えて冷え切っていたほんの僅かな抵抗の意識に、火を灯した。

 

 

冷たいコンクリートに打ち捨てられていた、屍のような私の手が、硬く握られる。

 

 

「さよ…なら…なん、て、…あ…ぜ…ない」

 

 

「あ?なんか言ったか?」

 

 

男が顔を覗き込んでくる。酒臭い息が鼻にかかる。男の傍の三脚に固定されたビデオカメラが私に向いていた。

 

 

録画中の赤い光が不気味に点滅を繰り返している。

 

 

今夜で、最後だ。これから苦痛や屈辱を与えられる未来は変えられない。その先の真っ暗な闇に、進むべき光を探し当てるためには、その地獄に自ら足を踏み出さなければならない。

 

 

ならば、この男の欲望の捌け口に、堂々となってやろう。

 

 

私の知らない何処かで、こちらの気も知らずに、情け無く膝を丸めているだけの彼に、この怒りをぶつけるまで、どんな地獄の業火だって屈辱だって耐える覚悟だ。

 

 

私は立ち上がると、男を見据えた。

 

 

「お?どうし…!?」

 

 

私は男の口を塞ぐようにキスをした。数秒唇を重ねてから、頬や首筋をなぞるようにして唇で優しく啄む。

 

 

従順な証を示すように、男の胸糞悪い嗜虐趣味をそっと撫でるように。

 

 

「ようやく身の程をわかってくれたみたいだな。お前は俺のものだ。嬉しいよ、早希」

 湿り気を帯びた手が私の髪に拭いいつけられる。

 

 

「はい、お父様。あの、こんな涙や鼻水で濡れたお顔じゃお父様がせっかく用意してくれた衣装が台無しなので、お顔を洗ってきてもいいでしょうか?」

 

 

「何を言ってる、どうせこれから汚れるんだからこのままでもいい」

 

 

私はカメラを見ながら微笑みかけた。

 

 

「いいえ、お父様の大事な作品の良さには全て緩急があります。初めは艶やかな衣装を纏った清潔な私が現れる。お父様の巧みなアイディアで溢れた命令や奉仕に従う内に次第に乱れ、やがて目を覆いたくなるような激しい映像になっていく。それがお父様の作品の醍醐味ではありませんか?」

 

 

気づくと私は微笑んでいた。驚くほど冷たく、妖艶に。

 

 

「ほう、よくわかっているじゃないか」

 

 

私は頬を蒸気させ、唇を僅かに開いて物欲しそうに、扇情的な視線を男に向けた。

 

 

男は息を乱しながら、わかりやすく股間を大きくしていた。私は吐き気を抑えながらそれでも微笑む。

 

 

「じゃあ、早く顔を洗ってきなさい。私はここで準備して待っているよ」

 

 

 地下空間の一角のシャワー室。銀色のノズルから白い大理石のバスタブに落ちる水滴の音がやけに大きく響いていた。

 

 

男の欲望を全身全霊で受け止めた後、痛みと屈辱でボロボロになりながら、あのシャワーカーテンの内側で咽び泣いた苦い日々を、私は思い出していた。

 

 

暗い照明に浮かぶ化粧台の鏡に浮かぶ私の顔はまだ最後の復讐を諦めていなかった。

 

 

冷たい水で顔を洗うと、化粧を直すそぶりをしながらシルクコットンの箱から小型カメラを取り出した。

 

 

この小型カメラこそ、何もかも男に監視されて身動きのできなかった私が財布を失くしたふりをして最初に買った武器だった。

 

 

男は行為の後なら私に付き纏わない。欲望を吐き出し、満足した直後の男は、私が悔しさに喘ぎながら汚れた身体を洗う所になど何も興味を示さない。

 

 

おかげで、この空間である程度の自由を手にする事が出来た。その間男は、作品などと大袈裟な呼称をした、私をコスプレさせて好き勝手凌辱する自主制作AVの編集に勤しんでいた。

 

 

親指ほどの小さなカメラの電源を入れると、小さな赤いランプが点灯しすぐに消えた、録画を開始した合図だった。

 

 

側で爆発が起こったような音に、私の肩は跳ね上がった。

 

 

扉が壊されるような勢いで開き、怒りをむき出しにした男が腕を振り上げたのが見えたのはほんの一瞬だった。

 

 

視界が大きく揺れ、衝撃でバスタブに身体を打ちつけた。何が起こったのか確認するため顔を上げようとすると、髪を引っ張られた勢いで頚椎に鋭い痛みが走った。

 

