第6章 進展
第36話
高木支局長が逮捕された後、その席は空席のままだった。彼の代理が派遣されてくることもなく、地元の取材は全て残された朝比奈に任された。
「今日はつまらない取材ばかりだよ」
朝食の席でアオイにぼやいた。その日は夏祭りと日照りで農作物が打撃を受けているといった取材を予定していた。
「以前話していたスクープはボツになったの?」
「ペンディングだよ。編集局の腰が重くてね」
朝比奈は大好きなポテトサラダを頬張る。どんな記事を書いているのか、アオイには伏せていた。
「やっぱり高木支局長の逮捕が影響しているのかしら?」
「うちは記者の逮捕ごときでひるむ会社じゃないよ」
「あら、心配」
アオイが空いた食器をキッチンに運ぶ。
「なにが?」
朝比奈の視線が彼女の背中を追う。
「ユウイチが逮捕されても、会社は何もしてくれないのね?」
「弁護士くらいは雇ってくれるよ。おっと、遅刻しそうだ」
テレビの時刻表示を見て立ち上がる。
「気を付けてね。牢屋に入ったら、浮気しちゃうから」
甘えるアオイと軽くキスを交わしてから家を出た。
7月の太陽は朝から銀色をしている。短時間の通勤時間だが、エアコンの効いた車がなければ、この太陽の下を出勤する気持ちにはなれないだろう。
「誰が地球を沸騰させたんだ」
支局で借りている駐車場は露天で、そこから事務所まで歩く。まだ午前九時前だというのに汗が湧き出した。この時刻ならば有希菜が先に来て、エアコンのスイッチを入れてくれるだろう、と期待しながら。
事務所のドアを開けると期待通りに部屋の冷房が効いていた。期待が実現するのは気持ちがいいものだ。ただ、予想に反し、「おはよう」と聞こえたのは太い男性の声だった。
「支局長!」
片手を上げる高木の席に駆け寄った。
「心配かけたな。不起訴処分で釈放されたよ」
朝比奈を見上げる高木は疲れた顔をしていた。
「おめでとうございます」
「何もめでたいことはない。普通の状態に戻っただけだ」
「結局、何の容疑だったのですか?」
「経産省を退職した伊藤というオッチャンから、情報を聞き出したという事らしい」
「伊藤恭介ですか?」
打ち合わせ時に何度か出た名前なので、朝比奈も名前だけは覚えていた。
「出納伝票に伊藤さんからの領収書があったから、そこをしつこく責められたよ」
高木が苦笑いを浮かべる。
「うまく乗り切れたのですね?」
「いや。正直に話しただけだ」
「正直に……、ですか?」
どういうことだろう?
「ああ。クレドルゴールド・システムの件では、伊藤氏はあまり情報を持っていなかった。核廃棄物管理事業団の不動産を調べてみろと言っただけだからな。実際、不動産を所有していたのは次世代エネルギー創造公社だから、伊藤氏は秘密を洩らしていないわけだ」
「そういうことですか。しかし、支局長が戻ってこられて良かったです」
朝比奈の目じりに涙がにじんだ。
「おいおい、泣くのは勘弁してくれ」
高木が、あっちに行けというように、手のひらを振った。
「おはようございます」
ちょうどその時、元気な声と共に現れたのは有希菜だった。
「支局長!」
彼女が喜び勇んで駆け寄ってくる。その眼にはすでに涙があふれていた。そうして朝比奈が泣く機会は完全に奪われた。
「おー、よしよし……」
高木は赤ん坊にするように、彼女の背中をトントン叩いてなだめた。
「ところで……」
有希菜がひとしきり涙を流した後、高木がコーヒーカップを片手に立ち上がる。
「……朝比奈、記事は出たのか?」
朝比奈の眼が泳いだ。
「まだ、のようだな」
「八木次長からペンディングと言われたままです」
朝比奈は視線を落とす。記事は書き上げていたが、自信をもって見せられるほどのものではなかった。
「確証はないが、八木次長は公安とつながっている」
そのような話は、普段なら事務の有希菜には聞かせない。しかし、その時は有希菜にも聞こえるように言った。
「佐伯、君も被害者だから話しておこう」
高木は応接椅子に移動し、その前に朝比奈と有希菜を座らせた。
