第37話

 朝比奈は、高木と打ち合わせをした後、意気揚々と夏祭りの取材に出た。出勤前にはつまらないと思っていた取材も、どうしたことか充実した気持ちで向き合うことができた。そうして事務所に帰ると、「奥さんが可哀そうです!」と有希菜が激しく抗議しているところだった。


 高木は困り顔で、勾留こうりゅうされていた期間にたまった事務処理をしていた。支局長の彼は、たとえ勾留されていたとしても、支局の予算管理や部下の勤怠管理といった事務処理が免除されることはなかった。


「佐伯さん、どうしたの? 声が外まで聞こえたよ」


 朝比奈は、支局長を助けるようなつもりで大袈裟おおげさに言った。


「だって支局長ったら、釈放された後、自宅に寄らずにこっちに来たのですよ。ひどくないですか?」


「なるほど……」朝比奈は思わず唸った。「……まるで昭和の働き方ですね」


うるさい。俺の勝手だろう」


 高木が唸るように応じた。


「もう、中年離婚になっても知りませんよ」


「それを言うなら熟年離婚だろう?」


「熟年になる前に離婚届を突き付けられるんです。もう、用意されているかもしれませんよ」


 有希菜が頬をふくらませて自分の席に腰を下ろした。


 朝比奈は、藍子の感情のない顔を思い出した。有希菜には聞こえないように声を抑え、高木にささやく。


「でも、早く帰ってあげてください。支局長が逮捕された時、僕が報告に行きました。奥様、座り込んで泣いてしまいましたよ」


「……そうか」


 彼が深刻な表情を作った。


「支局長の仕事ぐらい、私がやっておきますよ」


 遠くの有希菜が、無茶苦茶なことを言った。


「まるで駄々っ子だな。やれるものならやってほしいよ」


 高木が苦笑し、情報端末の電源を落とした。


「まあ、一度帰って出直すよ」


 朝比奈の肩をトンとひとつ叩き、高木が帰宅した。


「支局長の奥さんは、かわいそうですね」


 有希菜は高木が帰った後もしつこく言い続けた。


「支局長は仕事が恋人だからな」


「それなら、もっとかわいそうです」


 彼女が涙を浮かべた。


 ヤバイ!……追及の矛先が自分にも向きそうなので、朝比奈も早々に次の取材に出た。




 福島盆地の夏はとても蒸し暑い。フェーン現象で熱せられた空気が盆地の底に沈殿する。


 まるで地獄の窯のようだ。それが年を追うごとにひどくなっている。地獄がどんなか、知らないけどな。……「福島は暑い」声にしたところで状況は変わらない。


 生まれ育った釧路の乾燥した夏が恋しかった。しかし、そこに住んでいた頃は冬の厳しい寒さが嫌いで、いつもそこを出たいと考えていた。「楽あれば苦あり、一長一短」そう言い聞かせて自分を鼓舞こぶするようにしていた。


 やはり暑い日だった。その日は定時に帰宅した。アパートに着いてドアの錠を開けると、部屋の中から熱風が流れてくる。一日中エアコンをつけっぱなしにしている家もあるが、在宅しているならともかく、人気のない家を冷やすことには抵抗があった。それによって地球の沸騰ふっとうが加速すると思うからだ。


「暑い、暑い……」


 言いながら窓を開けて空気を入れ替え、それからエアコンのスイッチを入れた。


 アオイは勤め先のスーパーマーケットから帰っていなかった。2人は朝比奈の前の任地だった新潟で知り合い、付き合い始めた。4年前のことだ。当時、彼女は朝比奈が取材に回っていたメガバンクの支店に勤めていた。


 一昨年、福島への転勤が決まり、それを期に2人は結婚した。2人の仕事は転勤が多いので、アオイが正社員として働くことを諦めた。彼女は、自立した個人であるより、家族の1人であることを優先したのだ。「仕事を辞めるとき、上司や同僚から失望の言葉を掛けられたのよ。嬉しかったけど、責任を感じたわ。ユウイチと転居するたびに、そんな責任を感じるのは御免だもの」彼女は、正社員にならない理由をそう話した。朝比奈は、ただ感謝した。


