梶原早希の日常2
第26話
酷い頭痛で目が醒めた。
瞼が泥で固まったように重い。視界が開けると、淡い暖色の照明に浮かぶ白い布が広がる大地が見え、その先には鈍色に光る鉄格子が見えた。どうやら私が目覚めたのは、あの大嫌いな地下室のベッドの上のようだ。
身体を動かそうとすると、全身が鉛のように重い。
うめき声を漏らしながら寝返りを打った。仰向けになると一面に鉄格子が張り付く低い天井と、その奥には剥き出しのコンクリートの冷ややかな質感が見えた。
ここは私の自宅でもあり、父親の地下だ。嫌な言い方をすれば男の趣味部屋とも言えるこの空間で、私はこの男に散々苦しめられてきた。私の身体は更に重くなり、このままベッドに顔を埋めて窒息してしまいたくなる。
「やっと目が醒めたか」
声がした方向に視線を流すと、目が冴えるほどの明るい赤色のガウンを着た男が格子の向こう側から覗き込んでいた。
「もうすっかり日が暮れた。目を覚ますまで何もしないでお前を見守っていた俺はなんて優しいんだろうな。感謝しろよ」
男は言いながらロックグラスに入った琥珀色の液体を煽った。
私は頭痛に顔を歪めながら無理やり身体を起こす。
胸に圧迫感がある。鎖骨の辺りや脚がやけに寒いのに気づいて、肢体を見た。
私は男のローブのように馬鹿みたに赤いオフショルダーのヘソ出しトップスを着て、丈の短すぎるフレアスカートを履いていた。
脚は、網目の大きい白いタイツが太ももまで覆っている。視界が狭いと思ったら、白い猫耳がついたパーカーフードをかぶっていた。男の悪趣味は既に開始されていたらしい。
「ふっふっふ、本当は明日に取っておくつもりだったが、色々と事情が変わってお披露目が早くなってしまったが、まあいいだろう。それが今夜の衣装だ。今夜は聖夜だ、サンタクロース同士、仲良くしようじゃないか」
男は、満足そうに笑いながらグラスにウイスキーを注ぐ。
「…今、なん、時?」
口を開くと金槌で打たれたような頭痛に襲われたが、それでも聞かずにはいられなかった。
私はこんな馬鹿げた衣装を着ている場合ではない。
男は私が何を言っているのか理解できない、というように口をぽかんと開けたが、徐々にわかりやすいほど、男の顔に怒りの色が浮かんでいく。
「はあ?…おい、先ずは黙って出て行ってごめんなさいお父様だろう?」
男の怒鳴り声が私の頭を揺らした。
「おい!何だその目は。ちょっとでも気を使ってやれば調子に乗りやがって」
痛みに眉を顰める私の視線を、睨んでいると勘違いしたのか、男は激昂した。
男は鉄格子にかかった南京錠を乱暴に開けると、格子の扉を投げるように開け放つ。
視界が揺れ、見上げると目を血走らせている男の顔が現れた。
髪を掴まれた、と理解すると同時に再び視界が大きく揺れた。
頬を張られた。
遅れて頬に鈍い痛みが湧いてくる。倒れ込んだベッドに、生まれたての子鹿のように震えながら腕を立て起きあがろうとする。
こんな状況で、私は今夜から雪が降るかもしれないという、車内で聴いたラジオを思い出していた。
あのまま、久志とデートに出かけられていたら、夜空から舞う雪に遊園地の色とりどりのイルミネーションが反射して綺麗だったんだろうな。
そして、誰よりもそばにいてほしい彼が私の隣で微笑んでいてくれて、一緒に雪の降る空を見上げたのかもしれない。そして、相変わらず馬鹿みたいにヘラヘラと笑いながら懲りずに私にカメラを向けていたのかもしれない。
もう、約束の時間はとうに過ぎているのだろう。
この地下空間は男の歪んだ趣味が詰め込まれた場所で、もちろん窓もなければ、時間の概念を必要としないので時計もない。
外界から完全に隔離された、私を押し込み、屈辱を与えて、奴が楽しむだけの監禁部屋。
「…今、何時、ですか?」
茫然自失の私の口は、壊れた人形のようにつぶやいた。
乾いた破裂音がした。
また頬を張られた。もう痛みすら感じない。
視界に写ったベッドに灰色の染みができた。音もなく溢れるそれは、降り積もる雪より冷めきった涙なのだろう。
背中に衝撃が走り、私の身体はうつ伏せにベッドに押し付けられた。
続いて脇腹に衝撃が走り、私は息が出来なくなった。立て続けに、何度も何度も衝撃が身体の何処かで爆発する。
声をあげて叫ぶ事も出来ない。私は身を丸める事で、いつか彼に触れて欲しいと思ったこの身体を守った。
嗚呼、こうしてまた身体に痣が増えていく。だんだん身体から力が抜けていくのがわかった。
