第2話

 ――ワールド通信社福島支局


 朝比奈は緩慢かんまんにドアを開けて後悔することになる。


「おはよう」


 飛んできたのは支局長、高木在昌たかぎありまさの声だった。


「おはようございます」


 挨拶を返しながら、シマッタ、と奥歯を噛む。上司に先にあいさつをされるなど、会社員としては失格だ。


 同僚の話では、高木は優秀な記者だということだった。それが今は、福島という局員3名だけの田舎の支局長だ。上司との折り合いが悪く、田舎の支局を転々としているというのがもっぱらの噂だが、真実はわからない。


 朝比奈が福島支局に異動したのが昨年の4月で、高木との付き合いは1年ほど。彼はプライベートなことを語らず、仕事がないと定時に帰ってしまうので、世間話をすることも少ない。これまでのところ、高木の優秀な姿を見たことはなかった。


「朝比奈、〝クレドルゴールドcradle gold・システム〟って聞いたことあるか?」


 支局長が僕のプライベートを訊く以外で質問をするのは珍しい。いや、初めてかもしれない。……小さな驚きを覚えながら記憶をまさぐる、クレドルゴールドといった言葉がないことを確認した。


「〝クレドルゴールド・システム〟……なんですか?」


「俺が訊いているんだよ。まあ、いい。知らないようだな」


 あぁ、またやっちまった。……うだつの上がらない上司の評価など気にするつもりはない、と考えながらそこは会社員、実際は気にしていた。


「ええ。教えてください」


 砕けた口調で距離を縮めた、


「俺も知らない。フランス支局の同僚からの連絡で、福島にそんなシステムがあるのかと訊かれたのだ」


「フランスからですか。……スペルはわかりますか?」


「クレドルはゆりかごという意味だ。直訳すれば金のゆりかごシステムだが……」


「特殊な投資方法ですかね?……ねずみ講みたいな」


「俺に訊いてくるんだ。しかも〝福島に〟と地域限定だ。経済事案ではないだろうなぁ」


「少子化対策とか? ゆりかごだけに。……逆に、介護の可能性もありますね」


 ピントハズレだと思ったのだろう。高木は大きく息を吐き、椅子を回すと窓の方を向いてしまった。


 朝比奈はもやもやした気持ちを抱えながら自分の席に着いて仕事の準備にかかる。準備と言っても、福島では全国や世界に発信する情報は少ない。以来。もっともそのころ朝比奈は生まれてもいないが……。


 東日本大震災と福島第一原子力発電所事故があった40年前ならニュースはたくさんあっただろう。その後、事故のあった原子炉の解体は、順調とまでは言えないものの方向性が決まり、ここ数年で原子炉内部から溶融した核燃料、いわゆる燃料デブリを取り出す見通しも立った、と政府の発表があった。そのためのロボットも多数開発され、一部はメディアにも公開された。そうして動き出したのがだ。


 その記事は当時の支局長が書いていた。スターフィッシュ、つまりヒトデ型のロボットが核容器の内側に足を突っ張りながら降りていき、中央の口にあたる部分から伸ばしたアームで核容器の底をくりぬき、その下に固着している燃料デブリを削り取ってバキュームホースで吸い上げる。それがスターフィッシュ計画で、現在も進行している。その状況は、スタート時こそメディアに公開されたが、現在は3カ月ごとに〝廃炉システム開発機構〟が提供するものだけになった。


 ちなみに〝廃炉システム開発機構〟は、廃炉を事業化して世界中の原子炉の解体工事の受注を目的としている。だからこそ、そこに投入される税金は電力会社を助けるものではなく、未来への投資であって無駄ではないという理屈だ。


 当時の取材映像もあった。巨大なから足が8本伸びていて、核容器の内側で踏ん張っている。その背中には粉砕したデブリを吸い上げる太いホースとクレーンで本体を支える補助ワイヤーが3本あった。そうしたヒトデ型のロボットが円筒形の核容器をえっちらおっちら下りていく様はユーモラスだ。その仕組みを岩城翔太いわきしょうた理事長が得意げに説明している。


 マンガだな。……朝比奈は笑った。


 ここ10年、廃炉システム開発機構が出してくる写真や映像はいつも同じだ。何分原子炉内部は粉塵ふんじんが舞っていて放射線量が高い。底に溜まった水中も状況は同じで、映像も砂嵐の中を映しているのに等しい。データのタイムスタンプは都度新しいものになっているが、前回のコピーを見せられているような気分になる。だからといって他に情報はなく、デブリ回収率15%、16%と、廃炉システム開発機構の公式発表をそのまま記事にしている。


 もっとも、スターフィッシュ計画が順風満帆というわけではない。スタート直後、数か月した時のことだ。ヒトデ形のロボットが水素爆発を誘引するというトラブルがあった。その記事も当時の支局長が書いている。それからほどなく4月戦争があり、メディアの関心はすっかりそっちに移った。核や原子炉に詳しいこともあって、当時の福島支局長は大阪の支局長に栄転、4月戦争のその後を追いかけることになった。


 あれから20年ほどの時がたち、その支局長は役員の席にいる。デブリの回収は3カ月で1%、年間4%しか進まない。そうした時間に比べれば、人間のそれはいかに早いことか。……朝比奈は資料から顔を上げて嘆息した。いつか自分も役員に!……秘めた野望を自覚した。


 蝸牛かたつむりの歩みではあるけれど、スターフィッシュ計画は確実に進んでいる。それは大きなニュースではなく、記者と事務員が3人の支局は、と社内で陰口をたたかれている。


 出世など望めるはずがないなぁ。……ホッと、ため息がこぼれた。


 朝比奈は、高木を真似て椅子を反転させると外の景色に目をやった。福島駅の古い駅舎の向こうには、やはり古い建物が立ち並んでいる。それらはうっすらと雪に覆われて朝日の中でキラキラと輝いてはいるが、そのきらめきとは逆に、その中で生きている人々の活動は湿っぽいものに思える。自分もその一人だ。


 視線を上げると薄い鼠色の雲が空をほとんど覆っており、太陽はその隙間から注いでいた。雲と大地のつなぎ目の向こうには低くなだらかな阿武隈あぶくま山地があり、その遥か先に解体作業が続く原子力発電所の残骸がある。


「朝比奈、ボーっとせず仕事をしろ」


 背後から朝比奈を叱ったのは高木ではなく、昨年入社した事務の佐伯有希菜さえきゆきなだった。


「先輩を呼び捨てとはひどいな」


「福島支局では、同期ですよ」


 朝比奈は、たまには先輩として説教をしようと思った。勢いよく椅子を回転させて正面を向くと、つま先が紙屑籠に当たった。それはカラカラと紙くずをまき散らしながら転がる。


「あちゃ」


 朝比奈は頭を抱えた。


「ドジですね」


 背中に有希菜の声が投げつけられる。


「ばか野郎。お前のせいだろう」


 床に散らばった紙くずを拾う。


「違いますよー。蹴ったのは朝比奈さんですぅ」


 有希菜が鼻で笑いながら自分の席に着いた。


「まったく、なんて不幸な一日の始まりだ」


 ぼやくと頭の中に〝ゴミ〟のイメージが油のように広がっていく。


「あのゴミはどうなったのだろう?」


 朝比奈は情報端末の前に座ると原子力発電所の解体現場に向けて設置されている監視カメラの映像を開いた。

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