⑤ 井戸底から夜明けを見た
華やかなホテルのロビーを、仕立てのいいスーツもくたびれた安物にみせるほど、疲れて歩く女がいた。
ご存知、
友人の手も借りて仕上げた迷宮単独清掃ガイドラインの正式発表のため、学会に参加中であった。
この日も静かに世を呪いながら、通りがかる全てから身を隠すよう、卑屈に体を丸めて歩いていた。
何せ、
「あの、すみません。少し……お願いがありまして」
か細い女の声に、呼び止められた長身の女は、訝しげに立ち止まった。
声は細く開いた身体障害者用トイレの中から、妙にはっきりと聞こえてきた。
痛んだ胃をどうにかしようと、トイレに来たのが間違いだったようである。
曇りガラスの向こうに見える影は、しゃんと背を伸ばした女の形だ。
しかしこのまほろにおいて、視覚情報ほど、あてにならないものはない。
大抵のろくでもないものは、たやすく批難できない弱者を装い、腹に仕込んだ悪意を誤魔化している。
以前同様の手口で、親切心からものの見事に引っかかったので、迷わず看破の印を切った。
露わとなった、貝だの海老だのの食い散らかしが腐ったような臭気が、そんな偏見を助長した。
(何でこんな時に限って廊下に誰もいないんだよ、誰か一人くらいサボってたら巻き込めるのに)
社長へのヘルプコールをこの時点で済ませた。
あとはトイレに背を向けぬまま、じりじりと距離を取る。
不自然にならないくらいの距離を置いて、声を張った。
どんな時も明確な拒絶は大事だ。
お前を受け入れる気はないと、はっきり伝えなければ、あとでいいように解釈されてしまう。
「……中にある通報ボタンを利用しっ!!」
最後まで言葉にならなかったのは、避ける間もなくおぞましい触腕が
そのまま猛烈な勢いで身体障害者用のトイレに引き込まれる。
遅れて飛んだ蝶紋も、みしみしと音を立てる勢いの締めつけに次々と羽を壊していく。
(くそ、発表中にも散々仕掛けられてたから、紋が足りない……!)
同じ学会に出席している社長への緊急通報紋は発動してある。
あとは望み薄だが、通り過ぎる人間がいれば。
「だれがったす……ぅえっ!」
締め上げられて空いた口にまで、ねじ込まれた触腕にえづく。
吸盤が針刺すように、肌に食いついた。
(こいつ、全部はわからないけど、イカか……!?くそみたいな化け物連れてるなぁ!!どこ所属のバカだ!)
骨を折る勢いでぎちぎちとしめつけられながら、それでも【同意】を成立させないようもがくしかない。
このまほろの裁判は、少しでも対応に微瑕があるだけで、
「助けてって言いました?言いましたよね!!やった……!!」
てめぇに言う訳ねぇだろ元凶がよ、と目の前の化け物を静かに見据えた。
(わたぼうし、のおんな……?)
暴れるうちに眼鏡が落ちたので、鮮明には見えない。
それでも、一目でわかる異様な風体であった。
白い綿帽子で顔の半分を隠した、和装の花嫁が、着物の裾や髪から触腕を覗かせている。
訝しんで目を凝らせば、白い綿帽子にイカの目玉らしきものがちらついてげんなりした。
やっぱり、化け物じゃないか。警備は何をしてるんだよ。
ぐい、と化け物の顔が近づいてきて、ようやく見える。
(また、顔だけなら、証明写真になってそうなイイコちゃん風の……)
就活受けする真面目な快活さのあるタイプだ。
まだ随分と若い。
神と化け物の区別がつかず、詐欺に巻き込まれやすい時分である。
「大丈夫、落ち着いて、あたしの神様が、あなたを助けに来たんです……ぷふっ!嫌そうな顔、きずつくなぁ」
頑張って神妙そうにしていたのが、
(何笑ってんだ、このガキ……)
この時点で、もう大分この女が気持ち悪い
手柄を奪う連中にいずれは口封じされるか、とは思っていたが、こんな最期は流石に考えてなかった。
いや、この女が何を考えてこんな真似してるかもわからないが。
「わかってます。どんなに酷い目にあっても、あんな危険な方法を使ってまで、頑張ってきたんでしょう?あたしと、あたしの神様なら、きっとどうにかしてあげられる」
知ったような口をきく。雑な勧誘に確信した。
こいつは見た目は化け物だが、随分物を知らないガキだ。
だからこんな真似でもしなければ、耳を傾けるようなやつはいないのか。
みじろぎひとつできない
きもちわるい。
(残念だけど、私にはお前なんか必要じゃ)
「のどかさんと、
恍惚とした声に、冷や汗が噴き出た。
その名前は、大事な親友の。
「えっえっ♡ すごっひどっ……♡ 何でこんな目にあってここまで生きてこれちゃったんですか♡♡♡」
茫然と目線を下に向けて、橙色の、煮解けた鉄に似た色とかちあった。
やさしく微笑まれた。
どうして、と聞く前に、とろけた声音で拘束が強まる。
ぎちり、と
「ぁ゛、ぐぅっ……!」
「あだ名かわいいー♡ お友達さんに、ちあって呼ばれてたんですか?これからはあたしが代わりにいっぱい呼んであげますね!ちーあさん♡ ふふ♡」
(こいつ、きおくをよんで)
「大丈夫、これからはあたしが直接助けてあげます!なんにもしてくれないひどいおともだちなんて、全部忘れちゃいましょ?」
(とも、ともだち、なに……?)
