第35話


校庭を出た所で、久志は動悸を抑え、そっと便箋を開いた。

 

 

「久志くんが貸してくれた銀杏BOYZのアルバム聴きました。正直、どれもガチャガチャしてしててよくわからなかったよ。でもベイビーベイビーって曲は急にすごくキャッチーなメロディで聞き入っちゃったな。一途な男の子のド直球な想いを歌い上げるボーカルの人の声にキュンキュンしたよ。私もね、こんな風に久志くんの事思いながら、ふと窓の外の風景とかみると、何も変わらないいつも通りの風景のはずなのに、何もかもが輝いて見えたりする。私はこの曲が大好きになりました。同時リリースのもう一枚のアルバムも早く聴きたいかも。PS 漂流教室って曲、楳図かずおの漂流教室の雰囲気と全然違くて拍子抜けして笑っちゃった。アキより」

 

 

 何度読み返しただろう。鳴り止まない鼓動は高く、激しく、躍っていた。きっとこの現象に名前をつけるとしたら。

 

 

「恋?」

 

 

 帰りの電車の中、手紙を胸に当て天井に呟くと、周りの人の視線が一気に突き刺さる。慌てて取り繕いながら、我ながら何かに没入した時に周りが見えなくなる癖を悔やむ。

 

 

頬を熱くしながらiPodから銀杏ボーイズのアルバムを選んで再生する。ベイビーベイビーを聴きながら久志は、最初に手紙をもらった時のことを思い出していた。

 

 

 あれは今日よりも何もなかった、春の放課後。下駄箱の中の見慣れた外履きの上に白い便箋を発見したとき、ついに自分にも春が来たかと胸を躍らせた。

 

 

「突然の手紙でびっくりさせちゃったよね、ごめんね。ちなみに私は女だけどラブレターじゃないから安心して。いや、むしろそっちの方が期待はずれだった?初めまして、新木くんの姿を一方的に知っている私はアキと申します。って、これペンネームなんだけれど。でも今はそれでいいのです。先ずは君と同じ学年ということだけヒントを与えておきます。あなたは私より相手のことを知らないわけだけれどさ。スタートはここから。徐々にお互いの情報を解禁していこうじゃないか。だから私は、もっと新木君のことを知るために、手始めに言葉を交わす試みをしました。もし良ければ、これからこんな風に手紙のやり取りをしませんか?明日の放課後、こんな私の突然の申し出を受け入れてくれるのなら、新木君の下駄箱に返事をかいた手紙を入れておいてください。楽しみに待ってます。PSせっかちは嫌いだよ」

 

 

手触りのいい上質な白い便箋に入っていた、同じ素材の真っ白な手紙には、シャープペンで書かれた綺麗な文字が整然と並んでいた。

 

 

女子からのメッセージにしては先ず見た目がとてもシンプルで無味乾燥。何より酷く一方的な内容が綴られていた事に驚いた。

 

 

自分の事をひた隠して返事を寄越せなど、自分勝手にも程がある、と最初は不愉快だった。しかし何度か読んでいく内に、その謎めいた雰囲気に惹かれていった。

 

 

だから久志は、B5ほどの用紙いっぱいに綴られていた彼女の手紙に対して、彼女の要求に答えた上で、たった一言、こう返事を書いてやったのだ。

 

 

「いいよ」

 

 

 そのたった一言を、ノートを破いただけの切れ端に、極太のマッキーで書いて彼女の指示に従った。その翌日の朝にはすぐに返事があった。

 

 

「いいよって、どっちのいいよ?手紙を交換してくれるってイエスって意味のいいよなのか、そういう煩わしい事はしたくないって意味なのかどっちよ!?」

 

 

明らかに動揺した文面を見て久志は笑いを堪えられなかった。もちろん、イエスという意味で返事を書いたのだが、彼女の慌てっぷりに、勝手に抱いていたミステリアスさが失せて親近感が湧いた。

 

 

せっかちな人が嫌いなどと言い退けておきながら、こちらの冗談にふくれっ面をしながら、真相を急く子供のような人間味あふれる愛嬌さに、さらに興味を抱いた。

 

 

彼女の事をもっと知りたい。それからというもの、久志は彼女の情報は同学年という事以外を知らないまま、ただたわいもない日常会話をするだけの手紙のやりとりを繰り返した。

 

 

朝、登校と同時に返信の手紙を下駄箱に忍ばせ、その返信が放課後に置いてある手紙のやり取りは、それから絶える事なく半年間続いている。

 

 

趣味の話、家族の話、友達の話、学校行事の話。数えたらキリがないが、彼女は質問が多く、久志はそれらにエピソード話を加えて応える事が多かった。

 

 

楽しみは後に取っておくタイプの久志は、ただ彼女が誰であろうと、どうでもよかった。

 

 

何も起きないつまらない日常だからこそ、謎めいた彼女とのやり取りを特別なままにしたくて、未だに彼女の正体を知らないまま、久志はこの手紙のやり取りを生活のルーティンに溶け込ませていた。

 

 

 久志は文化祭の写真展にも出展予定だった写真を彼女への手紙に添付した事があった。彼女は、木陰で風を待っている猫の写真を気に入ってくれ、写真立てに入れて勉強机に飾っているのだと言ってくれた。

 

 

それを聞いた時は、人目も憚らず、帰りの電車の中で興奮する猿のように飛び跳ねたほどだ。

 

 

 この日も、家に帰ってアキへの返事を考えていた。そこでふと広瀬先輩の言葉が頭をよぎった。

 

 

「自分の撮った写真に自信と敬意をちゃんと持てよ」

 

 

正直、最後の先輩の言葉は胸に刺さった。図星だった。

 

 

本当は、広瀬先輩のような、誰にもでも認められるような写真を撮り、表彰される事も、田中先輩や桐林先輩のように自己満足を押し売るような、承認欲求を振りかざす写真にも興味はなかった。

 

 

かといって、自分の撮った写真のどれも、いまいち好きになれなかった。撮る瞬間こそ、そのシーンの貴重さに思わずシャッターボタンを押すほど魅了され、興奮を覚えていたものの、その直後から渚の波が引くようにその時の写真がどうでも良くなった。

 

 

誰かにつまらないと言われようが、身の丈に合った日常のスナップ写真を、撮り歩く理由。それはやはり、カメラを持ち、ファインダー越しに、自分にとって何か変化が起きるような特別な瞬間を、いつか写せるかもしれないという期待を抱いているからだ。

 

 

それは例えば、風を待っている猫を撮れた瞬間だった。何故なから、アキに自分の写真を好きだと言ってもらえたのだから。広瀬先輩に自分の写真を認められた事より、何倍も嬉しかった。

 

 

あの写真は、何も起きなかったつまらない日々の、何の変化も映らなかった日常風景の失敗写真では無かったんだ。

 

 

「迷っているなら僕は人が主題の久志くんの写真を見てみたいかな」再び、広瀬先輩の言葉が頭にリフレインする。

 

 

気づけばアキへの返事を認める筆が勝手に動いていた。

 

 

 アキが側にいる日々を想像してみる。そんな写真を撮れたら、何というか、最高かもしれないと、漠然と思った。

 

 

「もしよかったら、銀杏ボーイズのアルバムを直接貸してあげるよ。今日アルバムを持って午後5時に学校近くの稲木神社で待ってます」

いつかの彼女のような、酷く自分勝手で一方的な提案を認めて丁寧に便箋にしまって鞄に入れた。

 

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