「おそらく、八木次長は公安から情報を得るために、バーターでこちらの情報を流している。今回の件は、たまたまそんなことで利用されたのだと思う」
高木は朝比奈と有希菜を見据えるようにし、事情聴取を受ける中で、逆に刑事から社内に情報提供者がいることを聞き出していた。それが八木だというのは、情報の範囲の広さからの推測らしい。
「次長は、俺たちが原発の件を調べていることを流した。それは事件にならないネタだろうという憶測から始まっているのだと思う。その結果、公安が動き、佐伯にイケメンが近づいた」
その言葉は有希菜にどう聞こえるのだろう。……朝比奈は案じ、有希菜の表情をうかがった。彼女と視線が合った。
「……私なら平気です」
彼女はそう応じたが、決して平静な顔色ではなかった。
「そういうことだから、俺が捕まったのは佐伯の責任ではない。八木次長にしても、誤算だったことだ」
高木が表情を崩した。難しく考えるな、ということだ。
「誤算ですむことではないと思います」
強く言ったのは有希菜だった。
彼女の抗議は高木と八木次長の両者に向けられていると思った。
「理由はどうあれ、社員を警察に売るなんて、私は許せません」
有希菜は噛みつきそうな勢いだった。高木が困った表情を作り、助けを求めるように朝比奈に目を向けた。
「少し落ち着こう」
朝比奈はなだめたが、気持ちは有希菜と同じだった。犯罪者を告発するのが市民の義務だとしても、八木は社員である高木と有希菜の人生を狂わせ、心を傷つけたのだ。誤算だったからといって、八木が許されていいわけがない。
「八木次長が公安当局とつながっているという証拠があるのですか。それなら経営陣に……」
社内で告発し、懲戒処分にでもしてもらわなければ、安心して働けないではないか。
「物証はないのだ……」
高木が朝比奈の話を
「……取り調べに当たった刑事は、ワールド通信社内の内情にも、福島支局の内情も良くつかんでいた。こちら側に情報を流した者がいなければ知られないものばかりだった」
「それは私が……」
有希菜の声が震えている。
「違う。佐伯の知らない情報を公安はつかんでいた。たとえば、俺がクレドルゴールドの件を聞いたのはパリ駐在の同僚からだ。それを知っているのは朝比奈と八木次長だけだ。有希菜は知らなかっただろう? だからといって、それで八木次長を告発するのは根拠が薄すぎる」
彼女を見る高木の眼は優しかった。
「支局長の逮捕が誤算だとしたら、その後で僕の記事にストップをかけているのは何故でしょうか?」
「それは、俺にも分からない」
「八木次長が公安に流す情報が、テロの件や公務員が情報を流している場合だけなら、僕たちの記事を止める理由はありません」
「ああ。朝比奈の言うとおりだ」
高木が目をつむった。
朝比奈は高木の考えがまとまるのを待ち、有希菜はコーヒーを淹れに立った。
「まだ情報が足りない。八木次長のことは置いておこう。それよりも、朝比奈……」高木は朝比奈に身を寄せて小声で言った。「……俺がいなかった時の状況を簡単にまとめて教えてくれ。まさか、何もつかめなかったということはないだろう?」
「ええ。クレドルゴールド・システムを開発した板垣氏と接触できました。他に匿名の情報提供もありました。それに関わる記事も書きあげました。それを読んでもらえば……」
「ヨシ、まず、その原稿を読ませてもらおう。それと、元になった資料を見せてくれ」
その時、有希菜の気配があり、高木は唇に人差指を当てると背もたれによりかかった。
「美味しいコーヒーをどうぞ。今日は、支局長の出所祝いだから、お客さん用の高い豆の方を淹れました」
テーブルにコーヒーと有希菜のおやつ用の茶菓子がならんだ。
「おいおい、出所祝いはないだろう」
高木が笑う。
「エッ、仮出所だったのですか?」
有希菜が目を丸くした。
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