第17話

 6月、その日は突然やって来た。


 ワールド通信社福島支局の高木支局長と朝比奈記者は取材に出ていて、有希菜はのんびりとおやつを楽しんでいた。


 ――ゴトン、……遠慮のないドアの開閉音がした。戻ったのが支局長だとしたらおやつを隠さなければならなかった。


「おかえなさい……」


 スナック菓子を隠すために引出しを開けながら声をかける。目の隅に映ったのは支局長ではなく、初めて見る男性だった。しかも1人ではない。似たようなスーツ姿の男性が出入り口を埋めている。


「……エッ?……いらっしゃいま……」


 驚いて手元が狂った。引出しに入らなかったスナック菓子が飛び散って床に落ちた。


「アッ、やだ……」


 有希菜の心は、床のスナック菓子と出入り口のスーツの男性たちの間で、ぐるぐる回った。


「責任者は?」


 リーダーらしい先頭の人物が求めた。40代だろう。渋い彼の顔には自信と傲慢と警戒心が張り付いている。彼が進むと、後の者たちが続いた。皆、段ボール箱を抱えている。10人ほど入ったところで、狭い事務所はいっぱいになった。


「支局長は外出中です」


 応じながらも、有希菜の頭は床に散らばったスナック菓子のことでいっぱいだった。……ああ、もったいない。ああ、支局長が戻るまでに片づけないと……。


「そうですか……」


 男性は小さな失望を顔に浮かべると、懐に手を入れた。そうして取り出した1枚の紙切れを、有希菜の目の前に威圧的に突き付けた。


「警視庁公安部の者です。特定秘密保護法、並びにテロ等準備罪違反容疑で家宅捜査を実施する」


 え? ナニ? どういうこと?……脳内に散らばっていたスナック菓子がクエスチョンマークに形を変えた。同時に得体のしれない恐怖に襲われた。怖気づき、まともに文字を読むことも声を出すことも出来なかった。


 目の前の公安部員は書類を折りたたんで内ポケットに入れた。答えろ、とでもいうように視線は有希菜を射たままだ。


「……し、支局長に連絡しても、いいですか?」


 どうにかそれだけ言えた。


「ご随意に」


 彼が応じた。


 急いで電話を掛ける。


「し、支局長!……か、家宅捜査です……」


『家宅捜査?』


 一瞬、電話の向こうの高木が黙った。


 有希菜が何も言えないでいると『捜査令状は見せられたか?』と高木が言った。


「あ、はい。たぶん……」


 書類は見たが、文字は読めなかった。


『急いで帰るから、好きなようにやらせておけ』


 そう指示を受けて、やっと有希菜の気持ちは落ち着いた。


 事務所に入ってきた捜査員は10人ほどだったが、事務所の外にも沢山の捜査員がいて、リレー方式で手当たり次第に荷物を運び出していた。窓から見下ろすと、ビルの前に止めたワゴン車に向かって荷物を運ぶ捜査員の姿があった。


 まさか?……有希菜の目は、ワゴン車に荷物を積み込む捜査員の1人に釘づけになった。その捜査員は宮崎に似ていた。しかし、ななめ上から見下ろす形なので顔がはっきりしない。第一彼は民間企業に勤めているはずだった。ここにいるはずがない。そうわかっていても、似ている捜査員から目が離せなかった。


 有希菜が1人の公安部員に意識を向けている間に、事務所は公安部員によって荒らされていった。書類棚や支局長や朝比奈の引き出しから様々なファイルが引っ張り出されて段ボール箱に詰められた。サーバーや机の上の情報端末は電源が抜かれ、やはり段ボール箱の中に……。有希菜の机の引き出しも調べられたが、押収されるものはなかった。


 家宅捜査は1時間ほどで終わり、情報機器や書類ファイル、帳簿類を運び出された。


「これが押収リストです。責任者に渡してください」


 有希菜は押し付けられるようにして4ページにわたる書類を預かった。


 彼らは津波がひくように、あっという間に事務所から消えた。残されたのは半分空っぽになった書庫と事務机、給湯器室の備品や床にこぼれ、彼らに踏みつぶされたスナック菓子のクズだけだ。


「片付けていきなさいよ!」


 有希菜は閉まったドアに向かって言った。


 乱雑に放置されたファイルを書庫に戻し、粉々になったスナック菓子を掃除機で片づけた。そうしながらも脳裏でグルグル回るのは、宮崎に似た捜査員の姿だった。とても他人の空似とは思えなかった。


 ふと思い立って宮崎に電話を掛けた。あの捜査員が彼でないことを確かめるつもりだ。


『おかけになった電話番号は現在使われておりません……』


 鼓膜を震わせるメッセージは有希菜を絶望の淵に突き落とした。目の前が暗くなり、膝が震えて床に座り込んだ。その時、高木が帰社した。


「やられたな……」


 開口一番、彼はそう言い、呆れたように事務所内を見回した。


 有希菜は精一杯足腰に力を入れて立ち上がり、机の上の押収リストを手にした。


「これを預かりました」


「ウム……」


 高木が押収リストを受け取って目を走らせる。


「佐伯、大丈夫か?」


 支局長が何を案じているのかわからなかった。何か、大切なものを預かっていただろうか?……不安が膨らんだ。


「何が、……ですか?」


「佐伯だ。暴力は振るわれなかったか?」


「あ、はい」


 支局長に心配されていると知り、傷んだ心が少しだけ回復した。

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