 

照明の逆光になっているせいでこちらを覗き込む男のシルエットが黒く浮かぶ。

 

 

次の瞬間、脳を揺らすほど重い衝撃が頬で爆発する。

 

 

いつもの平手打ちとは違い、硬くて重い。衝撃が大きいそれは男の拳が頬に振るわれたのだとわかった。

 

 

「は?は?は?は!?かお…かお…ああ、俺、ついに顔を、拳で殴ってしまった…拳で、殴ってしまったじゃないかぁ!!」

 

 

口の中に血の味が広がっている。

 

 

這いつくばっている白い床がぐらぐらと揺らぎ、血液の玉がボタボタと大きな点を作ってゆく。口の中を大きく切ったか、鼻血が出ているのかも知れない。

 

 

急に殴りかかられた理由は明白だ。私は白い床に転がるカメラに、霞む視界の中で手を伸ばしていた。あれは、私の、梶原早希の希望なのだ。

 

 

けれど、どのタイミングでバレた?最初からカメラの所在を分かっていたとしたらここに来ることを許すはずがない。だとしたら監視されていた?いつから…

 

 

男は、這いつくばる私のお腹につま先を引っ掛けて蹴り、仰向けにする。

 

 

照明程度の逆光さえ眩しい。黒い男のシルエットの指先に何かが握られていた。

 

 

「こんなものまで持っているとはな。お前の自由は今後、家の中にすらないからな。覚悟しておけよ」

 

 

もしかすると私が家出をしている隙に、私を徹底的に監視するため、家中に監視カメラを仕掛けたのかも知れない。

 

 

「せっかく綺麗な顔に、これじゃあ青あざが残ってしまうじゃないかぁ。これじゃあ学校も行けなければ、外出もできないなぁ。お前はしばらく監禁しておかなければならない。はは…どうだ、嬉しいか?」

男は肩で息をしている。

 

 

プライドが高く、常に他人を服従させておかなければ気が済まないこの男にとって、私が従順だと思い込んだ直後の、裏切りへの怒りは底知れないだろう。

 

 

そして、未だかつてない私のこの反逆行動はきっと彼の想像の範疇には無かったはずだ。

 

 

男は私を辱め、痛ぶるという悪趣味を持っていながら、顔は殴らないという妙な拘りを持っていた。

 

 

しかし、それがいとも簡単に崩壊する程、理性を無くした今のこの男は、今から私に何をするか分からない。

 

 

頬の痛みを感じながら血の気が失せるような薄寒さを背筋に感じる。

 

 

「おい!お前が俺に何をしたのかわかってるのか!!ああ!?」

 

 

男は歯を食いしばり口の端に興奮したように泡をためていた。目は血走り、濁った黒目が不安定に揺れている。

 

 

「いや、いや…いやあぁ、」

 

 

これまでにない痛みと苦痛の想像が、私の全身を駆け巡る。恐怖が全ての思考を支配し、私の口からは情けない声しか漏れない。

 

 

「…………く、くはは。くはははは…」

首を小刻みに振る私をじっと眺めた後、男は不穏な笑み私に降らせる。

 

 

「口を切って鼻血を垂らした痣の浮いた顔が、苦悶に歪む表情もなんともいいじゃないか。ああ、これもこれでアリかも知れない」

 

 

「いや、いやあああ…」

 

 

私は意味が無いと分かっていながら、死にかけの芋虫ののように男から這って逃げようとした。しかし、すぐに髪を鷲掴まれる。

 

 

「これからどれだけ痛ぶる必要があるだろうな。今夜からこの地下にお前を監禁する。一体何ヵ月、いや、何年かかるだろうなぁ。とは言っても、治っていく過程でまた傷を増やしながら俺の作品に堕とされ続けていくだろうが。もう一生お前に、自由などないと思え」

 

 

「いや!いやああああ!」

 

 

もう、何も考えられない。恐怖だけが全身を支配していた。

 

 

無駄な抵抗だとはわかっても足元から這い上がる恐怖から逃げる為に、叫び、暴れずにはいられなかった。

 

 

ピンポーン。

 

 

この場所には場違いすぎるほど間の抜けた音が反響する。

 

 

一瞬、気のせいかと思えたが男も空を睨んでいる。またすぐに同じ音が響いた。今度は確実に、この歪な地下空間に場違いな電子音が広がった。

 

 

 誰かの来訪をインターホンが告げている。虚空を睨んでいたはずの男の血走った目が、私を捉えていた。

 

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