二十三、憶えていますよ、浮瀬くん
隣は眼鏡だ。べっこう飴のような色彩を放つそれは、分厚いレンズを支えていた。小さな兵隊の人形に謎の動物の置物。そして端には本があった。
「本だ……」
無類の読書家である私は本を見つけた瞬間より目を凝らし背表紙の題名を読もうとしたが、書かれているあるふぁべっとを読む事は出来なかった。恐らく中身は英語で書かれた物語である。
「読めないや……」
残念だ。いくら授業で習っているとはいえ、教わる英語はたかが知れている。本を読むほどの教育を受けているわけではない。弟は早くから英語の教育を受けさせてもらっているようだが、父は女に外国語など必要ない。その一点張りだった。
おかげで私はあの本の中身を読む事すら叶わないのである。
ただ読みたいだけなのに。しかし女性に教養は必要ない。男より賢くなるな、強くなるな、一歩下がりいつでも旦那を立てる淑やかで慎ましい女性であれ。これが世界の考え方である。
異を唱えるわけではないが、ただ読む事すら満足に出来ない私の、女性たちの人生は酷く滑稽なものに見えるのは気のせいだろうか。
私たちは物ではないのに。
ふと、中にいた店主であろう人が立ち上がりガラス越しの私に手を振った。外国人であろう、白い肌に黄金色の目の男性だった。ネクタイが良く似合う男性は扉を開きハローと私に挨拶をする。
同じようにぎこちないハローを返したが、男性は中にどうぞと言った様子で扉を支え私を促した。けれど私にその先へ一歩踏み出す勇気は存在せず、ごめんなさいと呟いて急いでその場を立ち去った。
後ろから何か聞こえたのでもう一度振り返って深くお辞儀をする。意味が伝わったかは分からない。
でも私は貴方と同じ言語で話す事の出来ない人間なのです。お金は持っていますが、自由に使えるわけでもないのです。そんな言葉が喉から出かかったが伝わらないように思えて飲み込んだ。
もし、一歩踏み出して中に入れていれば私の人生は少しでも色鮮やかになっただろうか。言葉が分からずとも見るだけで楽しめただろうか。けれどそんな勇気はどこにもなかった。帰ったら妹に、外国人さんと少しだけお話したよと言ってみようか。
彼女は多分、目を輝かせるのだろうけれど。
少しばかりの後悔が募った時、顔を上げた先でいつの間にか金木犀の生垣が終わっている事に気づいた。
「あ……」
帰らなきゃ。あんまり遅いと使用人たちが父に言いつけてしまうかもしれない。焦燥感に駆られ来た道を戻ろうと踵を返した。その瞬間だった。
突然肩を掴まれた。
「え……」
振り返った先にいたのは見知らぬ外国人だった。金色の髪に瑠璃色の瞳の男性は私と頭が二つほど離れていた。男性は笑顔で何かを話しているが私には分からなかった。
ごめんなさい。そう言っても彼は話を続ける。肩に置かれた手は離れる事を知らなかった。
これは、良くないかもしれない。言葉が分からずとも何となく、雰囲気で分かった。この人は先程の店主のように善意から声をかけているわけではない。
上がった口角が決して美しい感情を込めたものではないと気づいた瞬間、背筋に何かが這うような感覚がして冷や汗が零れ落ちそうになった。
怖い。脳を占める感情はそれだけだった。ただでさえ男性との関わりなど無いというのに。父と弟、時折あるお見合いの相手。それも全て接触するような事が無かった。こんなにも男性の力が強いなんて知らなかったし、怖いと思う事もなかった。
どうしよう。怖い。どうしよう。
そればかりが頭の中をぐるぐる回る。男性がもう一度何かを言った時、弾き飛ばされたように私の足が動いた。どこに向かうなど決めていない。
けれど早く、この場から離れなければ。この人の前から消えなければ。足は動く。袴の裾が下駄に引っかかって転びそうになるのを耐え両手ではしたなく裾を持ち上げる。
無我夢中だった。後ろなんて見れないほど走った。息が切れ、もう走れない。そう思った時視界の先に鳥居が映った。神社だ。こんな所に小さな神社があるとは。石段を駆け上がる最中、左腕が掴まれた。
振り返った先には男性がいた。先程の外国人だ。私を追ってきたのだろう、笑みを浮かべていたはずの顔は険しくなり私に怒っているのが分かった。
怖くなって離してと言いながら腕を強く振りほどこうとした。けれど力が強く離れる事はない。やがて男性の片手が私の頬に触れた。
嫌だ、怖い。叫びたいのに凍ったように固まって声が出ない。
身体が震え息が浅くなる。目尻から涙が零れた時、こんな事なら寄り道などしなければ良かったと酷く後悔した。
瞬間だった。
「おい」
男性の背後から声が聞こえた。恐る恐る目を開けると、男性の肩に手が乗っている。その手は強く肩を握り締めた後、強引に男性を自分の方向に向かせた。
肩を掴まれていた私は男性が後ろを向いた事で手が離れ、驚きのあまりその場にへたり込んでしまう。震える身体を抱きしめ、恐る恐る前を見た。
聞こえたのは異国の言葉だった。恐らく英語だろう、目の前の男性と隠れて見えないが声音からしてこちらも男性だろう、二人が何かを話している。外国人の男性は身振り手振りで何かを伝えていたが、もう一人の男性がそれを制した。
数分ほど話しただろうか、外国人の男性は舌打ちをして消えていった。
目の前にあった大きな背中が消えた時、その人と目が合った。
「大丈夫ですか?」
私の前にしゃがみ込んだその人は、黒い帽子を被っていた。隙間から見えた髪は日本人なのに栗色だった。垂れた目に優しそうな顔、釦つきのシャツの上から深い緑の着物を着て片手に持っていた布製の薄汚れた鞄を石段の隅に置いた。
男性は、私を見て大きく目を見開いた。そしてあっという間に頬を赤くして慌て始めた。
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