第48話

 閉めっぱなしだった事務所は、ひどく蒸し暑かった。


「ここが高木支局長の城だったのね。支局長の怨念おんねんが、灼熱地獄から舞い戻ったみたいだわ」


 斉藤が額の汗を手の甲で拭った。


 朝比奈は慌ててエアコンのスイッチを入れた。轟々とエアコンの吹き出し口から熱風が吹きだす。


「どうして……」


 つぶやいた彼女は高木の机の前にしばらく立ちつくしていた。


 朝比奈は高木と斉藤の関係を元上司と部下ということしか知らない。きっと古い思い出が多いのだろう。彼女は心の整理をつけたいのに違いない。それにしても怨念なんて……。胸の中に、彼女の言葉がとげのように引っかかっていた。


 彼女が動くまで、静かにその背中を見守った。


「あの日、高木支局長が私を訪ねてきたのよ。正確には前日だけど……」


 振り向いた彼女の眼は、少しだけ赤みを帯びていた。


「新潟に?」


 訊くと、彼女はうなずいた。


「そうでしたか」


 朝比奈はソファーに座るように促し、給湯室の冷蔵庫から冷えた麦茶を出して彼女の前に置いた。


「午前11時に新潟支局を出たのよ。君に謝らないといけないって」


「僕に謝る?」


 問い返しながら、午前11時から事故に至るまで、支局長はどこで何をしていたのだろうと思った。


「調べているでしょ、次世代エネルギー創造公社。その記事を八木次長が止めているから、新潟支局から出せという話だったわ。それで、無駄骨を折らせる朝比奈さんに謝らないといけないって。……てっきり、こっちに帰ったのだと思っていたけど」


「そうでしたか、無茶を言いますね」


 高木がそんなことを考えていたのだと知ると、今更ながら、その存在の大きさに押しつぶされそうな気がした。


「何か連絡はない?」


 斉藤が言った。


「連絡?」


「亡くなったのは深夜だから、それまでの間に君に指示が出ていないかと思って。それと、高木支局長自身の原稿が上がっていると思うけど」


 朝比奈はタブレットを確認した。高木支局長からのメールやダイレクト・メッセージはなかったが、自分が保管したデータに高木のメッセージが二つ添付されていた。


「直接の指示はありませんが……」


 添付されたメッセージの一つはテキストメモで、今の方向性で調査を進めろという変哲のないものだった。もう一つは音声ファイルだ。


『……お前も気付いている通り、これは秋川の資金横領という背任事件でもある。その線で押せば記事は通る。斉藤支局長が手伝ってくれるだろう。それともう一つ。いくつかの公社が与党議員の関連企業から物を買っている。おそらく定価以上の価格だ。それを洗え』


「やっぱり……」彼女の瞳には確信の光があった。


 太い高木の声は、元気だったころの彼の仏頂面を思い出させた。


 僕はこんな大切なものに五日間も気づかずにいたんだ。……自分の未熟さを痛感した。


「高木支局長のファイルもお願い」


 斉藤の言葉に応じて、サーバーの高木支局長のホルダーを確認する。事故当日の昼と深夜にファイルがアップされていた。しかしファイルそのものは、二つのパスワードでロックされている。それがワールド通信社の標準的なセキュリティーで、朝比奈にも開くことはできない。


