五十一、私はね、浮瀬くん
金木犀が廊下に散っていた。夢だ。そう気づいたのは懐かしい和風家屋の廊下に自分が立っていたから。廊下に散った花が点々と先へ続いていく。もうこの世界のどこにもない家は短いながらも幸せに溢れていた。
花を追うように歩く。行きつく先はある一室。開かれた障子の前で足を止める。中から浮瀬くんの声が聞こえてきた。
「見て、金木犀」
「綺麗」
どうやら彼が花を集めてこの部屋まで持ってきたらしい。女性の声は弱々しく、浮瀬くんの声は少し震えている。私は壁に背を預けずるずると座り込んだ。何だってこんな夢を見るのだ。
これは、私たちのトラウマだ。
咳の音が聞こえた。それは止む事を知らず隙間風が吹いているような音が耳に入り、浮瀬くんが駄目だと叫ぶ。耳を塞ぎたくなったが、女性の声に私は膝を抱える。
「浮瀬くん」
「駄目だ、もう喋らないで。今医者を」
「聞いてください」
途切れ途切れの声は確かに彼を引き留めた。
「浮瀬くん、あのね――」
目が覚めた。夕暮れが部屋に差し込み赤く染めあげている。布団を握り締めていた手の中に汗が滲んでいた。浅い息を繰り返す度、夢の内容が思い起こされて怖くなった。夢が、夢でなく過去の記憶だと気づいた頃、身体を起こしベッドの上で膝を抱えうずくまる。風が吹きカーテンが揺れる。あれが過去だと分かっているのに気持ちを切り替えられなかった。
「あのね……?」
私は何を言ったのだろうか。思い返しても出て来ない。そもそもあれは過去と夢が混じったのではないだろうか。
だって、何も言った覚えがない。
「あー……」
酷い気分だ。顔を膝に擦り付け気持ちを入れ替えるべく立ち上がった。机に放ったままのスマートフォンが光り輝いているのに気づき画面をつける。着信が数件、浮瀬くんだった。
「え……」
もう二ヶ月ほどまともに話していない彼から連絡が来るとは思いもしなかった私は思わず言葉を失う。メッセージは送られておらず、ただ一時間前から着信が入っているだけだった。
「何で」
跳ねた髪を撫でつけながら返事をしようか躊躇っていたその時、再び電話がかかってきて反射的に取ってしまう。あ、と気づいた時には既に遅く、漏れた声は電波に乗って彼に届いた。
『千歳』
ただ一言。名前を呼ばれただけで何故か鼻の奥がツンとした。久方振りに聞いた声にここまで心を動かされるなど思ってもみなかった。
『今家?』
「家……」
『声が掠れてるけど寝てた?』
「寝て、た」
こんなにも短い会話なのに声音で寝起きだと分かる彼に流石と言うべきか恐れるべきか迷った。
『あのさ、今下にいるんだけど』
「は!?」
『出かけない?』
昨年のクリスマスを彷彿させる状況だった。約束も無しに自宅まで来て、電話一つかけてきては出かけようと言い出す。恐らく莉愛たちに連れてこいと言われたのだろう。皆でお祭りに行く事を彼女は楽しみにしていたから。けれど私の思考とは裏腹に浮瀬くんはこう言った。
『二人で』
「え」
『皆いない。千歳が来ないなら行かないって言ったから』
「何それ」
『行こう、お祭り』
何だそれ。否定して距離を置いて、話してこなかったくせに。私がいなければ行かないなんて今更言うのか。行かないと言いかけたが言葉は音にならず消えた。
『何だよって思うかもしれないけど行こう。話そう』
「今凄い思ってる」
『千歳が諦めてくれないかなと思ったけど、僕の方が先に限界だった』
話そうよ。浮瀬くんの声があまりに切実だったから、私は小さく馬鹿だと呟き笑った。彼は、そうだよ馬鹿なんだよと返してきたから、私も馬鹿だと思い十分と言う。
「十分で支度するから」
『もう一時間待ってるから大丈夫、ゆっくりおいで』
切られた電話に、まさか最初にかけてきた時からずっと待っていたのかと戦慄する。いつも思うが、浮瀬くんは行動が先に出過ぎている。もしくは発言しながら動いている。これで私が家にいなかったらどうするつもりだったのか。
呆れ半分で支度をしながらも、鏡に映った自分の顔がここ最近で一番明るくて、何だかなあと苦笑してしまったのだ。
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