第8話

 


凄んでいた時とは打って変わって、喫茶店で見たような柔和な笑顔に安心する。

 

 

「おかげ、さまで…ありがとうございます」

 

 

 電車の中であれほど憧れた彼女の無表情以外の表情が、声が、自分に向けられている。久志は大人気なく緊張していた。

 

 

「っぷ何それ、私が助けたみたいになってんじゃん、ウケる。てか、年上でしょ?敬語とかやめてよ、私高校生だよ?しかも私、既にタメ口きいてるし」

 

 

「べ、別に、そ、それでいいです、はい」

 

 

恥ずかしくて、彼女を直視できないでいた。

 

 

彼女の手に、まだ自分のカメラが掴まれている。制服のスカートから伸びる白い脚。細い指先に絡められた大きなカメラ。

 

 

久志は、つい癖で今の彼女を主題にした写真の構図を考えてしまい、胸が熱くなっていた。

 

 

「えい!」

 

 

 オートフォーカスの電子音の直後、小気味のいいシャッター音が響いた。

 

 

「うわぁ!…え?」

 

 

「おお、撮れた…あははは!お兄さんキョドリすぎ」

 

 

 彼女は撮れた写真のプレビューを見て楽しそうにはしゃいだ。

 

 

「勝手に撮られたお返し」

 

 

 悪戯っぽい笑みを浮かべながらさらにカメラを構えると、もう一枚久志を撮る。

 

 

 レンズを向けられ、驚いた瞬間にちょっと待って、と慌てて手を振る高校生にいいように揶揄われる情けない大人の姿がカメラに収められた。

 

 

「ふふん。いい君撮れた。てかいいカメラって凄いな。こんな直ぐに綺麗な写真が撮れちゃうもんなの?」

 

 

 恥ずかしい写真を彼女は嬉々としながら見せてくる。

 

 

背景の電飾が色とりどりにボケ、彼女に比べればいい歳のおっさんが無駄に際立っていてどこか滑稽な写真だ。

 

 

「そのカメラには人の瞳に自動でピントを合わせてくれる機能が付いるので。あと、単焦点レンズなので背景を大きくボカして被写体を引き立たせられるんですよ」

 

 

「へー、って言ってる意味ほとんどわかんないや。あ、ねえねえ、じゃあもう一回私の事も撮ってみてよ」

 

 

 言いながら彼女はカメラを久志に差し出した。

 

 

屈託のないその声が脳内で残響する。

 

 

手に感触が戻らないままカメラを受け取る。

 

 

彼女は恥ずかしそうにまつ毛を揺らしながらこちらを見て、長い髪を耳にかけてポーズをとった。

 

 

あれほど憧れた彼女に、合法的に、しかも彼女から求められてカメラを向けていい瞬間が来るなんて、まさに夢のようだった。

 

 

「…むぅ、どうしたのよ?」あれほど憧れた彼女から急かす声が降ってくる。

 

 

 薄い桃色の唇を尖らせている。

 

 

滑らかで柔らかそうな頬が少し紅潮している。

 

 

生まれたてのようにつるっとした耳にかかる黒髪。赤いマフラー。制服。スカート。大きな猫目をファインダーの中でピントを合わせる。

 

鮮やかな夜景をボカし、憧れの彼女がファンだーの中で浮き上がる。

 

 

固唾を飲む。喉がなる。

シャッターボタンに添えた指が震えていた。

 

 

「撮るよ」

 

 

「うん!」

 

 

自分に向けられた視線。楽しそうな声。シャッターは切られ、カメラは彼女という光を切り取った。

 

 

 シャッター音が聞こえた彼女はさらに違うポーズをとった。少し横を向き、物憂げな表情を見せながらあえて視線を外した。

 

 

 何だこれ、何だこれ、なんだこれ。幸せすぎるだろう。

 

 

彼女に次から次へとシャッター音を放つ。

 

 

シャッターを切る感覚が、全身を駆け巡る。次第に、シャッター音が高鳴る心臓の音と同調していく。

 