「えー!妹さん、似てないですね!あ、浮気かぁ……ちあさんのお父さんもそれで死んじゃったんですね!」
(まり、まりのことだけは絶対にだめっ……!)
「あっだめ?これだめ?……ほんとだ、こことると全部壊れちゃう……まだやばそうなとこ、いっぱいあるのに……幸せそうだし、こっちは後回しでいっかな?」
(こいつ……!!)
「でも、そっか。ちあさんがこんなにがんばってるなら、幸せになっちゃうのはすぐだよね……やだな」
もうこの女が何言ってるのかもわからない。
こわい。
「あっ違うんです!幸せになってほしくない訳じゃなくて、でも!あたし、ちあさんて、もうちょっとひどい目にあう方が、もっとすっごい人になれると思うんです!だからあたしが手伝って……」
続きは言葉にならなかった。
弾かれたようにドアの方を警戒した女が、触腕を収めていく。
そのまま、床に落とされた。
「じゃま、はいっちゃった。んー……また今度来ますね!次はちゃんと神様のものになってもらいますけど、それまであたしのことは、忘れておいてね♡」
わしゃわしゃと乱雑に頭を撫でられたのに、殺意が沸く。
最後まで好き勝手した女は、それきりどこかへ失せたようだ。
「かっ、ひゅー……ひゅー……」
喉がただれたようだ。
肋骨もひびが入ったのか、肺が膨らむ度に強い痛みで深く吸えない。
酸素が足りないが、この上に吐いて喉が潰れたら、もう息ができない。
トイレの床に落ちながら、ほそくほそく呼吸を整える。
「高橋さん、助けにきたよ。生きてる?」
「ぎゅう、ぎゅーしゃ」
「しにそう」
開いた扉に生還を確信した。
不思議と竜宮社長に何があったか聞かれて、
そこから2週間入院して、帰宅日に社長の奢りで散々酒を飲んで、鰻を食ったのも。
東京から来た新入社員にかかずらう内に、どんどんとあやふやになっていった。
「のっちゃん、のどか、起きて」
ぺちぺち、と両頬をそれなりの力で叩かれている。
凄まじい喧騒の中、のどかは目を覚ました。
「あのっ!!あのバケモンがあ!おまえ、おまえのせいだろう!!お前が産んだバケモンだろおおおお!!」
「お父さん落ち着いて!落ち着いてください!そっち!そっちからも取り上げろそのスカーフ!飲んでる!死んじゃうから!」
先程まで娘のために寄り添いあっていた夫婦は、無事に破局を迎えたようだ。
妻を殺しにかかる夫を警察が数人がかりで抑え、静かに装飾品の異食を始めた妻を他スタッフが食い止めている。
娘の起こした惨事の、より詳細を見たのだろう。
それでも娘の所業から目を逸らしている。
(連中には聞くことないか。あれは、誰かが語れるほどに中身のない女だ)
のっそりと枕にしていた
くせづいてうねる茶髪を、乱雑に手拭いを巻いてどかした。
本体は見た。これなら描ける。
のどかと
「腐った
「ネガティブワードは神紋にならないよー!ちゃんと映える内容にしな?」
「チッ……綿帽子の花嫁、記憶を抱く烏賊」
常に持ち歩いている
烏賊と同化した花嫁。
気色の悪い化け物を万人受けする神にすべく、精一杯マイルドに脚色を加えていく。
目の前にいたら、きっと手を尽くして殺していた敵だ。
絶対、絶対封じ込める。
井守。
あんな化け物、この世に野放しでいい訳ない。
「待ってなよ、ちあ氏!今度こそ、わたしらで助けてやっからなぁああ……!!」
…………
そういえば井守両親の反応ないな、と思ったので追記しました。
井守は生来行儀が良かったので、子どもが他所様に悪さしたのを謝った経験が少ないところに、お前んちの子が国家反逆罪したよ!と放り込まれた気の毒な人達ですね。
受容に至るまではまだかかりそうです。
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