「パスワードがわからないと……」


 朝比奈は絶望的に首を振った。ところが斉藤は、さっさと本社の情報システム部に電話を入れた。


「新潟支局の斉藤です。福島支局と共同調査をしていたのだけれど……。高木支局長のファイルを確認したいのよ。そっちで固定したパスを教えて」


 電話の相手は、パスワードの開示は編集局長の許可がいると応えた。


「局長には、葬儀の時に許可を取ったわよ。急ぐから早くして。スクープを逃したら、あなた、責任とれるの!」


 斉藤が伝家の宝刀を抜いた。受話器の向こうの担当者が折れたようだ。ペンを取ると10桁のパスワードのメモを取った。


「局長の許可も取っていたんですか。手回しがいいですね」


 さすが、最年少で支局長になった人は違う!……朝比奈は彼女を尊敬のまなざしで見ていた。


「まさか。許可を取ったなんて、嘘よ」


 彼女は澄ました顔で応じた。


「そんなことをして大丈夫ですか?」


「どうせ誰もここにはアクセスしないわよ。覗くとしたら八木次長かな?」


 斉藤は高木のファイルをコピーすると朝比奈のホルダーに保存した。


「高木支局長が設定したパスワードはどうするのですか?」


 パスワードの一つは、本人が設定するものだ。支局によっては支局長が局員分のパスワードをすべて管理しているが、福島支局では個人単位の管理だった。


「何とかなると思うわ」


 斉藤は、最初のパスワード欄に情報システム部から聞きだした10桁のパスワードを入力すると、高木自信が決めるパスワード欄には〝aiko-t〟と入力した。


「高木支局長のパスワードを知っていたのですか?」


「ええ。高木さんは、いつも奥さんの名前をパスワードにしていたのよ……」


 朝比奈は高木と斉藤の関係の深さに嫉妬を覚えた。


「……15年の付き合いだからね」


 斎藤が悲しそうに微笑んだ。


 最初に開いたのはテキストファイルだった。高木が分析した次世代エネルギー創造公社を中心とする裏金作りのスキームと、秋川の着服の事実がまとめられていた。それに添付された音声ファイルには、その日、秋川理事長と高木のやり取りが収められた。『秋川理事長は、餌に食いついた……俺との取引に応じるという……』そんな風に始まっていた。


 スピーカーから、理事長室での秋川と高木のやり取りが流れてくる。高木は、秋川が海外から受託したポッドの管理費用を日本国政府に請求し、海外からの入金は北陸エネルギー公社に移動させてから、次世代エネルギー創造公社の関連団体と与党議員の政治団体などに提供するという金の流れを淡々と説明していた。秋川個人が着服するものも、同じ流れだと告げると、秋川自身はそれを否定した。


 沈黙の時間は、資料を見せている時間だろう。


 時折、秋川が『誰に聞いた』と口をはさむ場面がある。


 会話の中には大池英樹総理を始め、数人の政治家の名前も出たが、それらは朝比奈も知らない話だった。


「これは大変な事実ね。大きな汚職事件に発展するわ」


 斉藤の声にも応えられないほど、朝比奈は衝撃を受けていた。ほぼ同じ情報を持ちながら、朝比奈の分析は、高木の足元にも及んでいなかった。


「高木支局長。すごいです」


 目の前に高木がいたら、抱きついてしまうだろうと思った。


「あなただって立派なものよ。あの高木さんが満足していたわ」


「高木支局長が、……ですか?」


 高木に認められていたのは嬉しかった。少しは自信を持ってもいいのだろうか?


「支局長の車に浴びせられた電磁波は、この音声ファイルを消すためのものだったのではないでしょうか?」


「恐ろしい話だけれど、その可能性は高いわね。ファイルだけを狙ったのか、高木さんの命までも狙ったのか、それはわからないけれど、単なる事故や悪戯ではないわ」


「一つだけ、ほっとしたことがあります」


 朝比奈がいうと、斉藤が首を傾げた。


「なあに?」


「このファイルの存在を知るまで、八木次長が支局長を狙った可能性も考えていました」


「私もよ」


 さらりと応じた。


「そうですか。これで少し気が楽になりました」


「私は、まだ八木次長が犯人の可能性も捨ててはいないわよ」


 そう言うと斉藤は爪を噛み始めた。そして、正解の見つからぬままにメモのファイルを開き、文字を入れた。


 朝比奈は、仕事に取り組む斉藤を見つめながら、自分の甘さを叱った。

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