第10話

 梶原早希との再会に浮かれて日曜日は朝から酒を浴び、気づけば夕方には寝落ちして、毎週御多分に漏れず仕事が巡ってくる月曜日に日付は変わっていた。



当然、二日酔いになっていた。

 

 

一人宅飲みで二日酔いになってしまう虚しさで余計に頭が痛かった。

 

 

 出勤のため家を出ると、藍色の空にはまだオレンジが溶けていて太陽は登っていない。澄んだ空に登る白い息はどんどん高くなる。

 

 

寒さに身を縮め、期待しすぎない程度に、昨夜の高揚感の余韻と頭痛とともにいつものホーム、あの車両を目指した。案の定というべきか。彼女はやはり、そこにいなかった。

 

 

 昨夜のやりとりを思い出してみた。やはりというか当然というか、彼女は自分のことを知らなかったように思う。

 

 

始めからそんな期待は捨てていたのに、突きつけられる現実に傷つくのは未だに慣れない。

 

 

ひとりぼっちの車両に、暖かな朝日が差し込み始めた。スポットライトのように久志に降り注ぐそれは、心に寒風吹き荒ぶ悲劇の主人公気取りな傲慢な心を、そっと暖めてくれた。

 

 

「えー、お客様にお詫び申し上げます。先程登戸駅で人身事故が発生したため現在小田原線新宿行きの運転を見合わせております。なお、運行再開につきましては現在状況を把握している状況ですので、新たな情報が入り次第お伝えいたします。繰り返します~」

 

 

 いつもの寝言のような口調ではない。はっきりと凛々しくアナウンスする車掌の声が、項垂れる久志の肩を余計に重くさせた。

 

 

やがて、最初のアナウンスから30分もすれば通勤ラッシュの時間に突入した。

 

 

快速急行のホームは足止めをくらった新宿方面に行きたい乗客で埋め尽くされていた。

 

 

既に待機中の急行車両の車内は、これでもかと具材がパンパンに詰まった巻き寿司を思わせた。

 

 

パーソナルスペースなどと言う社会通念はこの出勤ラッシュと言う戦場には存在しない。リクルートスーツと言う戦闘服の戦士達は我先にと、なるべく早く電車が運行再開してくれることを願いながら汗ばんだ身体を密着させて詰まっている。

 

 

中には、不満を膨らませる人がすし詰めになっているのだから神様がいたらこれを、地獄巻きと名付けるのだろうか。

 

 

各駅停車もほぼ同じ様子だった。

 

 

快速急行と違うのは、とりあえず出勤や通学をしているという既成事実を作りつつ、潔く遅刻する事を選んだ人達ばかりなので、割と緩い空気に密集されていた。

 

 

しかし、辛うじて座れてはいるものの、いつもなら足すら伸ばせる環境に身を置く久志にとっては満員電車に密集された車内は苦痛でしかない。

 

 

 なんとなく窓の外に視線を向けたその時だった。

 

 

この車両の様子を覗き込んでから、呆れたように息を吐き踵を返す梶原早希の姿があった。

 

 

久志は反射的に立ち上がる。

 

 

目の前の学生が舌打ちをしながら退き、久志の肩を枕にうたた寝をしていた中年男は支えを失ってだらしなく姿勢を倒壊させていた。

 

 

 駅のホームに出、不満で溢れる群生の中で彼女を探した。

 

 

人混みの濁流になっている階段の中で、赤いマフラーの女子高生が目に入った。

 

 

どうやらホームを後にするようだ。久志は後を追う。

 

 

人混みに紛れて見失なわないように階段を登る彼女の後ろ姿を見続けていると、白い脚にかかる短いスカートがひらひらとはためいていて、不意に黒いレース調の生地が包む小さなお尻の丸みが見えた。

 

 

狙ってないとは言え、眼福に授かった紳士は当然。そう、当然、目を伏せた。

 

 

早希は改札口の人だかりのできている一角で、困ったようにスマホをいじり始めた。

 

 

久志が早希に近づくと、彼女の方がこちらに気づく。

 

 

「ん?あれ、ヒサシさんじゃん。おっは~」

 

 

