第1話 迷宮清掃員のお仕事
今日もとある青森の総合病院における特殊隔離病棟。
その固く閉じられた一室の前に、一人の
この世の全てを僻んでそうな、呆然とした
ひどく疲れた表情の長身痩躯の
癖のある黒髪は不揃いのショートカットで、それでも切れ長の目元を掠めるほど前髪が長い。
安いプラスチックフレームの青い眼鏡は、手元の書類を確認するのに、少し顔を下げるだけで容易にゆるゆると落ちてきた。
素材的にはもう少しちょっとなんかすれば、なんとかなるはずなんだけど。
そう同じ会社のスタッフから評されて久しい。
防護服を着こんだ彼女は、静かにチェックリストの手順を確認していた。
現場はすでに扉の隙間から
(探索者が
それで地面に落とされたら、呪詛のつまった水風船みたいに破裂したんだっけ。
対象が魔物の血を出し尽くす前に、穢れに周辺もろとも土地や神々が死にかねないし、近づけば深刻な影響を医療者側も避けられないため、ろくな治療もできない)
問題は件の魔物の血が、神域以外では100年草木も生えない呪詛をまとっていたことぐらいか。
特殊隔離病棟を作っている青森のこの病院に、担ぎ込まれてすぐ
(既に特殊な造りの病室さえも侵食し、事は一刻も争う、と)
入院患者は、《
動画には、茶髪をヘアバンドでまとめた、陽気なアロハシャツのそばかす大学生が、釣り竿片手に笑っていた。
釣竿一本で神の住まう
懐広い神だったらしく、信者でもない
見事な攻略に素材と褒美を取らせた神域主に感謝もなく、自身の信仰する神の加護によって大業を成し遂げたのだと、倒した魔物の血で落書きしたそうだ。
祝福転じて大層祟られた大馬鹿野郎である旨を、主治医から聞き及んでいた。
(だいぶ事態が進行しているから、もし踏み込んだ病室内が迷宮化していれば退却。即座に待機している探索者に連絡)
神は遠い過去に定められたその通り、決して無暗に人を祟らないし呪わない。
信仰を捧げていれば、加護を与えて護りもする。
小学校で習う常識である。
基本的に法律と倫理に反した行いをしないだけで、なんの問題もないのだけれど。
(汝は我が神にあらず。我が命運、ほにゃらら様のまにまに、だっけ。信者こわ)
信仰を理由に度を越えた人間は、大概呪われて災害を引き起こす。
それ以上周囲に被害を広めないために、こうして特殊隔離病棟に押し込まれるけれど。
概ね、成す術なくそのまま死を待つことになるのだ。
優れた迷宮清掃員は、これまでの人生で神々から得られた【
神からは歯牙にもかけない存在らしく、生まれてこの方ノースキル人間である
特殊な装備と言えば、会社から支給されたゴーグルとマスク、全身を覆う防護服、どんなヨゴレにも壊れないモップや2本の箒。
後は何故か浄化された水の尽きない、来歴不明の不思議なバケツくらいだろうか。
これは一応、
持ち手はない。真っ黒い岩を削りだしたような武骨な見た目に、あしらわれた青系統の石、もしくはガラスがひとりでにぼんやりと光るバケツである。
ちょっとだけ床から浮かびあがり、静かに
さて。さて。
ビニールキャップを被る頭から、髪のひとすじも肌にかからないか。
鼻に金具で留めたマスクから、多少の息漏れも感じないか。
防護服に固めた身体が、素肌を晒していないか。
病室横に据えられた鏡で、2回ほど指差して確かめ、扉を2回ノックした。
過不足なく伝わるように、迷宮清掃員、高橋
「おはようございます。お部屋の清掃にまいりました」
返事は待たない。
既に
そもそも入院に際して、清掃を拒むことは許されないと、保証人により契約が結ばれている。
失礼します、との一声かけて、一礼してから
特別隔離病棟は、ベッド以外の家具は置かれていない。
所詮神域の最深部に巣食った程度の魔物の呪詛だ。
部屋の被害も、たかが全てが汚濁した血に塗れたぐらい。
幸い
たとえ呪詛に触れた防護服の表面が、酸に触れたように焦げついても。
護られたはずの全身を虫がはい回るような不快感がなでて、肺を腐った空気が満たしても。
ここは幸い手さえ止めなければ、いつかは終わる現場である。
歯を食いしばって、気が狂うような不快に耐えて、ただ丁寧に作業を繰り返すだけだ。
丹念に丹念に、天井に壁に床にベッドに、くまなくねばついた呪詛を拭う。
一拭きでモップに凝って固まる血のような呪詛を、バケツの水に浸せば、バケツが青く光って消し去ってくれるのだけは楽しい。
経験上手作業でひとところにまとめてしまうと、融合して何かしらの化け物になるので、こうする他ないのだ。
4、5時間ほど同じ手順を繰り返していれば、部屋全体から零れ落ちる血の量が減り、少しずつ通常の病室の姿を取り戻していく。
6時間経過して、壁に波打つような血管が死に絶えたように張りをなくしていく。
9時間かけて、ベッドも含めてやっと呪詛をすべて始末し終えたころには、窓の外は真っ暗になっていた。
(終わった……)
今回は幸い、襲いかかるものもない依頼とはいえ、一件こなすたび、生き延びたと安堵する。
いらない呪詛を出し切ったからか。先程まで泥濘に浮かぶ人形じみていた
苦悶に満ちていた表情も、今は少しだけ穏やかな気がした。
病棟スタッフを呼び込んでも問題ないか。最後に
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