第5章 呵責

第29話

「ユウイチ、大丈夫?」


 朝比奈はアオイの声で目覚めた。普段なら飛び起きるところだが、何故かその日に限って、そうはできなかった。肉体がベッドに張り付いてしまったようだ。


「ああ、もう少し寝かせてくれ」


「私、仕事に行くから。……朝食、ちゃんと食べてよ」


「ああ、食器は洗っておくよ」


 日曜日の朝だった。室内から彼女の気配が消える。


 太陽は当たり前のように登り、西へ歩んでいく。もし、何も知らない人間がたった1人で大地に降り立ち、太陽が地平線の向こうに沈むのを見たら不安になるだろう。しかし、そうならないのは、翌日、太陽が昇るのを知っているからだ。サラリーマンが会社は常に存在し、毎月給料が振り込まれると考えているのも同じだ。


 朝比奈は、そんなことを思いながら、玄関ドアの閉まる音を聞いた。平穏な静寂が訪れる。


 しかし、会社というものが突然倒産することがあるように、ある日突然、太陽が光を失ったり、警察官が現れて連行されたりする可能性を、人間は覚悟しておくべきなのだ。……脳裏を高木の渋い顔が横切った。それが起きられない理由かもしれなかった。


 支局長はどうしているだろう? 仕事ができずに焦っているだろうか? まさか、拷問されたりしてはいないだろうけれど。……ベッドの中でウダウダと妄想していると、自分が自由であることに罪悪感を覚えた。


「そろそろ起きるかァ……」


 声にして背伸びをするのと同時に、枕元でスマホが鳴った。会社から支給されているものではなく、プライベートのものだ。


 発信相手は公衆電話だった。ディスプレーの表示を見て初めて、今でも公衆電話が存在することに気づいて驚いた。


「誰だ?」


 アオイがスマホを忘れたとか、なくしたとかいうのだろうか?……そんなことを考えながら電話を取った。


『午後、時間をいただけないだろうか?』


 初めて聞く男性の声だった。悪事を告白するような、重苦しい声だ。背後からハンバーガー・ショップの音楽が聞こえた。店内にピンク色の公衆電話を置くハンバーガー・チェーンがあることを思い出した。


「どなたです?」


『それは教えられないが、用件は、お宅が関心を持っていることだ』


 何かを密告するということに間違いなかった。


「いいでしょう。で……」


 朝比奈は、見知らぬ男性と会う時と場所を約束した。


 彼はどうしてこの電話番号を知っていたのだろう?……通話が切れてから、スマホを見つめた。それを知っているのは親戚や友人、それから特別な知人だけだ。


 約束の時刻までは十分な時間があった。ゆっくりと朝食をとり、食器を洗い、ついでにシーツの洗濯をしてからマンションを出た。




 密告者との待ち合わせの場所は、駅の近くにある古いビルの展望室だった。そこは東側から、南、西側までの三方がガラス張りになっており、市内の北部を除く大半の景色を見渡すことができた。テーブルとイスが5セット、ベンチが7つほどあるだけの空間で、時折、恋人同士がデートをしたり、高校生が勉強をしている以外、人影はまばらだった。ここに上ってくるのは、景色を見るためではなく、静寂を求める者たちなのだ。


 展望室に着いた朝比奈は時計を確認した。午後3時、約束の時間の10分前だ。変哲もない寂れた地方都市の景色を眺めながら、何故この時間なのだろうと考えた。普通、待ち合わせるなら午後3時や3時30分とするものだ。それを3時10分とするからには意味があるはずだ。


 一番考えられるのは、普段の居場所からここまで10分要するというものだった。密告者は近くにいて、3時までその場を離れられないのに違いない。


 もう一つの可能性があった。電話をかけた時刻には遠くにいて、そこをすぐに出ても、到着は午後3時10分になるというものだ。……いや、まさか。遠くから来る人間が、10分刻みの約束をするとは考えられない。


 想像をめぐらしている間に、1メートルほど離れたところに帽子をかぶったスーツ姿の男性が立った。顔も見ず、声も聴く前から、この人だ、と朝比奈は確信した。帽子が、いかにも怪しすぎる。


「私を見ないでください」


 帽子の男性が言った。声はしわがれていて、反論や質問を許さない力があった。


「私にお話とは?」


「未来倉庫Fの件です……」


 朝比奈の視界の端で、男性は腰をかがめて黒いビジネス鞄を置いた。


「……尾行されている可能性があります。私が出てから30分はここにいてください。お土産を置いていきます」


「私の電話番号を誰に聞いたのですか?」


 男性は朝比奈の質問を無視した。言葉を交わすつもりはないらしい。不自然に背伸びをすると、再び腰をかがめて鞄を手に取り展望窓の前を離れた。


 男が鞄を置いた場所にハンバーガー・ショップの紙袋が残っていた。それがなのだろう。


 朝比奈は後ろを振り返る。そこには密告者も監視者もいない。急いで紙袋を取り上げ、中を覗く。……食べ終えてくしゃくしゃに丸められたハンバーガーの包み紙と、コーヒーの容器が残っていた。


「くそっ」


 かつがれたと思った。しかし、悪ふざけにしては手が込みすぎている。


 思い直してベンチに腰掛け、改めて袋とその中身を確認した。


 袋の外側にも、内側にも、文字を書いた形跡はなかった。ただ、底にレシートが残っていた。もちろんそれにもメッセージのようなものはなかった。


 ハンバーガーの包み紙は照焼バーガーのもので甘ったるいソースの香りがした。コーヒーのカップのふたをはずして中を覗く。そこにはコーヒーの滴が数滴……。


「やっぱりかつがれたのか……」


 言葉が終わる前に考えを改めた。袋の中に入っていたレシートが、東京駅の構内にある店舗のものだったからだ。田舎の記者をかつぐために、わざわざ東京から来ることはないだろう。


 思い切って、丸められたハンバーガーの包み紙を開いてみた。中にはレタスとピクルスが残っていた。


「野菜嫌いかよ」


 あきれてそれを袋に放り込むと、ピクルスがひっくり返った。


 これだ!……叫びそうになるのを、慌てて堪えた。ピクルスの裏側にマイクロSDカードがへばりついていた。


 マイクロSDカードを指でつまみ、後ろを振り返る。お土産を置いて行った男性ではなく、別の誰かが自分を監視しているのではないか、と案じた。しかし、人影はなかった。


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