第20話
支局を出た高木は一旦、自宅へ帰った。賃貸マンションだ。
「ただいま」
声をかけると「お帰りなさい」と、リビングから小さな声がする。
妻の藍子は遮光カーテンを閉め切り、部屋を闇に沈めて音楽を聞いていた。いつものことだ。
「食事にしますね」
彼女はステレオの電源を切ると間接照明をつけた。部屋がほんのりと淡く照らされ、彼女の眼帯をした表情のない顔がぼんやりと浮き上がった。高木の家には明るい照明器具はない。それは藍子の希望だった。「あなたに悪いから」それが部屋を明るくしない理由だった。
10年ほど前、4月戦争による避難民がひしめく名古屋に住んでいた時だった。藍子はストーカーに付きまとわれた。警察に保護を求めると、やけになったストーカーが彼女の顔に薬品を掛けた。藍子の顔は焼けてただれ、左目は失明した。その後、何度かの形成手術で顔のケロイドは取り除かれたが、薬品で壊れた筋肉組織は治ることなく、顔の左半分はひきつったままの状態で固定された。
名古屋を離れたのは高木の仕事の都合だった。その後、子供たちは東京の大学に進学し、今は夫婦だけの生活に変わった。すべて時の流れの成す技だが、彼女にとっては違った。子供たちが家を出たのさえ「私の顔の傷のせいかもしれない」と、言うことがあった。その度に「そんなことはない。子供は巣立つものさ」と応じた。
高木は、屋内を暗くするのは家族のためではなく、藍子自身のために行われていると考えている。明かりに
「今日は早いのね」
藍子が言った。表情同様、声からも感情というものが消えていた。
「ああ、明日から出張に出るから、早めに帰った」
高木はテレビのスイッチを入れて食卓に着いた。夕方の情報番組が流れていた。アナウンサーが飲食店を訪ねて食レポをするのが視聴者の求める情報ならば、だが。
藍子が黙々と料理をテーブルに並べる。どこに行くのか、とは決して聞かなかった。聞いても高木が応えないことを彼女はよく理解している。
「今日、局に家宅捜査が入った」
教えると、藍子が顔の右半分をゆがめた。
驚いたのは家宅捜査が入ったことにではなく、俺が職場のことを話したからに違いない。……高木は妻の気持ちを推し量り、ろくな言葉を掛けられないことを心中、詫びた。
「もしかすると、お前に迷惑をかけることになるかもしれない」
「どういうこと?」
藍子が呆れていた。
「逮捕されるかもしれないということだ」
「罪になるようなことをしたの?」
藍子の口調が厳しくなる。彼女はストーカーに傷つけられてから、犯罪者に対して容赦ない感情を表す。
「いや。していないはずだが……」
「それならどうして?」
「テロ等準備罪法に関わることだ。俺が何をしたかではなく、国がどう考えているかで俺は罪に問われる。古い法律だが、国は便利に使っている」
「そんな……」
藍子が腰を抜かしたようにストンと椅子に座り込んだ。
「藍子には子供たちがいる。1人ではないから心配するな」
「仕事、……辞められないのですか?」
「俺は根っからの記者だ。今も明日も、それからもずっと記者として生きていきたい。そうあるためにも、明日からの出張は重要なのだ」
高木は藍子の手をそっと握った。
食事を済ませた高木が風呂に入っていると、珍しく藍子が顔を見せた。風呂場の鏡は湯気で曇っていて、彼女の顔を映さない。
「背中を流しましょう」
彼女はそう言って、背中にタオルを当てた。
「明日は雨だな」
「どうしてですか?」
「こんなことは10年ぶりだ」
高木が笑うと、つられて藍子も笑う。久しぶりの感覚だった。
「お前も一緒に入るか?」
後ろを見ずに言った。
「私は後にします」
高木の背中を洗う藍子の腕に力が入る。
「……ごめんなさい」
彼女の声は明確な音にはならなかったが、高木はそれを理解できた。
藍子が風呂に入っている間に旅の準備をした。着替えや洗面道具を小さなバッグに詰めるだけのことだ。仕事の道具は車に備えられているし、暇つぶしをするための書籍もタブレットの中だ。念のために着替えを増やし、ノートとペン、ボイスレコーダーと隠しカメラ、予備のメモリーカードなどをバッグに詰めた。
いつになく慎重になっている。…‥高木は苦笑する。出張など珍しくは無かったが普段と違う気持ちになっているのは家宅捜査を受けたからだ。これから事態がどのように展開するか様々な想像はできるが、これだ、というものはない。岡目八目、……他人の事件の結果はかなりの角度で予想できるのに、自分のことになるとあやふやだ。
俺もまだまだだな。……自分を笑う。
久しぶりに藍子と夜を共にしたい。そんな気持ちが生まれたことにも、不安を覚えた。彼女の事件があってから、夫婦の間に男女の関係はなくなっていた。藍子が拒むからだ。
翌早朝、眠っている妻をベッドに残したまま家を出た。
「常磐道、日立中央インターチェンジへ」
オートドライブ・システムに行先を指示し、シートに身体を預けた。街はまだ明けきっていなかった。
車は東北自動車道に乗ると南へ向かう。郡山ジャンクションから磐越自動車道に入り、やがて常磐自動車道に入った。
高木は日立、水戸と回るつもりだった。それから東京で仕事をするつもりだ。目的地のひとつ、新潟へ入るのは四日後になるだろう。
オートドライブ・システムに運転を任せながら、タブレット端末で情報を集めた。時々前方に視線をやるのは、オートドライブ・システムに寝ていると思われないようにするためだ。ドライバーが寝たり死んだりすると、車は安全確保のために路肩で止まってしまう。AIの発達によって便利な世の中になったが、そのAIをさらに
車内で原稿を書くのは楽だった。音声入力するだけのことだ。しかし、高木の音声入力は度々中断した。心の中に引きこもる妻のことを思うと、自分が逮捕されるような事態は何としても避けたい。それで意識がそちらへ向いてしまうのだ。悩める脳細胞の働きは、高速道路を走る車のように軽快とはいい難かった。
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