第24話

 

 

腰を降ろして脚を伸ばすと、疲れていたせいもあって身体がリクライニングシートに根を張ったように身動きできなくなった。

 

 

 しかし次の瞬間、閉めたはずの鍵が回り、突然ドアが開いた。

 

 

 入ってきたのは、私の父親である、あの男だった。

 

 

一瞬何が起きたのか分からなかった。

 

 

そして、だんだん思考が追いつくと、目の前の光景が悪い夢であれ、と強く願った。眼鏡越しの一重瞼の男の目が怒りで見開き、私を捉える。

 

 

私は蛇に睨まれた蛙のように、ただ固まるだけで声をあげる事さえ出来なかった。

 

 

 男がリクライニングシートに爪先の尖った黒光りする靴で上り込んで来ると、強い香水と煙草が混じった苦い臭いが、わっと狭い部屋を満たす。

 

 

そして、男は後ろ手で部屋の鍵を閉めた。その乾いた鍵の閉まる音を聞いて、私の中でほんの僅かに残っていた反抗心が、首を横に動かした。

 

 

壊れた人形のように、ぎこちなく左右に揺れる首。恐怖心で胸が圧迫されて、声も出せない。

 

 

押し寄せる絶望と悲しみで、涙が溢れて視界が霞む。

 

 

どうかお願い今夜だけは…。

 

 

こちらに一歩迫った男に、私は懇願するように見上げている。

 

 

久志の顔が、これまで思い浮かべた楽しみにしていた想像が、私の頭の中で黒い絶望に塗れながら霧散して行くのがわかった。

 

 

男が私の目の前にしゃがみ込み、髪をむしるように掴む。私が痛みに眉を顰めると、男は顔を近づけて口元を不敵に吊り上げた。

 

 

この男の加虐趣味は歪んでいる。私を押し拉ぎ、優位な立場から見下ろす苦痛に歪む顔こそこの男の大好物だ。こんな状況こそ、その歪んだ性癖を解放して快楽を味わう、最適な場面なのだろう。

 

 

 だが、そんな事を今さら思い出してももう遅い。男は私の後ろに回り込むと口元に湿り気を帯びた布を押し当てた。妙な甘い臭いがする。

 

 

「騒ぐな。いいか、一度家に帰るぞ。言わなくてもわかるだろうが、お前には一度お仕置きが必要だからだ」

 

 

 私は捕らえられた諦めの悪い子鹿のように暴れ、首を振り乱し男の袖を掴んだ。

 

 

「安っぽいが可愛いらしい服を着てるじゃあないか。ん?化粧なんかして、これから男とデートでもする予定だったのか?それとも駆け落ちか?ん?」

 

 

 男の生ぬるい息が耳元に当たる。

 

 

不快感に身体を捩って抵抗し、叫ぶがきつく抑えられた口元の布でくぐもった頼りない雑音にしかならない。

 

 

個室とは言え、周りには他の客や店員だっている。誰か気づいて!と心の中で願いながら私は渾身の力で暴れるが、男の力は私のそれを遥かに凌駕していた。

 

 

「お前は俺に何の断りも無しに25時間も連絡を途絶えさせた。まさか本当に逃亡を図ろうとしたわけじゃないよな?」

 

 

 男の冷たい手がファーニットの内側に侵入して、身体中を這った。

 

 

刺すような不快感が、足元から頭の頂点にまで突き抜ける。私の身体は身動きを封じられた。恐怖が全身を支配する。涙が溢れ、頬を伝う涙の温度が熱いと思うほど身体が冷えていく。

 

 

私はうめきながら、胸を乱暴に撫で回す無骨な男の手を受け入れることしかできなかった。

 

 

「1時間前、GPSに反応があった。ここから半径100メートル以内だ。クレカの使用履歴で行動を把握されたくなければ僅かな現金を使うだろうと踏んで、長時間潰せる隠れ家的な場所を探ってみたんだ。まさか本当にいるとはな。捜索の骨は折れなかったが、お前の携帯を、電源を切っていてもGPSで探れる最新のものにしておかなかった事を後悔した」

 

 

 考えが甘かったと後悔しても今さら遅い。身体中を巨大ムカデが這い回っているような怖気と不快感に私は力が抜け、弱々しく首を振ることしかできない。

 

 

「身も心も俺のもののはずだろう。だいたいこんな傷だらけの身体でどこの男がお前と駆け落ちなんてしたいと思う?ああ、まさかここで待ち合わせしてるのか?いいじゃないか、本当のお前の姿をここで男に披露してやろうか?実は店員には金を渡していろいろ口を噤んでもらったんだ。ちょっとしたショウを開くくらい多め目に見てもらえる額だ」

 

 

 目が覚めるような恐怖を感じているのに、次第に意識が朦朧としてきた。これは、この妙な甘い香りのせいだろうか。

 

 

「まあいい。俺も鬼畜じゃない。お仕置きを与えた後、きっちり仕事さえこなせば、明日は自由にしてやる。まあ自由になったところでお前は、立ち上がれないだろうがな」

 

 

 悔しさと屈辱でこのまま舌を噛みちぎってしまいたかった。しかし、男に捕まってしまった以上、従順な振りをする以外に逃げ道が無い事は痛いほどに身に染みていた。私は力なく首肯する。

 

 

「くっくっく。わかればいいんだよ」

 

 

 下卑た笑い声を耳元で囁かれる。

 

 

 口元に抑えられた布から発せられる甘い匂いが強くなった気がした。

 

 

瞼が酷く重い。

 

 

涙で霞んだ狭い個室が不意に歪み、暗転するかのように目の前が暗くなった。

 

 

 今夜。

 

 

今夜だけは久志と最後の夜を過ごしたかった。けれどそれも叶わなそうだ。

 

 

 あるいは、今夜だけ、この男が私に下す行為に耐えられれば、男の言う通り、立ち上がる体力さえあればチャンスがあるのかもしれない。

 

 

 事切れる寸前。屈辱と悲しみと、耐え難い睡魔の中で、私は熱い涙に溺れそうになりながら、暗く沈んでいく意識の中で、彼に救いの手を伸ばしていた。

 

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