男に拐われ、どれくらい意識を失っていたのだろうか。彼はもう待っていないだろう。
もう、何もかもがどうでも良くなった。
ならば、せめてこれ以上彼女の身体に痣を作らせないために、男に従い、奴の気を満足させなければならない。
あるいは。本当かどうか分からないけれど、凄惨な罰に耐え、奴が与える仕事をこなせばその後に解放してやると、私が意識を失う直前、彼が言った言葉に薄い望みを託すべきなのか。
男は、芋虫のように蹲る事しかできない私を、髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。
泣き顔は、涙と鼻水と涎でぐちゃぐちゃだった。必死に酸素を求めて息をしている私の苦痛に歪む顔を見て、男はニンマリと、恍惚そうに笑う。
「お前、最近おかしいぞ。なによりも可愛くて従順で物静かな俺の人形だったお前が、まるで何かに取り憑かれたように様子が変わった。全く、可愛い顔にもつい手を出してしまったじゃないか」
男は私の頬を摘み、唇を歪ませる。顔が変形して不恰好な表情をわざと作られているようで酷く屈辱的だった。
「ほら、謝れよ」男の酒臭い息が鼻にかかる。
「ご、ごめんな、ひゃい…」
「ん?なんだって?」
「ごめんな、ひゃい…」
「ごめんなひゃいだと?くはっはっは…笑わせるなよ。ちゃんと謝れよ。ほらこのまま」
そもそも、頬を握られているせいでうまく口を動かせない。男は頬を摘む指に力を込めた。
「時間なんて聞いてごめんなさい!」
私はひどい頭痛と悔しさに堪え、頬に力を込めて、一気に言った。
「ふん」
男は私をベッドから突き落とした。
受け身を取り損ねて、肘や膝を固いコンクリートに打ちつける。最早何処が痛いのかすら分からない。身体の至る所に鈍い痛みが点在している。
「肝心なことを謝る前に意味のわからない質問をしたことは、今ので許してやる。で、俺になんの断りもなく25時間も音沙汰を無くした事への謝罪はどうした?」
「ご、ごめんなさ…」
「土下座しろよ!」
唾棄するような男の声が降ってくる。
私が身体の痛みに耐えながら土下座の姿勢を作ると、頭をサンダルを履いた足で踏みつけられた。
「お父様に何の断りもなく、連絡を絶ってしまい、本当に申し訳ありませんでした」
私は屈辱に震える声を振り絞った。
「ふん。お前にはこれから罰を与える。悔い改め今後は同じ過ちを二度と繰り返さないと誓え」
男の背後に、黒光する拘束具や吊りフックやロープ。その他、形容を伏せたくなるような器具が見えて、背筋が薄ら寒くなった。
男は右手の甲を差し出してきた。
「はい、お父様」
私は躊躇わずに唇をそこにつける。そして、私の頭のスイッチが瞬時に切り替わる。
思考や感情の意識が麻痺し、目の前が白い靄で覆われていく。やがて何も感じなくなる。
これは私の身体に備わった自衛反応なのだが、男を悦ばせる屈辱的な行為に対してこのようなフィルターが掛かるのだ。
私の身体中の細胞は、全身全霊で目の前の状況を拒絶している。けれど、逃れられないと知っているからこそ身につけた、私にとって正気を守るための強靭な精神の鎧だった。
それもこれも、あの目的があってこそだ。
キスをした直後だった。再び頭を踏みつけられた。今度はもっと強い力だった。
「ところで、財布はどうしたんだ?お前の回りを探しても無かったぞ。漫画喫茶のゴミ箱にはあの趣味の悪い服のタグが捨ててあったが、どうやって買った?」
考えが甘かった事は今更悔いてもしょうがない。
失敗はスマホの電源を一瞬でも入れてしまった時に決まっていたのだ。
私は今夜の予定に浮かれすぎていたのかもしれない。男の問いかけに何も答える事が出来ずに、血の滲んだ唾液を飲んで渇きすぎた喉がごくりと鳴った。
「やけに男を意識した服だったが…それはまあいい。1455円、お前のバッグに入ってた金額だ。わざわざどうして現金を財布以外に入れてある?」
私が押し黙っていると、男は鼻を鳴らした。
頭に軽い固形の物体が当たる。そしてコンクリートの床に落ちたそれを見て私は目を丸くした。コインランドリーに置き去りにしたはずの二つ折りの財布だった。
「警察に問い合わせたらすぐに出てきたぞ。コインランドリーで拾ったと、善良な人が届けてくれたそうだ。中身も無事だ。現金以外はな。そういえば、お前の下着は洗剤のいい匂いがしていたぞ。それも乾燥機から出てきたばかりのようにフカフカだった」
