⑦ 井戸底(井守視点)

井守 燈奈ひなという人間には、生来特筆してやりたいことが何もなかった。


【やりたい】がなければ、【やりたくない】を避けるしかない人生である。


だからこそ、井守は可哀そうなものを見た時の、【自分がそうはなりたくない】という感情を、何より重視するようになった。


だって安穏と平和を信じて暮らし、悲劇に遭い、その後の人生を棒に振るなんて相当に馬鹿馬鹿しい話じゃないか。


ある日、そんな彼女を見込んだ神様に、とある【独自権能ユニークスキル】を授けられて以来、常に彼女は胸を打つような、【可哀そう】を収集している。


だから、社長に連れられて参加した興味のない学会で、世の全てを威嚇するように睥睨するあの目に、井守は強烈なほどの【可哀そう】を見つけて。


止める両親も、会社も無視して、青森へと飛んだのだ。


千暁ちあきが去った後、片付けもそこそこに、うっとうしい後輩すずきを振り切り、井守は自身の部屋へと駆け込んだ。


慎重に検討した気に入りの北欧家具。


大胆にかわいらしい赤い花柄のカーテン。


ふわふわの肌触りが最高なラグ。


水色のリボンを結んであげた白いテディベアとか。


寮は手狭過ぎてここ以外に部屋は借りているけど、井守の【大好き】だけで作った秘密基地なのは変わりない。


鈴木が勝手に入り込むことがあるので、しっかりと施錠する。


手にしていたノートとマニュアルは、適当に入り口近くの床に投げ捨てた。


定位置であるそこに置いておけば、部屋を出ることはないからだ。


先程まで千暁ちあきに対して見せた反省は既にない。


心待ちにしたおもちゃを手に入れた、満足感に満ちていた。


ベッド横に置いた小さな白い机。その上で既に立ち上げていたパソコンの、スリープが解除されるまでが歯痒い。


デスクトップの真ん中に鎮座する橙色のアプリを、指先が震えるのをなだめながら、パスワードを手入力する。


アプリのロード画面で、ゆったりとマスコットキャラクターである烏賊イカが踊り終える前に、丁寧にメイクを落としてスキンケアをし、パジャマに着替えるだけの猶予があった。


数分後、動画が無事にアップロードされたと報告がある。


ヘッドフォンを装着し、音漏れがないように確かめてから、恐る恐る再生を押した。


動画の最初数秒で轟く何人もの男たちの怒号に固唾を飲み、数分後に始まった尋問は、すぐに拷問へと変わる。


「ぃやっ………たぁああああ……!」


確信していた。


これこそが、あの不幸な女の始まりの記憶である。


ずっと、ずっとこれがほしかった!


噛みころしきれず、歓喜の声が漏れる半面、動画が進むにつれて、ほろほろとこぼれる涙を止める手立てがない。


ああ、胸が締め付けられるようなかなしみで苦しい。


どうして、こんな目に遭うひとがいなくてはいけないのか。


テディベアを、愛らしいピンクのネイルが食い込むほどきつく両手で握りしめて、脚を宙にばたつかせ、それで何とか疲れ切って止まることができた。


「はー……は、ははっ!」


撮った。盗れた。ちあさんの記憶これは、もうあたしのだ、誰にもあげない……!!


うっとりとパソコン画面を撫でた井守は、橙の目をとろかせて、花を見るように笑った。


見たい。このまま最後まで。でもだめだ。


深夜というのに、パソコンの通知は先程からすさまじい勢いで、顧客から依頼が届いたと知らせてくる。


同じ名前が続く。……あぁ、キリハラか。


内弁慶のクソ女が、過去に失敗した記憶をすべてなくしてほしいと縋ってきたのを助けてやったのに、恩知らずにも今すぐに返せとうるさい。


他にも面倒そうな顧客が5~6人、面白くもない失敗を忘れたいと、井守を通して彼女の神に縋っている。


「……がんばろ。がんばらなきゃ」


井守はかわいらしく頬を両手でむにむにと揉んだ。


この作業のために、明日は休み取っている。


面倒事を先に終わらせてから、ちゃんと噛みしめて、真剣に、集中して見せてもらわないといけない。


これは、井守が奪って千暁ちあきを解放してあげた地獄きおく


きっと、自分が今以上に人として成長する糧になってくれる。


(あー……ちあさんてほんとに最高♡ どれだけネタもってんのかなぁ!これ、これしゅごい♡まだ15歳の時でしょ?普段、ちっとも教えてくれないのもポイント高い……♡)


♡ちあさん♡と銘打たれたフォルダに、今日もアプリからコピーした動画を保存する。


既に20個以上の動画ファイルが、そのフォルダに保存されていたのに。


千暁ちあきは全然からっぽにならないで、今も井守に人生のヒントを示し続けてくれる。


「このまま、ずっと、ずー……っと、呪われて、不幸で、可哀そうなまんまでいてくれないかなぁ……♡」


井守はドキュメンタリーが嫌いだ。フィクションの存在意義がわからない。


作り物を見て泣くなんて変だし、主観で語られた悲劇に嘘が混じらない保証はない。


全部本物だけが欲しい。偽物に割く時間はないのだ。


デスクトップのアプリ……四角いアイコンに、白い烏賊イカのシルエットだけが描かれたそれに手を合わせた。


彼女の神様に心底からの感謝と、敬意をこめて。


「あらゆる哀愁に寄り添う貴方、どんな不幸も見逃さぬ貴方。あたしは貴方に、約束したその通り、手にしたものを捧げ続けます。…………我が掌中の記憶、汝がまにまに」


慣れ親しんだ通知音が響き、デスクトップのアプリがほのかに輝いた。


画面から、烏賊イカの生臭くぬるついた足が伸び、目を閉じて祈る彼女の額に、印を描くようにうごめいた。


今日も神様は、彼女に命じた役割を果たすようにと、丁寧にねぎらってくださった。


彼女に記憶を奪取する【独自権能ユニークスキル】を与えた神様に、今日も祈りは正しく届いたのである。


(ちあさんノースキルだし。加護がないから対価も同意もなく奪っても、全然記録されなくてバレないんだもんなぁ。楽で助かる)


頼んだ講義は全然聞いてなかったから、むしろ切り捨ててくれて助かった。


どうせ手作業清掃など、これからも使わない知識だし。


基礎はほかに学べと言われたから、また適当に理由をつけて、この記憶に飽きる前に奪わなければいけない。


今度は千暁ちあきのお陰で楳原うめはらに師事できたお礼とか、適当に言っておけばいいだろう。


千暁ちあきなら、鈴木と違って、何か適当に食わせておけば、油断してくれるだろうし。


ああ。本当、扱いやすくて助かる。なんて素敵な先輩いけにえなんだろう!




のを許す以上、祈りをささげた相手がことを。


ことを。


……己の欲求のために、無遠慮にいじくった記憶が、高橋 千暁ちあきの人生に、一体何をもたらしていたのか。


何一つ思い当ることはなく、ふくふくと幸せそうに笑うと、井守は真剣な顔でパソコンへと向き直った。

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