 

 彼女は久志を弄ぶように次々にポーズを変えたが、久志はこのまま爆死しても悔いはないと思うほど調子に乗っていた。

 

 

「ねー、さっきから写真撮るのに夢中だけどさ、私、ただプロモデルっぽい真似してるだけなんだから何か突っ込んでよ!恥ずかしいじゃん」

 

 

「ああ、ごめん。でも様になりすぎてたから違和感なくて」

 

 

「いやマジレスされても余計恥ずかしいんだけど…」

 

 

 彼女は本当に恥ずかしそうに伏し目がちに視線を横に泳がせていた。

 

 

照れながら、垂れた前髪を指で引っ掛け耳に掛ける。

 

 

パシャリと小気味のいいシャッター音が響いた。

 

 

 

「ちょ!急にビビるって」「ごめん。自然な恥じらい方が素敵だなと思って」

 

 

 

「むぅ、なんか不本意だな。無意識だからどんな感じに撮れてるかわかんないじゃん」

 

 

 

「そうだね。でも君ならどんな姿だって画になるよ」

 

 

 彼女は口を尖らせる。可愛い小動物が威嚇をしている程度の、むしろ愛くるしい怒り方にもシャッターを切りたくなった。

 

 

「半目になってる写真とか撮ってたらマジで許さないからね」

 

 

 久志は先程の写真を彼女に見せた。

 

 

撮れた写真のそのどれもが電車の中で抱いていた物憂げな雰囲気が嘘のような快活で明るい女子高生だ。

 

 

誰だって笑顔は似合うが、彼女の笑顔は特別だった。

 

 

彼女が笑うだけで、どんなに煌びやかなイルミネーションや夜景や巨大なクリスマスツリーも、その場の全てが彼女の引き立て役になり、ヒロインは間違いなく彼女になる。

 

 

「おお、さっすがプロ」彼女はプレビュー画面を見ながら久志の脇腹を突いた。

 

 

「プロなんてとんでもない。俺はただの趣味カメラマンだ」

 

 

「でもすっごくいい…やっぱり笑った私って、可愛いなあ」

 

 

 今の自画自賛は、突っ込むべきかと一瞬迷ったが、その必要はなさそうだった。

 

 

彼女は満足そうにさっき撮った数枚の写真を見ている。

 

 

そんな横顔を、久志はだらしなく表情を弛緩させながら盗み見ていた。

 

 

プレビュー画面の最後にさっき不意打ちをした写真が出てきた。

 

 

「あ…」僅かに驚いた彼女の表情に、しかし不満そうな色はない。

 

 

青白いカメラの液晶画面の光に照らされた横顔はむしろ感嘆の気配を漂わせている。

 

 

「俺はこの写真が好きかな」

 

 

 久志は彼女の持つカメラを覗き込んで言う。すると彼女と視線がぶつかった。

 

 

思わぬ距離の近さに驚き、久志は大袈裟に顔をのけぞらせた。

 

 

彼女は口元だけ笑ってまた写真に目を落とした。

 

 

微笑みは崩れないままだ。案外彼女も気に入ってくれたのだろうか。

 

 

青白いカメラの光に照らされた長いまつ毛が揺れ、瞬きをする大きな目はどこまでも澄んでいて、丸みを帯びた頬が可愛らしい。真剣に写真を見つめる彼女にまた見惚れていたその時だった。

 

 

「この感じ懐かしいなあ」

 

 

「え?」

 

 

何か呟いたらしい彼女の言葉を久志は聞きそびれていた。

 

 

「SNSとかやってる?」

 

 

だがすぐに、彼女は話題を別なものにすり替えた。

 

 

「ああ、はい。一応インスタを…でも」

 

 

「なにその感じ、歯切れ悪いなぁ」

 

 

 現代においてフォロワーや、いいねの数こその人物の評価基準であるZ世代の彼女は、きっとフォロワー数で久志を査定するだろう。本当の事を言えばたった数百人分の価値しかないアマチュアに、写真を撮られてしまったと後悔するかもしれない。