汚物の雨のような下卑た男の声が、身体に降る。私は、寒い地下室で薄着のコスプレをしているにも関わらず、背中にじっとりと汗をかいていた。
心臓が壊れるほど早鐘を打っている。私の小細工など、この男にとって子供のオママゴトに付き合う程度に容易いものなのだろうか。
それもこれも男の支給物を利用しようと手を出した私が悪い。これから私の身に起こるであろう出来事を想像すると恐ろしく、このまま舌を噛みちぎって死んでしまいたくなるほどだった。
私がその痛みを受けることは当然として、それによってこの子の身体がさらに傷ついてしまう事は、私の最大の失態だった。
手足が震え、いつの間にか涙が乾いていた。顔中のあらゆる粘膜が冷えて固まり、顔に張り付いて不快だった。
男の足の爪先で顎を持ち上げられた。
焦点が遅れて、どこか面白そうに不敵に笑う男に合う。
「財布を無くしたのはこれで二度目だよな。しかもここ数週間の間の話だ。こんな小細工しやがって」
それから男は、一瞬真剣で恐ろしい目になって私を睨む。
「一度目は、本当に財布を無くしたって信じていいか?」
馬鹿みたいな赤いガウンを着ているが、その悪魔のような恐ろしい目は、拳銃を突きつけるように、冷たく、残酷に満ちていた。嘘だとバレたらその引き金を引かれる。その時はきっと、死ぬより恐ろしい事が待っているに違いない。
「…はい」
私は命乞いをするように答えた。すると、男は満足そうに笑顔を作った。
まるで拳銃の先から花が飛び出した、とでも言うようにケロッとする。
悔しいが、その笑顔に、私は心のどこかで安心してしまう。
「はあ…あは。あっはっはっは。そうだよなあ。お前がそんな常習的に俺を裏切ろうとするはずない。今回のことは一時の気の迷いだよな?はっはっはっは!大丈夫だ。そんな酷い顔をするな、ほらせっかくの可愛い衣装が台無しだぞ。酷いようにはしないさ、お前がちゃんと誠意を込めて反省する態度を見せてくれればいい。よいしょっと…」
男は言いながらサンダルを脱ぎ去った。驚くほど白い男の素足が現れた。
指の第一関節から濃く長い毛がカビのように生えている。
「舐めろ」
急に人が変わったような冷徹な男の声が降る。
「はい」
私は、腐った大根のような白い足をおしいただくように掲げて、私はそれにキスをした。
私の心は、再びあの精神の鎧を纏う。あの霧が意識に掛かる。
私は唇から舌をのぞかせ、親指の爪先から舌を這わせた。
すると、頭上で男の深い吐息が漏れる。私はこれ以上状況が悪化しないことだけを望みながら、男の足の指を一本一歩咥えて舌で愛撫した。私の奉仕に男が胴間声を漏らし、べっとりと不快に耳にまとわりつく。酷い口臭が鼻にかかる。
私の意識は、徐々に現実から剥離しつつあった。
「そういえば、お前が寝ている間に暇だったから色々SNSを検索していたら面白いのを見つけたんだ」
男はぼんやりと光る液晶画面を私に差し向けた。その画面に映るものを認識した瞬間、私の目に色が灯った。
それは怒りや恨みとも、不安や恐怖や絶望にも似ていた。そんなあらゆる負の感情が混ざっりあってぐるぐると大きく回り出す。
映し出されていたのは久志のインスタグラムのアカウントだった。
私が初めて久志に撮ってもらった写真。
一夜にして反響が大きかった例の写真だ。それが今、男のスマホの画面で映し出されている。この男の手の中に私のプライベートが暴かれている。同時にそれは私と久志との間の出来事に踏み入ろうとする合図でもあるように思えて、こんな状況にもかかわらず、頭に血が上りつつあることに驚いた。
「おっと、俺が見せたかったのはこれじゃない。こんな写真より俺の作品の方がずっといい。だろ?」
男は一瞬だけスマホを操作して再び、液晶画面を私に向けた。
そこにはつい数十分前に更新されたばかりの、一枚の写真入りの久志のメッセージが映し出されていた。
先ほどまで、一気に沸点に駆け上がった怒りが、今度はマイナスに凍りつく。
「…うそ…だ…うそだ…いや…いやあああああああ!!」
最悪の結果が現実として突きつけられると、こうも自我を保てなくなるものなのだろうか。
目の前が真っ暗に覆われていく。
私のたった一枚の写真で、フォロワー数が数倍に膨れ上がった久志のアカウント。
次に更新する時は、これまで私を撮った写真が大量に掲載されるはずだった。しかし、最後の彼の更新は、私個人に対するメッセージでしめくくられていた。
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