 想像していたより随分陽気で、心の準備が整っていなかった久志の心臓が跳ね上がった。

 

 

パンチラの衝撃よりも動悸が激しいのは我ながら情けない。

 

 

「あ、ああ…おっは~」ぎこちない挨拶に彼女は悪戯っぽく微笑む。おっさんがおっはーなどと気持ち悪かっただろうか。

 

 

明朗な笑顔に、久志の心は暖められていく。

 

 

「いや、顔死んでるし」

しかしどうやら顔は死んでいるらしい。揶揄う彼女の周りの雑踏が切り取られて彼女しか見えなくなる。

 

 

 

「ヒサシさんも新宿方面?」久志は慌てて首肯する。

 

 

 

「じゃあ同じ通勤通学難民だね。人身事故なんて最悪だよね。なんでも、線路に侵入した誰かが、レールの上で泥酔して寝てたんだってさ。マジでやめてほしい」

 

 

 呆れたように言い放つ彼女。そういえば久志は運行中断の理由をよく知らなかった。人身事故とアナウンスで言っていた、ならばと、久志はその後の顛末を想像して顔を引き攣らせた。

 

 

「ああ、轢かれてはいないみたいだよ。ただ、線路がゲロまみれらしくてその掃除で時間食ってんだってさ。現場のショート動画上がってるけど見る?目覚めるかもよ?」

 

 

久志はフルフルと首を横に振った。

 

 

 

「てか、なんでさっきから喋らないの?」

 

 

 正直レール上で寝ゲロして人様に多大な迷惑をかけているどこぞの馬の骨などどうでもいい。

 

 

久志は、この駅で早希に会えた感激で涙腺が緩んでいるのを必死に堪えていたのだ。

 

 

「…まあいいや、てかさ。久志さんってサラリーマンだったんだね。うん、なんかスーツだと締まるね。昨日は大きいカメラ持って街を徘徊して挙動不審でなんか痛い感じの人だなあとか思ってたけど」

 

 

 久志はひと昔前の芸人のように、何もないのにその場で転び掛けた。

 

 

「酷いイメージ、ですね…」ようやく会話のキャッチボールを放ったが、早希は苦い顔をしてボールを受け取る。

 

 

「ねえ、とりあえず敬語やめてよ」

 

 

言われて、久志は慌てたながら彼女に従う。

 

 

「よ、よくそんな怪しい奴にポトレなんて撮らせてくれた、な!」

 

 

 ふひひ、と彼女は愉快そうに笑った。その独特な笑い方に、今までこの駅で見てきた暗い彼女の面影はどこにもなかった。

 

 

「だって、オドオドしながら警察の人に大袈裟に騒ぎ立てられて気の毒だったんだもん。でも、助けて正解だった。だってあんなエモい写真撮ってくれたし、友達とかにも教えたんだけどみんな大絶賛だったよ、ほら」

 

 

 スマホの画面をこちらに向けてくれる。その画面には友達同士のグループラインのページが映し出されていて、早希の写真の話で持ちきりだった。

 

 

「情けは人の為ならず、ってね。女子高生が路上で困ったおじさんを助けるボランティアでも始めたら、得すること増えるかも」

 

 

とんでもない事を滔々と、無邪気に言う。

 

 

「絶対に犯罪に巻き込まれるからやめなさい!」と、久志は釘を刺しておいた。

 

 

「そういえば、ヒサシさんのフォロワーもすごい増えてたじゃん。いいねもメンションもエグかったし、これはバズったといって過言じゃないよね」

 

 

 そう言えば昨夜はあのまま寝落ちて、今朝からその後の反響がどれだけ伸びたのか確認していなかった。

 

 

「一晩で1万5000いいねなんて一生友達に自慢できるステータスだわ。あーあ、自分のアカウントでアップすればよかった」

 

 

 早希の言ったことは本当だった。

 

 

確認すると、会話の側から今もいいねが増え続けている。

 

 

どうやら拡散はまだまだ続いているらしい。

 

 

足元の地面が不意に消えたような、ふわふわとした非現実感が漂う。

 

 

 