 

 

「なんというか…あくまで軽い趣味でやってて、大した写真乗っけて無いし、女子高生には詰まらないよ。あ!そもそも鍵アカで信用してる人にしか公開しないし、今訳あってアク禁になってるんだ…あははは」

 

 

 嫌われたくない一心で嘘と言う弾が喉奥に何発も充填され、ところ構わず打ちまくった。

 

 

「はあ…ってアク禁って、何したのさ?え、まさか本当に…」彼女は口元に手を当てて露骨に距離を取ろうとする。

 

 

「盗撮写真なんて上げてないからな」慌てて訂正した。

 

 

「じゃあ、芸能人やリア充アカウントに荒らしや中傷コメントしまくったとか?」

 

 

「逮捕された方がいい奴だなそいつ」

 

 

「じゃあ何がそんな見られて嫌なのよ?」呆れるように彼女は言う。

 

 

「う…」既に、嘘をついていることが彼女にバレてしまっている以上は、地味なアカウントを晒すしかないのかもしれない。

 

 

だが彼女が自分のダサいアカウントに幻滅してしまってもいいと思った。開き直ったと言ってもいい。

 

 

夢は夢らしく、短くて儚い脆いものだと、大人らしく受け入れよう。

 

 

彼女は煮え切らない久志に辟易したのか、一人退屈そうにカメラのプレビュー画面を送り、過去の写真を見ていた。

 

 

彼女はどんな写真を見ているのだろう。

 

 

「見てもつまらないだろう。でもそれ全部、俺にとってはただちょっとだけ、いつもよりは綺麗な瞬間を見せてくれた日常風景のコレクションなんだ」

 

 

久志は、照れ臭くなって付け加えた。

 

 

詰まらない一人の男の、味気ないモノクロで退屈な私小説や日記のような写真だけだと言うのに。

 

 

「いい写真…」彼女は息を漏らした。

 

 

耳を疑った。

 

 

「日常って、切り取り方一つでこんなに見え方が違うんだね。何気なく見過ごして来た中にも、こんな素敵って思える瞬間があったのかもなあって、この写真を見ていると気付かされるな」

 

 

 目を細めて言う彼女の声と甘い言葉が、快感となって心に懇々と降り積もる。

 

 

「お兄さんの視点?わたし、結構好きだよ」

 

 

 彼女は少し恥ず貸しそうに笑った。

 

 

何も恐れる事など始めからなかった。

 

 

 彼女にもファインダー越しの自分の世界を一緒に見てほしいと思った。

 

 

少なくとも彼女はフォロワー数やいいねの数でしか物事を評価できないようなつまらない人じゃないと思った。

 

 

「ふっつーに公開アカじゃん」「すみませんでした」久志は食い気味に首を垂れて謝った。

 

 

彼女は久志のアカウントページを映しながら久志を睨め付けた。

 

 

「はい、フォロー完了っと。んじゃあさ、今夜お兄さん…えっと、ヒサシさんのアカウントにさっきの写真載っけてよ」

 

 

 

 フォロワー数の事を言及されなかった事に安堵していると、不意に名前を呼ばれて恥ずかしくなる。

 

 

こんな時、実名を使用していてよかったと思う。表情筋をだらしなく弛緩させていると衝撃的な言葉が、時間差で脳を揺らした。

 

 

「今夜10時くらいまで何枚か選んでアップしてね。ちゃんとチェックしに行くから。あと絶対いいねする!自画自賛っぽいけど、一つでもいいね増やしたいし」

 

 

「いや、絶対俺史上一番いいね貰えますからぁ!」

 

 

「だといいなぁ…なんか自分で言っててちょっと緊張してきた」

 

 

「いや、違う違う違う!え!?…俺のアカウントに君の写真を載せてって言った?」

 

 

 こくん、と猫目を好奇心に輝かせて頷く。

 

 

「しかも今夜!?」

 

 

 こくん、こくん。と彼女は黒目を丸くして頷く。

 

 