 部屋の隅に置いたライティングデスクにタブレットと缶ビールを置いて、メモリーカードから取材資料を読み込む。関係者の一覧表、次世代エネルギー創造公社の関連企業一覧、球体のポッドの写真、ポッドの数量を表示したモニター画面の写真、請求書の明細……。テレビの大画面に、読み込んだ資料を展開した。


 缶ビールを手にしてソファーに席を移し、それらの資料を俯瞰ふかんする。


「おっと、忘れていた」


 タブレットを手に取り、関係者の一覧に【八木敏夫】と編集局次長の名前を付け加えた。


 画面を見つめながら冷えたビールを喉に流し込んでも身体は冷えなかった。むしろ、腹の底からカッカと熱がわいてくる。


 缶が空になったころ、部屋の空気がどうにか適温に達した。すると睡魔に襲われた。


 ――カラカラ、……何かがガラスにぶつかる音が遠くでする。


「……ん……ん、なんだぁ?」


 目を覚ますと、音は思ったよりも近くでしていた。


「おはよう」


 アオイの声だった。


「あ、おはよう」


 返事をしてから、騙されたことに気付いた。窓はカーテンが引かれたまま、明かりは照明のものだった。デジタル時計は午後7時38分を表示している。考え事をしているうちに寝てしまったらしい。空きっ腹にビールを流し込んだのがいけなかったのだ。


「良く寝ていたわよ」


 彼女が微笑んだ。


 テレビの画面が消えている。スイッチを入れると、通常の放送が流れた。


「仕事をしていたのでしょう。寝ていたからテレビを消したけど、まずかった?」


 アオイが素麺そうめんと天ぷらの器をテーブルに並べだす。カラカラという音は、氷が素麺の器に当たる音だった。


 料理を目にした途端、空腹に襲われる。


「いや。まずくはないけど、中身を見た?」


「うん。見ちゃった。でも、何の事だか分からなかったわ……」


 アオイが作り笑いを浮かべ、言葉を継ぐ。


「……ただ、次世代エネルギー創造公社というのには驚いたわ。さあ、いただきましょう」


 2人は箸を手に両手を合わせ、それから素麵に箸を伸ばした。


「次世代エネルギー創造公社を知ってる?」


 冷たい麺がのどを滑り降りていく。


「銀行に勤めていた時に、……口座があったのよ」


「それは意外だな。新潟に口座があるなんて」


「そうなの?」


「次世代エネルギー創造公社は東京にあるんだよ。新潟に支部みたいなものはなかったはずだ。口座は東京の支店におくのが普通だろう?」


「あぁ、それはそうね」


「しかし、良く覚えていたな。もう2年も前のことなのに」


「だって、珍しかったから。外国から大金が送金されてくるのだもの」


 朝比奈は打たれたように頭を起こし、彼女の瞳を見つめた。


「外国って、どこの国か覚えている?」


「うーん。アメリカとフランス、……あとは、忘れちゃった」


 アオイは無邪気に笑った。


「そのお金は、いつごろから振り込まれるようになっていたのかな?」


「そんなに古いことはなかったと思うわよ。私が銀行を辞めるほんの少し前だったと思う」


「金額は?」


「そんなこと聞いて、どうするの? 銀行を辞めたとはいえ、私にも守秘義務があるから」


 アオイはまた笑った。


「守秘義務なんて、今更だな」


 朝比奈も思わず笑った。


「そう?」


 彼女が首を傾げた。


 その様子は可愛らしく、そして少しだけセクシーだ。抱きしめたいと思った。


 ――ズズー、……素麵をすすり、頭をもたげた欲情を押さえた。


「……まあいいわ。ユウイチのためだから教えてあげる。……毎月、大金が入金されたのは間違いないけど、金額は覚えてないわ。おそらくドル建てだったのよ、毎回金額が変わっていたから」


「そのお金は僕が追っている事件と、関係があるかもしれない」


「そうなの。それって国際犯罪かしら?」


「犯罪?……どうだろう……」


 国の外郭団体が国家間の密約に基づいて核廃棄物を持ち込み、受託料を得ている。それは犯罪なのだろうか?……朝比奈は首をひねった。


「さあ、沢山食べて。体力をつけないと、夏バテするわよ」


 アオイに促され、考えるのを中断する。食欲という人間的な世界に戻った。


「沢山食べて、精をつけてね」


「食欲の次は、性欲だな」


「ばか」


 彼女が笑った。

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