「コメント読んでて気づいたけど、なんでもエピソードありきの写真が受けてる感じしない?例えばこの、人生危機一髪のおっさんを救った女神がその辺のJKって、なんか二流の深夜アニメっぽい展開だけど、それがもしリアルなら二人の今後の関係が気になるよね。とか、あ!このコメント見てよ。美女と野獣、いや美人とおっさん?これは昔で言う所の電車男的構図でおっさんを助けた好感度がJKブランドの相乗効果もあってそこらへんのJKより100倍くらい魅力が引き立ってる、とか。てか、電車男って何?知らんけど」

 

 

「おっさんで悪かったなおっさんで!」

 

 

「そこやっぱり気にしてるんだ」一瞬鼻で笑われた気がして、一生冷静でいることを神に誓った。

 

 

「この数字エグいね」何やらあくどい笑いを浮かべて早希はスマホを見せてくる。

 

 

そこには三桁だった数字が一晩で四桁に変わっている光景が映し出されていた。

 

 

「す、すごい…」「ふっふーん。私のおかげだね。ほらほら褒めて褒めて。そして敬い崇めたまえ」

 

 

 

 早希は腰に両手を当てて白い鼻息が見えそうなほど得意げに息を吐き、仁王立ちをする。

 

 

不遜する生意気な態度も、正直かわいい。

 

 

素直に褒めてあげたいが、なんだか「おっさん」が、女子高生相手に素直に褒めるのは気恥ずかしく、格好悪い気もした。

 

 

「その態度鼻につくな。俺のカメラの腕のおかげってのもあるんだからお互い様だろ」

 

 

「久志さんの他の写真、どれも私の1000分の1しかいいねついてない。これでも私のおかげじゃないとでも?」

 

 

 

 早希が示しているのは、ある夕暮れにカメラを持って散歩していた自分の影を撮った写真だ。低い斜陽に伸びて巨人のようになっていた長い影を、アンニュイな雰囲気を意識して撮ったものだ。

 

 

恥ずかしいことに写真には「孤高」とタイトルも入っており、改めて見せられると羞恥の極みだ。

 

 

「私はただ頭を撫で撫でしてくれたら満足するのに、久志さんのために頑張った私は、ご褒美すらないんですか?」

 

 

上目遣いなんて卑怯だ。

 

 

しかも、頭、撫で撫でなど、この殺伐とした人混みの中で、スーツ男が女子高生にしていたら周りにどう思われるだろう。

 

 

久志の中のありとあらゆるアラームがけたたましく鳴り響く。

 

 

動揺してあちこちに動く眼球をなんとか早希に定めると、彼女は頬に妖しい笑みを貼り付けていた。

 

 

 揶揄われている事を自覚し、今度こそ大人らしい態度を意識し、深呼吸をして脳内のアラームを落ち着き払って止める。

 

 

「な、なでなでなんてするかよ。おっさんをからかうな」

 

 

「むう、つまんな!」早希はつま先で地面を弾いた。

 

 

「まあでも、こんなに自分の写真が評価されるなんて思わなかったから、それは感謝してる。きっとモデルがいいからなんだよな…」

 

 

横目で早希を見ると、彼女はその先の言葉を期待するように目を輝かせていた。

 

 

「と、撮らせてくれて、その、ありがとう…」

 

 

「からの?」

 

 

早希は、可愛く小首を傾げて何かを急かしている。久志の頭には彼女は欲しているものが漫画の吹き出しのように見えているのだが、そう易々と乗るわけにわ行かない。

 

 

つまらない、大人のプライドのために。

 

 

「…な、なんだよ。だからありがとうって言っただろう」

 

 

「ちょーつまんな!しかも、ただお礼を言うだけなのにずいぶん回りくどくてダサい」

口を尖らせて言った後、しかし、言葉とは裏腹に早希はどこか満足そうに微笑んだ。

 

 

 

 なでなでしたい気持ちは山々だが、こんな公共の場所でなでなでなんてしたら、社会人生命に関わる地雷を踏んでしまう気がした。

 

 

「ねえ、これを踏まえて私思いついたんだけど、私が久志さんをもっとバズらせてあげるって言ったら、どう?」

 