 数奇な邂逅を遂げた挙句、幸運にも憧れの彼女の写真を撮らせて貰えた事だけでも至福なのに、その上彼女の写真を自分の著作物としてSNSで公開していいだなんて、これは夢かもしれないと本気で思った。

 

 

だが、頬をつねれば痛みは感じる。

 

 

ならば、神様の悪戯を疑わずにいられない。ここは慎重に動くべきだろう。

 

 

「ありがたい申し出でだけど、それはあまり良くないと思うよ」久志は頬をツネながら言った。

 

 

「なんでよ?」彼女は口を尖らせた。

 

 

「写真はたしかにいいけれど、フォロワー数の少ない俺が発信していい代物じゃない。君も学校の立場とかあるだろうし、妙なアカウントで顔を公開して恥ずかしくないか?つまりその、俺みたいな奴のアカウントで顔を晒すなんて君が勿体ないよ」

 

 

「フォロワーの少ない人はいい写真を公開しちゃダメなの?そんなわけない。いい写真が撮れるからフォロワーもいいねも伸びるんでしょ」

 

 

「…そう、だけど」

煮え切らない久志はただ言葉の通り、遠慮と言うか、あまりにも恐れ多く、覆せば彼女の面目を潰したくなかった。

 

 

「確かに、私がヒサシさんに頼んで撮らせちゃったけれど、私を撮った後に久志さんはいい写真だって言ってくれた。それとも私は、ヒサシさんのギャラリーの中に似つかわしくない?」

彼女は困り顔で、反則的に可愛い上目遣いで訴えてくる。

 

 

「とんでもない!一番の力作だよ」

 

 

「でしょ?でしょ?」

かと思ったら、ニッコリと待ってました、と言うようなあざとい、満足そうな笑みを浮かべる。

 

 

「って、自分で言うのもなんだけどさ。普通に友達に自慢して回るし、ヒサシさんの事も話したいくらいだよ。それに私、みんなにどう写ってるのか気になるんだ」

 

 

「みんなに、どう写ってるか?」

 

 

「いいね、って知らない誰かに背中を押してもらえたらこの子が喜ぶと思うから」

 

 

彼女は恥ずかしそうにも、切なそうにも見える曖昧な笑みで頬を緩め、目を細めた。

 

 

この子とは、どの子だ?と気になるが、それもこれも彼女達の年代にありがちな独特な造語や言い回しかもしれない。

 

 

とにかく、承認欲求が旺盛な彼女達の手段を選ばないやり方には、どこか感服し尊敬さえする。なら、ここで断るのも大人気ないと言うものだろう。

 

 

「うん、わかった。じゃあ今夜10時に」

 

 

「やった」

 

 

彼女は足を踏み替え、全身で喜んでいた。

 

 

表情豊かな彼女の一挙手一投足はそのどれもがシャッターチャンスで焦ったい。

 

 

「あ、そうそう。私の名前、梶原早希っていいうの。もちろん実名は出さないでね。出したらさっきの、警察にチクるよ」

 

 

「だ、出すかよ!そのまんま。久志って言います。新木久志」

 

 

 

彼女の名前は、久志の中で確かな形と輪郭を帯びて心にしっかりと刻まれた。

 

 

彼女に出会った時から知りたかったその名前をようやく知ることが出来た感動は思いの外衝撃が大きく、年増の病のように涙もろくなったせいで、少し油断すると涙がちょちょ切れそうになったりした。

 

 

梶原早希。早希。さき。と心の中で何度も反芻する。なんて響のいい名前だろう。

 

 

 

誰かに手を振って別れるのなんて何年ぶりだろう。

 

 

 

別れ際、早希が手を振るのでいい歳した久志もぎこちなく手を振り返した。

 

 

帰りの電車に揺られながら、早希の写真を何度も見返していた。

 

 

今すぐ電車の窓を開け放って、溢れんばかりの喜びを声に出して叫んでやりたいと思った。

 

 

 

久志は思い出していた。好きな人をファインダーで捉えてシャッターを切るという悦びを。

 

 

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