 

 無邪気な天使のような笑みで彼女は言った。

 

 

「え?」

久志は間の抜けた声で聞き返すことしかできない。

 

 

 

「だから、私が久志さんにもっといいね稼がせてあげるって言ってんの。そのために、私がモデルを続けるんだ。撮影会っていうの?ああいうの、やってみようよ」

 

 

早希は身体をくねらせてわざと扇情的なポーズをとる。

 

 

彼女はふざけているのだろうが。しかし、久志は隠しきれない嬉しさに顔を赤くして見つめることしかできない。

 

 

その時、ちょうど電車の運行再開のアナウンスがホームに響いた。

 

 

「それって、また早希ちゃんのことを撮らせて貰えるってこと?」

 

 

「早希でいいよ。そう、私が久志さんのアカウントを乗っ取るの。なんか楽しくなってきちゃってさ。ってただ調子乗ってるだけだけど」

 

 

なんてことだ。

 

 

また奇跡が起こってしまった。運命のパズルが、そこに収まるべくしたピース達が、カチリカチリと軽快な音を立てながら上手くハマっていく様を、久志はただ呆然と眺めていることしかできない。

 

 

整然とした幸運を素直に喜べないのは、同時に、この上手く行き過ぎている状況こそ、その積み上がるスピードが早ければ早いほど、雑な拙速工事のように、素晴らしい建造物と言えるこの状況がいつ総崩れを起こしてしまうか不安を感じるからだ。

 

 

 それでも彼女の笑顔は、人知れず訪れた幸福を素直に喜べない久志の心にも、電車の運行再開に忙しない人々にも埋もれないまま、ただ当たり前に照らしてくれる太陽のように揺るがないまま何より輝いてそこにある。

 

 

「だからさ、まずは連絡先教えてよ。ラインでい?」

 

 

さっきから戸惑うことしか出来ない久志を、早希は黒目がちな大きな瞳で覗き込んでくる。少し身を引いた久志に悪戯っぽい笑みで返事を促していた。

 

 

「ライン!?あ、ああ、もちろんいいですよ!」久志の慌てぶりに早希は吹き出した。

 

 

「ねえ、敬語はおじさんっぽいからやめて。せっかく治ってたのに」

 

 

 そして、お互いの連絡先を交換した。

 

 

「んじゃあ、後で連絡するね。あとラインのアイコン、インスタの写真使わせて欲しいな?」

 

 

 彼女の交友関係に、自分が撮った写真が使われるなんてこの上ない申し出だ。

 

 

「も、もちろん」

 

 

「やった、ありがとう。んじゃあ私、友達のパパが車出してくれるって言うからそれに便乗してきまーす」

 

 

 

踵を返す早希のスカートがひらりと舞って、また振り返って久志に手を振る。

 

 

冬の低い日差しが、後光のようにその姿を照らした。

 

 

久志はまた不器用に手を振替えした。

 

 

やがて、久志を一人置いて、彼女は人混みの中に飲まれていった。

 

 

 

まるで、幸せの嵐が過ぎ去った後のように、久志の周囲に運行を再開した駅のホームの喧騒が戻ってくる。

 

 

 

上機嫌で無双状態の久志は僥倖の鎧を纏ってすし詰めの快速急行に無理やり乗り込んだ。

 

 

電車は遅延したものの、元から会社の始業時間よりだいぶ早く出勤している事も手伝って、久志も悪戯な神様特製の地獄巻きの具の一部となることで、なんとか遅刻せずに済んだ。

 

 

ほうほうのていで仕事場の更衣室の扉を開ける。

 

 

その時、ピコン!っと、久志のスマホが小気味のいい音を響かせた。

 

 

「電車の遅延のせいで遅刻者続出したから一限自習なって、おまけに遅刻扱いされなかった」

 

 

彼女にとって、どうってことない、ありふれた日常の一ページを垣間見れる。そんな、彼女にとって気まぐれの事さえ、久志にとっては、この上ないエネルギーを与えてくれるきっかけになる。

 

いつも以上に、背筋が伸び、眉間に力が入る。仕事へのやる気が漲っていた。

 

 

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